連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

小田原 (二)

日本橋から八十二キロの表示。通しでここまで歩いてきたわけではないが、一歩一歩の積み重ねがこうして数字に表れるのは嬉しい。とはいえ、五百キロ近い東海道の六分の一ほどを歩いたに過ぎない。この先には東海道中最大の難関、箱根の峠越えが待っている。

登山電車やバスが懸命に上がっていく箱根の急坂を登り切ることができるのか、小田原に入ったばかりというのに不安と緊張が頭をもたげてくるが、徐々に鍛えられてきたこの脚が、箱根の山にどこまで通用するのか、試してみるのは楽しみでもある。

それにしても昔の旅人の体力には感心する。一日目は保土ヶ谷か戸塚泊まりで、二日目には小田原までやってきたのだ。一日に歩く距離は平均して男性で十里、女性や老人でも八里と言われている。十里といえばおよそ四十キロ。それをほぼ毎日、二週間以上歩き続けたのだから考えただけでも大変なことだ。私などその三倍近くかかってようやく小田原にたどり着いているのだから比較にならないが、それだけの脚を持っていた江戸時代の旅人にとっても箱根の峠越えは難関で、関所の存在もあって相当な覚悟の上臨んだようだ。

箱根峠を控えていた小田原は、浜松や岡崎、宮と肩を並べる大きな宿場だった。天保十四年(一八四三)の『東海道宿村大概帳』を見ると、小田原宿には本陣が四軒、脇本陣が四軒、旅籠が九十五軒とある。本陣と脇本陣合わせて八軒もあるのは小田原だけ。しかも小田原は城下町でもあった。

      

大磯からここまでしばらく国道を歩いてきたが、新宿の信号から先は久々の旧道。そこでまず目に入るのは、蒲鉾の店である。「いせかね」「わきや」「山上やまじょう」「丸う」といった老舗が住宅や商店を挟んで点々と店を構えている。

もう一本海側の道にもあるというので行ってみると、そちらには籠清、鱗吉うろこきといった暖簾が見える。このあたりはかつて漁師町だったので、新鮮な魚をすぐに加工できた。

小田原でいつ頃から蒲鉾が造られるようになったのかは諸説あるようで、古いものでは北条早雲の時代というが、一般には天明年間と言われているらしい。それはちょうど東海道の宿場として小田原が賑わっていた時代。城下町でもあった小田原には、全国から職人や料理人が集まっていたので、蒲鉾の技術もそうした職人たちを通じて小田原にもたらされたのだろう。

とある一軒でかまぼこを買い東海道に戻ると、万町よろっちょう、高梨町、宮前町と旧町名を記した石の表示に目が留まる。万町には旅籠が五軒、小田原提灯を作る店もあった。高梨町には問屋場が、という具合で、石に刻まれた詳しい説明から少しずつ宿場の中心に近づいているのがわかるが、喫茶店、食堂、床屋といった店が住宅に混ざって点在する旧道は、商店街というには寂しい感じもする。

江戸時代の様子がわかるように、町割り地図のコピーを持っていた。それと旧町名の表示とを見比べながら歩いていくと、本陣跡が旅館になっているはずの場所に高齢者向けの新しいマンションが建っている。通り過ぎてしまったのかと戻ってみたが、本陣があったのはやはりそのマンションのあたりで間違いない。

よく見ると「脇本陣古清水旅館」と小さな表示が出ている。本陣・脇本陣が旅館になり、さらに高齢者住宅になりかわっていた。

「2F 資料館」とあるので中に入っていくと、管理人室に座っていた六十前後の男性が「見学ですか?」と、にこやかに鍵を持って出て来た。

「ここは小清水屋伊兵衛という脇本陣だったところで、明治からは旅館をやってたんですけど、昨今の事情でこのようになりまして。兄が本陣、弟が脇本陣で隣り合ってました。あまり宣伝はしてませんが、本陣や脇本陣で使っていた道具や、旅館の部屋の一部を展示しています。どうぞこちらへ」

エレベーターで二階に上がると、その人は部屋の鍵を開け、電気を付けた。ガラスケースの中には、蒔絵の重箱や屏風、漆器、江戸時代の旅行ガイドブックなどが展示されている。本陣の筆頭格だったというだけあって道具類はどれも立派、その一つ一つから宿場時代の雰囲気が感じ取れる。丁寧に説明してくれるその人は現当主の清水さんで、十八代目に当たるという。

興味を惹かれるのは、清水家の来歴だ。先祖は清和源氏の出で、伊豆の下田で後北条氏に仕える武士だったという。北条早雲に従って伊豆に入り、後北条家の家臣団の一つ、伊豆衆の筆頭として活躍したらしい。

清水家の祖先で、とりわけ実力者として名を馳せたのは清水康英。康英は後北条水軍の前線基地だった下田城を任され、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めの際に籠城・防戦したが、秀吉方の水軍に敗れ開城を余儀なくされた。

同じ時、康英の息子たちも小田原で奮闘したが、結局小田原城も落ち、二人とも自害してしまった。その子孫が東海道の宿場が整備された際、小田原に戻り、旅館業を始めた。それが清水本陣と脇本陣ということで、後北条氏の存在が江戸時代の小田原の歴史にも深く根を下ろしているのがわかる。ちなみに沼津宿にあった本陣の一つも清水家が務めているが、その清水家も康英の子孫という。

戦国時代、海を舞台に活躍した様子が目に浮かぶ。

「屋上に行ってみませんか」

しばらく展示を眺めていると、そう声をかけられた。高所好きな私には願ってもないお誘いだ。

 

案内された屋上は期待以上だった。南には一面真っ青な海が拡がり、真鶴岬や伊豆の山々が見える。肉眼で捉えることはできないが、伊豆半島に沿って南下すると、清水家の祖先がいた下田に至る。向きを変えれば、小田原城も見える。

「小田原城からまっすぐ左に目を向けると、秀吉が一夜城を築いた石垣山が見えるでしょう。さらに左は海です。小田原攻めの舞台がここからパノラマのように見えるなんて、これを建てるときには思ってもいなかったんですよ」

後北条氏の家臣を先祖に持つ清水さんに、その滅亡の舞台を見せられるというのは不思議な感じだが、秀吉は小田原の落城をもって天下統一を果たしたのだから、目の前に拡がるパノラマは、当時においては新しい時代の幕開けの舞台だったとも言える。

後北条氏が滅びた関東には家康が入り、小田原城主に家康の腹心大久保忠世が任命された。秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いを制した家康が天下を取るのはその十年後のことなので、後北条氏滅亡からあっという間に世の中が変わったことになる。

後北条氏の城下町として繁栄してきた小田原にとっても、小田原攻めからの十年間は激動の時代だっただろう。小田原の人たちの身の振り方もそれぞれだった。出ていった者もあったが、清水家は小田原に戻り本陣・脇本陣職に就き、その後四百年にわたり小田原宿を支えてきた。

「十五年ぐらい前に廃業したんですけど、結構皆さん残念がってくれましてね」

「そうでしょう。私だってもしその頃東海道を歩いていたら、間違いなくここに泊まったと思います」

「時代の流れには逆らえませんな」

うなずきながら再び海に目をやると、先ほどより青さを増した海に、光の筋が走ったように見えた。

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も合わせてご覧くださいませ。

 

 

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