連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

戸塚

鎌倉古道とか鎌倉街道と呼ばれる中世の道がある。鎌倉時代に、周辺諸国の武士たちが鎌倉へ赴いた道だ。よく知られるのは上の道、中の道、下の道だが、中心になったこれら以外にも、鎌倉に通じる間道や脇街道は多く、広い意味でそれらすべてが鎌倉街道といえる。後北条氏時代の保土ヶ谷・藤沢間の道も、広義の鎌倉街道と呼んでも差し支えないだろう。

戸塚宿の江戸方見付まで間もなくの柏尾というところで、鎌倉街道の史跡に出会った。

脇道の奥、こんもりと木の茂る高台を上っていくと、そこは護良もりよし親王をお祀りする王子神社だった。

護良親王は、南北朝の戦乱の中、父後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕に協力し父を助けたが、倒幕後の新政下で足利尊氏と対立、讒言ざんげんにより謀反の罪で鎌倉東光寺の土牢に幽閉され、後に殺害されたと伝わる。

木々の茂る薄暗い境内でお詣りしていると、犬を連れた小柄な初老の男性がやってきて、私と入れ替わりに拝殿に向かって手を合わせた。熱心なお詣りの仕方を見るともなしに見ていると、お詣りを終えこちらを振り向いたその人と目が合った。軽く会釈をした後、「本殿の下に、護良親王の首が埋められているんです」と、その人はぽつりと言った。

御神霊ではなく首とは、ずいぶん生々しい。

どういうことかと聞いてみると、鎌倉の東光寺で足利義直の家臣に命を奪われた護良親王の首を、仕えていた侍女が盗み出し、この地の豪族に救いを求めて逃れてきた。その首を井戸で洗って清め、この王子神社に葬ったということらしい。

「あそこに木の切り株があるでしょう。埋葬するまでの間、その松に隠しておいたらしいですけど、木は落雷でやられてしまったんで、こんな風になってるんです」

男性は古びた木の切り株を指した。

その話が事実なら、侍女はまさに鎌倉街道のどれかを通ってここにやってきたことになる。地図を見ても、鎌倉とこの場所を直接結ぶ道は見当たらないが、柏尾から鎌倉にかけての丘陵を抜ける、道とも言えないような道だったのかもしれない。

「そうそう、これはご覧になりましたか」

続けてその男性は手水舎の方を指した。

「建武中興六百五十年を記念して、吉野で掘り出した石でしてね。柱は吉野桧です」

建武中興六百五十年は昭和五十九年(一九八四)、バブル経済が始まろうかという浮き足だった時代だ。南朝への思いが強い吉野ならまだしも、そこから遠く離れた戸塚の王子神社で、こうして親王の功績を称え、霊を慰める行事が続いていたというのだから驚く。

ちなみに親王の首を盗み出したのは侍女ではなく、寵愛を受けていた雛鶴姫という説もあり、山梨県の都留には、護良親王との間にできた皇子を出産後、産後の肥立ちが悪く、命を落としてしまった雛鶴姫をお祀りする神社もあれば、それこそ復顔術が施された護良親王の御首級みしるしをお祀りする神社もあるという。山梨の都留にこうした伝承があるのは、親王の首を持った一行が、東海道ではなく東山道を経て京都に向かったということで、鎌倉から延びる道には興味が尽きないが、それはともかく後者は石船神社といい、御首級は都留市指定有形文化財になっているというから、確かにそういうものがあるのだろう。

余談だが、都留にある雛鶴姫をお祀りする神社の集落では、師走に亡くなった雛鶴姫の御霊を弔い、松飾りをはずして樒の枝を立てたことから、現在も正月に松飾りをせず樒を飾る習慣が残っているという。これはまさに、伝承が信仰の域に達しているということではないか。

親王の首は戸塚ではこの王子神社に、都留では石船神社にお祀りされていることになっている。どちらが本当なのかわからないし、そのどちらも本当ではないのかもしれないが、こういう話を聞くと、各地で現在まで受け継がれてきた南朝への思いの丈に心動かされずにはいられない。

神社の近くに護良親王の首洗い井戸があると聞いた。そこに詣でた後、東海道に戻り、戸塚を目指し先を急いだ。

街道沿いのステーキハウス前に江戸方見付の表示、戸塚宿はそこから始まっていた。吉田大橋を渡ると、やがて道は戸塚駅前を過ぎ、かつて宿場の中心だった場所に入っていく。

戸塚にも宿場時代の面影はなく、ごく普通の現代の町並みが続いている。途中いくつかの神社にお詣りに立ち寄るも、あっという間に上方見付の表示が現れ、道は次第に上り坂に変わった。

保土ヶ谷から戸塚に向かうまでの間、権太坂を上り焼餅坂と品濃坂という二つの坂を下ったが、戸塚を過ぎてもまた坂だ。

ここの坂は大坂という。名前の通り大きな坂で、かつては一番大坂、二番大坂と三段階に分かれる急坂がおよそ一キロにわたって続き、荷車は助けを借りないと上がれなかったという。

現在の大坂は昭和初期に削られたおかげで権太坂同様それほどきつくないが、こうした坂の存在から戸塚宿成立の歴史が思い出された。

東海道の宿場の多くは慶長六年(一六〇一)に置かれたが、当初戸塚には宿場がなく、保土ヶ谷から藤沢までの四里九町の伝馬取り次ぎを、保土ヶ谷と藤沢がそれぞれ負担しなければならなかった。四里九町はおよそ十七キロ、他の宿場間の倍近くあり、大坂や品濃坂、権太坂と急な坂がいくつもあったので両宿場の負担はかなり重かった。そのため中間地点の戸塚には非公式に旅籠や荷駄の運送を行うところが出始めたが、そういう戸塚に対し西隣の藤沢が反発してきたという。

小田原と三浦半島を結ぶ中継地点だった藤沢は、小田原の後北条氏が滅びたことでその役目を失い、伝馬取り次ぎが大事な収入源だった。そのため戸塚の参入を拒んだということのようで、その声がお上に届くと、正式な伝馬役でないのに駄賃稼ぎをするのはまかりならぬと、戸塚に対し厳しいお達しが下される。

けれども、そこに東隣の保土ヶ谷が援助の手をさしのべた。保土ヶ谷は後北条氏が滅びたことで政治の中心が小田原から江戸に移り、むしろ経済的な余裕が生まれていたようで、戸塚が宿場として認められることで自分のところの負担が減ると後ろ盾になってくれたのだ。戸塚自身も訴え願い、結局他の宿場から三年遅れの慶長九年(一六〇四)に、宿場として認められている。

坂がなかったら、戸塚に宿場が置かれることはなかったかもしれない。

大坂を一歩一歩踏みしめるように進む。

やがてぽつりぽつりと松並木が現れる。

坂の途中、建物の間からほんの一瞬顔をのぞかせた大船や鎌倉方面の風景にしばし目を休ませると、また坂を上った。

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。

 

 

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