旧東海道とはいえ、当分は大都会の道だ。海外の高級ブランド店が並ぶ賑やかな銀座の街を抜け、新橋、浜松町、田町と、交通量の多い国道十五号線(第一京浜)を足早に進むと、石垣の上に樹木が茂った高輪の大木戸跡が見えてくる。
大木戸は宝永七年(一七一〇)、江戸の治安維持のために設置された関所のようなもの。現在は進行方向左手の石垣しか残っていないが、かつては街道の両側に石垣があり、その間に柵門が設けられていた。江戸時代ならここを過ぎるといよいよ旅の気分が高まってきただろうが、現代の旅人には、大木戸を過ぎても依然そこは大都会東京の内。コンクリートに固められた風景は、この先まだ当分の間続く。
品川といえば、二〇二七年に開業予定のリニア中央新幹線の始発・終着駅になることが決まっている。まだ十年も先の話だが、こんなニュースを耳にすると、時代を問わず品川は交通の要衝であり続けているのだなとつくづく思う。
たとえば古代、品川には古東海道の大井駅が置かれ、武蔵国府(現府中)の津は品川付近にあったと言われている。中世になり太平洋海運が盛んになると、品川は湾内でも有数の湊として栄えた。品川湊は目黒川河口にできた砂州を利用した天然の良港。かなりの規模で、湊町には中世すでに宿場的な機能が芽生えていた。
家康による近世の品川宿は、そうした中世の宿場町を元に造られたもので、江戸に近いこともあって、宿泊というよりむしろ休憩に多く使われたが、逆に江戸に近いために江戸の庶民たちの遊興の場としても栄えた。江戸時代の品川が吉原に次ぐ色街であったり、桜や紅葉の名所であったことは、意外に忘れられている。
人混みをかき分けるように品川駅前を過ぎると、旧東海道は御殿山に向かって上り坂に変わる。その麓に位置する北品川商店街に、江戸時代品川宿が置かれていた。南北に長い旧道沿いには、魚屋に八百屋、畳屋に金物屋、食事処、スーパーなどが引きも切らず続いている。大半は新しい建物だが、品川は戦災による被害が少なかったとみえ、ときおり懐かしいたたずまいの店が目に留まる。
タイル貼りの壁と青銅の屋根が目を惹くのは、大正時代からの金物屋で、所狭しとあらゆる金物が並んでいる。東京ではあまり見かけなくなった畳屋からは、藺草の香りが漂う。小さなビルの前には、ゲストハウスの看板。布団と机、照明だけの簡易宿泊所で、一泊三千円からと格安、品川宿時代の旅籠を思わせる。
高層ビルばかりだと思っていた品川に、思いがけない庶民的な顔がうかがえる。しかもあちらこちらで目にする説明表示から、町全体で宿場時代の記憶を留めようという心意気も伝わってくる。朝早いこともあって、人通りは少ないが、店が開く時間になれば、地元の人で賑わうのだろう。
こういう道は歩調が自然と緩やかになる。左右に目を向けながら、散歩気分で歩くこと十数分、南北に長い商店街の、中ほどまで来たころだろうか。ふと右を見ると、品川寺の参道に鎮座する、大きな地蔵菩薩座像に目が留まった。
台座の上に乗っているので、余計見上げるようになるが、像自体も三メートル近くありそうだ。大都会品川にも、こんなお地蔵様があるのかと、嬉しくなって眺めているところに、カメラを首から下げた初老の男性が近づいてきた。
「江戸六地蔵の一番目ですよ。この前の道は旧東海道でしょう。他のお地蔵さんは、中山道や奥州街道、甲州街道沿いのお寺にあります。丈六のお地蔵さんをということで、同じころに造られたので、どこも皆似てますけど、ひいき目なのかここのが一番よく見えます」
その人は歴史好きが高じて、品川のボランティアガイドをしており、ちょうど境内の銀杏が見頃なので、休みを利用して写真を撮りにきたのだという。
境内に足を踏みいれると、二十メートル以上もありそうな銀杏の大木が、空を覆わんばかりに黄金色の葉を拡げている。
「見事でしょう。樹齢六百年だそうです」
「ということは、このお寺もそのころの創建ですか?」
「いえ、ここは空海が開いたと言われてるから、平安時代の初めです」
平安時代の品川といえば、大井駅の時代だ。空海開基が事実かどうかは別にして、古刹の存在は品川が古くから開けていたことの証だろう。
「そういえば、ここに来るまで三つ四つお寺があって、意外だなと……」
何気なく言った私の一言に、その人の目が輝いた。
「品川には寺が多いんですよ。ちょっと北には天妙国寺、南には海雲寺でね。旧東海道沿いだけじゃなくて、第一京浜の方にもたくさんあります。立派な寺町ですよ、品川は」
庶民的な商店街に続き、品川に対して抱いていたイメージが、良い意味で裏切られていく。
興味深いのは、ここ品川寺は別にして、品川にある寺の多くは中世の創建で、宗派も多岐にわたり宗教都市さながらだったということだ。
中世といえば、品川の湊が発展した時代だ。船で品川にやってきた中には、布教目的の人もいただろう。あるいは航海安全への願いが、寺の建立に繋がったかもしれないが、何より寺の開基を後押しする町の力が欠かせない。品川に林立する寺院は、中世品川湊の発展を物語っているのだろう。
「天妙国寺には行かれましたか?」
そう聞かれ、どの寺だろうと記憶の糸をたぐり寄せていると
「一見新しそうな寺です」
というので、思い出した。墓地募集の看板ばかりが目についたので、朱色の山門の奥を少しのぞいただけで、素通りに近かったが、何でもその寺は鎌倉時代の創建で、当時は五重塔が聳える大寺だったという。
「天妙国寺の七堂伽藍整備に関わったのは、その時代有徳人として知られた鈴木氏でしてね。鈴木氏は室町時代、熊野から船で品川にやってきたらしく、道永、道胤、源三郎の三代にわたって廻船業や金融業などで財をなし、品川の発展を支えたんです」
鈴木氏三代の中で、とくに道胤は交流が広く文人肌、京都から連歌師を招いて連歌に興じたというから、当時の品川は何と文化的に豊かだったことか。
それにしても、熊野からはるばる渡ってきた鈴木氏が、中世の品川の繁栄を先導することになったのだから、海の道は思いがけない場所と場所を結びつけるものだ。
中世の品川には、鈴木氏以外にも熊野方面から品川に渡り、品川湊の発展を支えた人がいたという。彼らはもともと熊野権現に奉仕する熊野地方の豪族だった。最初品川に渡ったのは、熊野信仰を広めるためだったろうが、それをきっかけにして品川に根を下ろしたその子孫たちが、中世品川の発展を支えることになったということだろう。
「もう少し南にいくと、鮫洲に出ます。そこに、鮫の腹から出てきた観音像をお祀りする海晏寺という寺がありますが、その寺を支えたのは榎本氏といって、鈴木氏と同じ時代に熊野から来たようです」
海晏寺は江戸時代紅葉の名所として聞こえた場所だが、山号が補蛇落山というから、いかにも熊野との縁を感じさせる。急ぐ旅でもない。その海晏寺にも立ち寄っていこうか。
東海道は東の海の道と書く。
東海道は陸の道だけでなく、こうした海の道も含めて「東海道」なのだ。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。
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