連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

保土ケ谷

かつて相模国と呼ばれた地域は、ほぼ現在の神奈川県に相当するが、保土ヶ谷は相模国ではなく武蔵国だった。

日本橋から保土ヶ谷まではおよそ三十四キロ。随分歩いてきたのにまだ武蔵国なのだから、大変な旅を始めてしまったと少々気弱になってくる。

何はともあれ、武蔵国と相模国の境界まで頑張ろうと、無心で住宅街の中の旧道を歩いていると、保土ヶ谷宿の江戸方見付まであと数百メートルというところに「追分」の表示を見つけた。久しぶりの表示。駆け寄ってみると、そこから細い道が分岐している。ごく普通の住宅街の道なので、表示がなければ素通りしたところだったが、この道は八王子道、通称「絹の道」で、横浜開港によって大いに賑わった歴史の道と知った。

横浜の開港は安政六年(一八五九)。その前年に締結した日米修好通商条約で神奈川の開港が定められると、アメリカは神奈川の本覚寺に、フランスは慶運寺にそれぞれ領事館を置いたが、神奈川は東海道沿いのために交通量が多く、諸外国と衝突する危険があったことから、日本側は当時まだ寒村だった横浜を開港地に変更した。そこで最も多く取引されたのが生糸だった。

八王子は甲州街道の宿場町でもあり、甲州街道のほか群馬、埼玉、山梨諸方面からの街道が集まる交通の要衝だったことから、周辺地域で作られた大量の生糸が八王子に集まってきた。横浜開港はそんな八王子にとっても追い風となり、それまで静かだった八王子と保土ヶ谷を結ぶ街道が俄に活気づき、生糸を運ぶ商人たちが頻繁にここを往来した。

ところが明治二十二年(一八八九)に現在のJR中央線に相当する甲武鉄道が開通、さらに明治四十一年(一九〇八)にはJR横浜線に相当する横浜鉄道が開通したことで、生糸の輸送は完全に鉄道に切り替わり、絹の道はわずか半世紀で役目を終えた。

道にも栄枯盛衰がある。

 

「特売!安いよ、安いよ!人参六本で百円、茄子は十本百五十円!!」

「持ってけ、持ってけ!!これからタイムサービスだ!」

突然の威勢の良いかけ声に驚く間もなく、たちまち人混みにのまれた。

旧東海道沿いには八百屋に魚屋、乾物屋と、あらゆる商店がひしめき、両手にたくさんの荷物をぶら下げ、商品を物色する人々であふれかえっている。

とある八百屋では、空になった箱が次々と屋根の上に放り上げられていく。つぶしている間もないのだろう。呆然と立ち止まっていると、「ちょいとごめんよ」とすぐ脇を大きな荷物を持った男性が通り抜けていく。

そこは「ハマのアメ横」と呼ばれる松原商店街。すぐ近くに駅があるような場所でもないのに、この賑わい。それこそ年末のアメ横さながらの活気、すさまじいエネルギーに圧倒される。

ここは戦後、米軍車輛置場だったが、昭和二十四年(一九四九)に接収が解除され、翌年から次々に店が出来ていったのだという。良いものが安く買えるとあって、近くに出来た大型スーパーに負けない集客らしい。

あっけに取られているうち、やがて商店街が終わり、また静かな東海道に戻った。

    

しばらくして、保土ヶ谷宿が置かれていた保土ヶ谷駅の商店街に入る。宿場町は、駅の西側の商店街から国道一号線にかけての一帯にあった。現在そこは、ごく普通の商店街。宿場時代の面影は残っていないが、旧道が国道一号線に突き当たったところに本陣跡の表示を見つけた。塀に建築計画の掲示が出ているので、近いうちに取り壊され、風景も変わるのだろう。

やがて旧道は、権太坂に入っていく。権太坂は一番坂、二番坂と、険しい坂がおよそ一キロにわたって続いていたことから、東海道を西に向かって歩く旅人が最初に出会う難所で、昔はそこで命を落とす人も多かった。実際、行き倒れた人や馬を葬った投げ込み塚の穴と多数の骨がこのあたりから見つかっている。

現在の権太坂はというと、勾配がきついとはいえ、険しいというほどでもない。開発の過程で削られたのかもしれないが、むしろ現代の旅人にはこのくらいの坂があった方が、街道歩きに変化がついてよい。

息がはずむこともなく坂を上りきると、ようやく国境越えだ。待ちに待った相模国。武蔵国と相模国の境界に立つ表示をカメラに収めると、気持ちも新たに相模国に一歩を踏み出した。

相模国の東海道は、焼き餅坂という急な下り坂で始まる。坂続きのこのあたり、かつてここに焼いた餅を売る店があったので、そう呼ばれるようになったという。昔は切り通しのような道だったのだろう、土手は蔦や苔に覆われ、急に緑が増えた旧道には、石仏も残る。気づけば、高い建物も視界から消えている。少しずつ、だが確実に、大都会臭が失せ、土地固有の香りが立ち上り始めている。

しばらくして道の両側に高く盛り上がった塚のようなものが現れた。その上には木々が鬱蒼と茂り、旧道を両側から覆っている。

品濃の一里塚。日本橋を出てから初めて目にする、原型を留めた一里塚だ。相模国に入ってすぐ、こういうものに出会えるとは幸先がよい。

一里塚の先にも、勾配の急な品濃坂が待っている。そこを下れば、戸塚宿も近い。

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。

 

 

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