連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

日本橋

地下鉄銀座線の三越前駅で地上に出ると、再開発のまっただ中にある日本橋の街が拡がっている。

それまでの建物がなくなると、以前そこに何があったのか気になるものだが、現在の日本橋がまさにそうだ。建設中のビルの向こうに、別の建設現場のクレーンが顔をのぞかせ、四方八方工事中の囲いの奥から金属的な音が聞こえてくる。

数年後、街の様子は様変わりしているだろうが、そもそも日本橋は江戸形成という大きな変化の中で誕生したことを思うと、この街にとって変化は宿命なのかもしれない。

「橋はどこだろう……」

先端部分が見えないほどの高層ビルを見上げていたら、一瞬方向を見失う。

視線を下に戻し、落ち着いて周囲を見回す。すると、頭上を横切る首都高速道路の高架壁に、「日本橋」の文字を見つけた。橋はその下なのだ。

私はこれから東海道を自分の足で歩いていく。未知の旅を前に高揚した気持ちで橋の前に立ったせいか、景観を邪魔している頭上の首都高速が、以前ほど気にならない。空想の世界なら如何様にもできる。

「いっそ頭の中で、首都高速を消してしまえばいい」

そう思って橋に目をやると、日本橋は思いもよらず優美だ。

花崗岩でできた石橋。二重のアーチを描き、四隅には青銅の獅子を乗せた橋柱が立っている。五十メートル近くある橋の両端と中央には、一里塚にちなんだ松と榎を施した燈柱が置かれ、華やかな雰囲気を添えている。現在の日本橋は、明治四十四年(一九一一)の再建。それまでは木橋だった。明治の近代化の象徴だが、そこで江戸時代の名残に目が留まった。

四隅を飾る青銅の獅子が乗せられた石の土台に、銘板が埋め込まれている。東海道の進行方向に向かって右は漢字で「日本橋」、左はひらがなで「にほんはし」と書かれているが、この字は橋の架け替えの際、徳川慶喜に依頼して書いてもらったものという。慶喜が亡くなったのは大正三年(一九一三)。ということは、これは最晩年の字だ。

江戸の中心として、また江戸時代の交通網の起点として賑わい続けてきた日本橋。その文字を記すとき、慶喜の脳裏に過ぎったのは、自分の代で江戸時代が終わったことへの悔恨だったのだろうか、それとも新しい時代への希望だったのだろうか。端正な筆致から、本心を読み取るのは難しいが、未来への期待が込められていると思いたい。

日本橋はなぜ日本橋と言うのか。それにはいくつか説があるらしい。ここに全国から人や物や金が集まったからとか、橋の上から朝日を拝むことができたからとか、橋を普請した際に全国から人が集められたからとか様々で、三浦浄心による『慶長見聞集』に、平川(日本橋川)の工事のため全国から人が集められたとあるので、その可能性が高そうだが、いままさにここから東海道を歩きだそうとしている私には、街道を通じ日本橋から全国に拡がり繋がっていくこの橋の実態が、日本橋の由来に思える。

日本橋何里何里の名付け親

日本橋どこへゆこふがすきなとこ

『川柳江戸名所図会』に、こんな川柳がある。ここから思い浮かぶのも、全国各地に拡がりゆく日本橋だ。

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