長く緩やかな遊行寺坂は、緑の坂だ。そこを駆けるように下ると、紅色の遊行寺橋の先に黒い冠木門が見えてくる。清浄光寺、通称遊行寺は、その奥に広い寺域を持つ。
藤沢宿は遊行寺の門前町でもあった。気を引き締め、門をくぐった。
上りの参道沿いに、塔頭が並んでいる。その一つ一つに目をやりながら境内に入ると、天に通じているかと思うほどの大銀杏が聳え立っている。樹齢は千年に届きそうだ。
いまは冬、密生した枝がむき出しになり、そこだけ青空を黒く染めているが、もう数ヶ月早かったら黄金色に照り輝く姿を見られただろう。木の根元には、幹を囲むようにベンチが置かれ、参拝者や地元の人が思い思いに時を過ごしている。
本堂での参拝後、木立の奥に一遍上人の銅像を見つけた。質素な衣を纏い前屈みに手を合わせているその姿は、念仏を唱えながら庶民に教えを説いているところだろうか。
全国各地を遊行し、踊り念仏で庶民の間に信仰を広め、捨て聖の遊行生活のうちに生涯を終えたのが一遍上人だ。自らの著述や書を残さなかっただけでなく、持っていた書物なども自身で焼いてしまい、ひたすら遊行に徹したと伝わっている。そのため一遍を知るには、『一遍上人絵伝』や『一遍上人語録』によるしかないが、その『語録』に「法師の跡は跡なきを跡とす」とか「畳一畳しきぬれば、狭しとおもふ事もなし、念仏まふす起ふしは、妄念おこらぬ住居かな、道場すべて無用なり」という印象的な言葉がある。
遊行寺は、遊行上人第四代・呑海の時代に、藤沢の地に草庵を結んだのが始まりとされる。一遍が亡くなってから三十六年後、正中二年(一三二五)のことだが、先ほどの一遍の言葉を受け継ぐなら、遊行寺が創建されることはなかったはずだがと、銅像の前で疑問が頭をよぎる。
大銀杏に戻った私は、今度は本堂とは反対の西に歩いていった。屋根に菊の御紋、屋根下には葵紋を頂いた堂々たる中雀門が眼を惹く。その左には、入口の冠木門より一周り小さな黒門があり、寺務所へと通じている。寺務所入口に置かれた小冊子を手にとって眺めていると、いつの間に来たのか作務衣姿の若い男性が正座をして控えている。
音もなく現れたので驚いたが、ちょうどよい。
「遊行寺は四代呑海によって開かれたということですが、それ以前はお寺を持たずに遊行していたのでしょうか?」
尋ねると、その人は次のように教えてくれた。
一遍の跡を継いだ二代目の他阿が、遊行上人の位を引退後、相模原の当麻山に道場を開き独住されたのが時宗の寺として最初のもの。その後内部対立で、四代目の呑海は当麻山に入れなかったため、兄のつてで藤沢にあった廃寺に草庵を結び清浄光院とした。それが遊行寺の前身で、その後呑海の後継者たちによって寺としての形が整えられ、呑海から二代後の一鎮の時代に足利尊氏の寄進で本堂が完成、寺名も清浄光寺と改められたという。
「一遍上人自身は、寺を必要としていませんでしたが、時代が変わると民衆の求めも変わってまいります。一切衆生に念仏を広めるという上人の教えを受け継ぐことが大切ですので」
とその人は続けた。
当麻山に最初に開かれた時宗の寺は無量光寺といい、場所は町田から西に六キロほどの、相模原市南区の相模川左岸である。現代の感覚からすると何故ここにと思うが、無量光寺の由緒によると、当麻山は弘長元年(一二六一)に遊行中の一遍上人が妙見菩薩の祠を見つけ庵を結んで修行した場所だそうで、その後も何度か遊行の途中に立ち寄ったことがあることから、二代目の他阿が嘉元二(一三〇四)に寺を造ったということらしい。
当時の当麻は八王子と厚木を結ぶ大山街道沿いにある上、相模川の渡船場も設けられた交通の要衝だった。そのため、関東西部や甲信越を中心に活動していた他阿にとって、当麻は思いの外便利な場所だったのかもしれないが、その後清浄光寺が建てられた藤沢はさらに地の利を得ていた。
藤沢は東海道沿いにあるうえ、江ノ島、大山など各地に通じるいくつもの脇街道が集まる交通の要衝で、何より鎌倉に近い。鎌倉は鎌倉時代は政治の中心地、室町時代には東国統治のための鎌倉府が置かれ、室町幕府に通じていた。そういう鎌倉と目と鼻の先にある藤沢は、鎌倉新仏教の中で遅い出発だった時宗が総本山を置く場所として、結果的に相模原の当麻より相応しかったと言えそうだ。
ちなみに時宗の歴史を紐解いてみると、藤沢は一遍上人にとっても縁が深かった。
遊行寺創建のおよそ半世紀前のこと、全国各地を遊行していた一遍は当時宗教の中心地でもあった鎌倉に入ろうとするが、幕府に制止されて入ることができず、片瀬の地蔵堂に留まり念仏踊りをしたと言われている。そんな一遍のもとに連日多くの人が教えを求めて訪れたことから、結局一遍はそこに四ヶ月近く留まり教えを広めることになった。片瀬は、時宗が民衆に大きく受け入れられたことを実感できた、一遍にとっても特別の思いがあった土地なのではなかっただろうか。
後年そこから至近の藤沢の西富に、総本山が建てられることになったのだから、土地の縁とは不思議なものだ。
それはともかく、鎌倉に近いというのは良いことばかりではなかったようで、鎌倉に近いことが寺の発展に繋がった一方、幾度も戦禍を被る結果となった。焼失したのは一度や二度ではなく、永正十年(一五一三)に相模の三浦義同と北条早雲の戦いで全焼した後、一世紀近く再建されることはなかった。命を吹き返したのは慶長十二年(一六〇七)、その後徳川家による手厚い保護もあり、東海道の宿場として藤沢が発展していくのに合わせ、遊行寺も勢いを盛り返していったという。
遊行寺の栄枯盛衰は、一遍聖絵さながら、絵巻物を見るような展開だ。
江戸時代には二百七十四もの末寺を持つ大寺院に発展し、八月の開山忌には江戸や近隣から大勢人が集まったというが、江戸時代の遊行寺人気には、ここが小栗判官伝説にゆかりの場所だったことにも関係している。
小栗伝説は、中世のころから山伏や瞽女、熊野比丘尼などによって、仏教の教えを説く説教節のひとつとして口承されてきたが、江戸時代になると浄瑠璃や歌舞伎にも取り入れられるようになった。近松門左衛門の「当流小栗判官」が爆発的な人気を呼んだおかげで、小栗判官が毒殺された舞台として、藤沢の名は人々の脳裡に刻まれ、それが遊行寺詣にも繋がったのだ。
だが藤沢に伝わる小栗伝説は、一般に知られる話とは少々異なっている。蘇生した小栗判官亡き後、その子助重が供養のために建てた閻魔堂の隣に、照手姫が草庵を結び、自ら出家して仏門に帰依した。それが塔頭の一つ、長生院とのことで、最後は長生院の創建に結びつける展開になっている。
神奈川に浦島太郎伝説があったように、東海道にはさまざまな伝説が流れ伝わってくる。そうした伝説がその土地固有の話に変化していくことで、また独自の伝説が生まれ、広まっていく。藤沢の場合は、時宗の布教手段の一つとして取り上げられたことで、時宗の広まりとともに人々の心に刻まれることになった。
遊行寺詣の最後に、北西隅の高台にある長生院に向かった。
広くはない庭に、小栗判官と従者、照手姫の墓が並んでいる。表示には、遊行寺の八世大空上人が毒殺された十人の家臣を境内に埋葬し、満重の息子の助重が池のほとりに墓石を営んだ、とある。墓石を前にすると、藤沢における小栗伝説が、真実味を帯びたものに感じられてくる。長年小栗伝説を信じ、ここで手を合わせてきた人々の思いが作り出す気配によるのだろうか。私もそこで手を合わせ、遊行寺を後にした。
実際は三十分程度だったはずだが、ずいぶん長い間遊行寺にいたような気がする。先ほど歩いてきた道を振り返ると、緑濃い遊行寺坂は緩やかにカーブして視界から消えていく。
そうだった。影取町から大鋸町へと、この坂を下ってきたのだった。
遊行寺坂を背に西に進むにつれ、少しずつ現実に引き戻されていく。
その後東海道は藤沢橋を右に折れ、かつての宿場の中心へと入っていくが、ここにも宿場町だった面影はない。本陣跡、問屋場跡といった表示だけを頼りに進むと、いつしか街道から緑が消え、また殺風景な国道が続く。
ちなみに藤沢では、江戸時代以前から門前に宿場があり、江戸時代の藤沢宿はそれを元に発展したものだ。室町時代の後北条氏時代、大鋸町には後北条氏直属の職人集団がいたが、その棟梁格だった森家は三浦義同と北条早雲の戦いで遊行寺が焼失した際、後北条氏から僧侶の管理なども任されていることから、かなりの有力者だったらしい。その森家が中世藤沢宿の伝馬も請け負っていた。時代を問わず藤沢宿と遊行寺の関係は深かったということだが、藤沢にはいまもその子孫が暮らしていると聞いた。
時間は途切れることなく、連綿と続いている。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。