鶴見駅前の賑やかな商店街を抜けると、生麦に入る。
そこでまず目に飛び込んできたのは、街道の両側に並ぶ数十軒の魚屋だった。生麦魚河岸と言うらしい。昼過ぎでほとんどが店をたたみかけていたが、ちょうど一軒だけ開いている。どんな魚があるのだろうとのぞいてみると、「穴子に蛸に秋刀魚に鯖。青柳や赤貝、浅蜊なんかの貝も多いよ」とのこと。
江戸時代、将軍家に海産物を献上する代わりに、漁業に関する特権を与えられた浦があった。御菜八ケ浦と呼ばれ、品川や羽田がそうだったが、生麦もその一つで、定期的に江戸へ魚介類を献上した。
御菜浦の特権で支えられてきた生麦浦は、村の四分の一にあたる六十軒ほどが漁業を生業としていたが、明治になると貝類の養殖に切り替わった。これが成功、鶴見川河口付近には貝の加工工場ができた。そうした当時の名残だろう、お稲荷さんの参道や路地裏に細かく砕けた貝殻が混ざり、日ざしを受けて白く反射している。
生麦事件の碑を過ぎると、旧道はすぐに国道(第一京浜)に合流する。東海道線、京浜急行線、新幹線、さらには首都高速といった現代の交通網が束ねられたこのあたりは、交通量も多く、歩く身には少々辛い道。しばらくは史跡もなさそうなので、早く通過してしまおうと速度を上げぐんぐん進む。
浦島町と書かれた表示に目が留まったのは、そんなときだった。地図を見ると、浦島町の北には亀住町が、亀住町の北には浦島丘もある。
品川では鮫が観音様を運んできたし、実際鯨もやってきた。川崎では弘法大師像が海の向こうからやってきた。ここでは浦島太郎だろうか…。
最初冗談交じりにそんなことを思ったが、こうもあちこちに浦島太郎にちなんだ地名があると気になる。調べてみると、蓮法寺という寺に浦島太郎とその父の供養塔があるらしい。
東海道の神奈川で浦島太郎とは、思いがけない。
蓮法寺は少し戻った子安駅の北にある。少々遠いが、退屈を断ち切りたいという思いに背中を押され、その寺に向かった。
急な石段を上がると、山門には亀と波の紋、山門手前に供養塔が二基建っている。囲いがしてあり近づけないが、供養塔の間には亀の形をした石像も見え、いかにも浦島太郎にゆかりの寺らしい。
説明によると供養塔三基とあるので、亀の石像も供養塔ということのようだが、手前にある他の像に隠れてしまってよく見えない。体をひねってのぞき込んでいると、寺から出てきた初老の男性に声をかけられた。
「浦島太郎関係の場所を回ってるんですか?」
「いえ、東海道を歩いてたら浦島町とあったので、来てみたんですけど、浦島太郎関係って他にもあるんですか?」
そう尋ねたところ、神奈川には浦島太郎が足を洗ったと伝わる川や井戸がある上、浦島太郎にゆかりの寺は他にもあるのだという。
いま目の前にある供養塔は、かつてこの付近に広大な寺域を有していた浦島寺と呼ばれる観福寺にあったもので、そこには浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったと伝わる観音像もお祀りされていたが、慶応四年(一八六八)に寺が火災で焼失し、近くの慶運寺に観音像を移すことになった。そのため現在浦島寺といえばこの慶運寺のほうを指すらしい。本来の浦島寺(観福寺)は焼失後再建されないまま、大正の末に現在地に移ってきた蓮法寺が供養塔を管理することになった、とそのようなことだった。
それにしても、神奈川に浦島太郎とその父の供養塔や、浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったという観音像があるのは、どういった経緯なのだろう。浦島太郎の話は丹後が舞台のはず。実際丹後半島には浦島太郎に関係する地名や神社が残っている。だが神奈川のここにも浦島太郎にゆかりある地名がある。どういうことだろうと思っていると、その男性は神奈川に伝わる話を教えてくれた。
「浦島太郎の父は相模の人で、太郎は赴任先の丹後で生まれたんです。竜宮城から戻ってきた浦島太郎は、里の様子がすっかり変わって両親もいないことに驚いて、持ち帰った観音さまに祈りを捧げた。すると夢にその観音さまが出てきて、『私を背負い相模に行くように』と告げたんですな。で、太郎は早速三浦半島に行くと、そこで浦島家の子孫に出会って、武蔵国に墓があると教えられるんです。さらにそちらに向かったら、塚のように高くなったところで急に観音さまが重くなって、そこが父親の眠る場所と悟った、という話で、塚のように高くなったところというのが、まさにこの高台周辺なんですよ」
なるほどここは、全国各地に伝わる浦島太郎伝説地の一つということらしい。
浦島太郎の話は、古代に強大な力を持っていた丹後の国で、豪族たちの始祖とされてきた、浦嶋子についての伝承が元になっている。それが『日本書紀』や『万葉集』、『丹後国風土記』に取り入れられ、さらに後の鎌倉時代から江戸時代に『御伽草子』の「浦島太郎」となって広く知られるようになった。ここ観福寺の歴史は室町時代に遡ると言われている。とすれば、浦島太郎の話が神奈川に伝わった背景には、『御伽草子』の広まりが関係していたかもしれない。
東海道を歩いていると、海こそ見えないが、その存在は感じることができる。一笑に付されそうだが、神奈川に浦島太郎の話を伝えたのは、丹後の海人を祖先に持つ人だったのではないか、あるいは浦嶋子の子孫その人だった可能性もあるのではないかと、つい空想好きの性分が頭をもたげた。
後になって、天保十二年(一八四二)編纂の『新編相模国風土記稿』の三浦郡西浦賀に、次のような記述があると知った。
浦島清五郎は、旧くより当所に土着せし民にて、近隣の着姓にして、丹後国の住人、浦島太郎の遠裔なりと云う・・・小田原北条氏分国の頃は浦島和泉と称し、当郷の大庄屋 なり
古代人の行動範囲は、現代人が考えている以上に広範囲に及ぶ。いつの時代かはわからないが、丹後から神奈川に浦嶋子の子孫が移り住んだ可能性は十分あるだろうし、もしかしたらいまも神奈川周辺のどこかにいるかもしれない。
そう思うと、夢が膨らむではないか。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。