連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

川崎

交通量の多い国道を早く抜けたい一心で、多摩川を目指した。多摩川を越えれば神奈川県、六郷橋りくごうばしの袂からかつての川崎宿に入る。旅人にとって多摩川は最初の境界、最初の小さな目標だが、一刻も早くと私を駆り立てたのは、国道に充満する排気ガスのせいだった。

品川を出てからおよそ二時間、六郷橋に到着した。現在の多摩川に渡船場の面影はないが、都会の川にしては河岸に自然が残り、葦や薄が風に揺れている。かつてこの川を行き交った船の様子を思い浮かべながら、ほっと一息ついて多摩川の流れに目を落とした。上流の御岳渓谷のような瑠璃色の水面みなもには及ばないが、都会を流れる多摩川下流も、秋晴れの空の下で透明な色をしている。ようやく出会えた自然の風景。風に吹かれ、鼓動を鎮めた。

多摩川の下流には川崎大師がある。正式には平間寺という真言宗の寺で、その縁起に漁夫の平間兼乗が夢のお告げで海から弘法大師像を引き上げ、大治三年(一一二八)海辺に小庵を建ててお祀りしたのに始まるとあり、海の向こうから信仰が伝わった様子が垣間見える。江戸時代には、厄除けに霊験あらたかというので、江戸から大勢参拝者が押し寄せた。それが川崎宿の経営を支えたこともあるように、川崎にとって重要な寺だ。

このまま橋を渡っても、現在の川崎に宿場時代の名残があるとは思えない。しばらく殺風景な大都会の道を歩き続けたので、寄り道をして気分を変えてみたくなり、川崎大師へと道を逸れることにした。

参道の両側に並んだ土産物屋で次々に菓子の試食を勧められながら境内にたどり着くと、平日の午前中というのに境内は賑わい、参拝者が引きも切らずに本堂に入っていく。本堂が東を向いているのは、海を意識してのことだろう。そういえば今日は二十一日。これからいくつか行事があり、縁日も立つようだった。

創建の由来となった弘法大師像は秘仏で、十年に一度だけご開帳になるというから拝観はできないが、その像が祀られている本堂に入ると、中は一転静かな祈りの場に変わり、しばらくして婦人会による祈祷が始まった。鉦でリズムを取りながら、口から紡がれるその祈りは音楽のようだ。堂内に響くその声に耳を傾けているうち、ここが大都会川崎という感覚が次第に薄れ、どこか山中の聖地に身を置いているような気分になっていく。

江戸を出た庶民は、多摩川という境界を越え、川に沿った大師道を歩き、川崎大師に向かったが、境内の周りには用水路があり、そこに架かる橋を渡らないと境内に入れなかった。その橋は九境の橋と呼ばれていたというから、川崎大師は九品浄土に見立てられていたのだろう。江戸の人々にとって、川崎大師にお詣りに行くというのは、浄土の世界に渡る感覚に近かったのかもしれない。私は楽をして川崎駅から電車でやってきたが、ここが心理的に別世界だという感覚は、たしかにいまもある。

    

 

川崎大師へのお詣りの後、すぐ東海道に戻ってもよかったが、せっかくの機会なのでもう少し周辺を歩いてみることにした。

実は先ほど車内で地図を眺めながら、川崎の新田開発をした池上氏にちなんで付けられた池上町や池上新町という地名を見つけ、気になっていた。

池上氏といえば、鎌倉時代、初代宗仲の代に館があった場所に池上本門寺(東京都大田区)を建立したことが知られるが、江戸時代、二十一代幸広が一族郎党を引き連れ川崎の大師河原に移り住み、その後代々臨海地の干拓や新田開発に力を注いできたというように、川崎と縁が深い。川崎大師から南に五百メートルほど行くと池上新町。早速そちらに向かった。

池上新町は、町の中央を首都高速と産業道路が通り、東側は完全な工場地帯、そのほかはどこにでもあるようなごく普通の住宅街で、ここが新田開発によって生まれた土地だということは微塵も感じられない。現代にあってはやむを得ないが、産業道路西側の住宅街を歩いていると、「池上幸豊翁之碑」と刻まれた大きな石碑に目が留まった。

そこは汐留稲荷神社の境内。御由緒に目をやると、御祭神は豊宇気姫命とようけひめのみこと、大物主大神のほか、二十四代の池上幸豊とある。

池上幸豊は、享保三年(一七一八)大師河原の生まれ。新田開発に加え、精糖法の開発、製塩、梨や葡萄といった果樹栽培など、川崎の各方面の殖産興業に大きく貢献、しかも収益を村普請の資金や村人への貸し付けに回し、農民の生活を救った篤志家でもあった。近世川崎の発展に大きく貢献した人物、ということらしい。

幸豊の石碑を眺めていると、

「ここはもともと池上氏の屋敷があったところなんですよ」

と、地元の人らしき初老の男性が教えてくれた。

神社は初め海に近い塩浜にあったが、後にここに遷されたのだという。詳しい時代や理由はわからないが、池上幸豊が亡くなった後だろう。

それはともかく、塩浜という地名が出てきたので、ひょっとしてと思い尋ねてみた。

『江戸名所図会』の川崎のところに、塩を焼く風景が描かれている。さすがに現在川崎で塩は作られていないが、歳のころ八十ぐらいのその人の記憶の片隅に、川崎の塩のことが残っているのでは、と思ったのだ。

「川崎の塩田は、明治にはもうなくなってますよ。記憶にあるのは、海苔です。子供のころは、この辺に小さな川が張りめぐらされててね。海苔を採った船がここまで入ってきたんです。川には鰻やはぜがいたし、海まで行くと浅蜊や蛤がバケツ一杯採れたね。春には雲雀、秋には蜻蛉。上を見れば蜻蛉が空を埋めつくしてた。早朝には朝靄がふわーっと立ってね。いまでもその光景が目に浮かぶねぇ」

「川ですか?」

「ああ、そうですよ。そこの道も、あっちも川だった」

昭和八年生まれというその人は、堰を切ったように子供時代の川崎の様子を話し、最後に一言つぶやいた。

「長生きするのもどうなのか。あまりにも変わってしまって…」

朝靄の立つ川が流れる川崎を知っている人にとって、現在の臨海部が見るに耐えないのは当然だろう。川崎が激変したのは、ちょうど私が生まれた時代だ。五十年は長いとも言えるが、歴史の流れの中ではわずかな時間に過ぎない。その間に起きた川崎の、とくに沿岸部の変化を思うと、急に恐怖が頭をもたげた。

川崎大師駅近くに池上一族の墓があると聞いた。池上氏が川崎を開拓した当時からの変貌は、もはや私の想像の域を超えているが、池上氏の尽力があっていまの川崎がある。墓に詣でた後、また東海道に戻った。

川崎駅前の砂子いさご交差点が江戸時代川崎宿の中心だった場所。表示がかつての本陣や問屋場の存在を教えてくれるが、ビルの建ち並ぶ繁華街に宿場の面影は皆無だ。

信号が変わり、人が一斉に動き出す。一瞬ぼぉっとしていた私は、気がつくと人の流れに押し出され、人の大海に放り出されている。

「語り継いでいかないと、歴史は消えてしまうからね」

先ほどの男性の言葉が脳裡に立ち現れたが、またすぐに雑踏の音にかき消された。

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。

 

 

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