連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

沼津

三島と沼津の間はおよそ六キロ。道も平坦なので、気がついたらもう沼津だった。

川郭通りを抜け、狩野川に架かる御成橋の袂にやってきた私は、橋の中程から狩野川の上流・下流に目を向けた。川沿いにこぎれいなマンションやオフィスビルが並び、ウォーターフロントと呼ぶのが相応しい都会的な風景が続いている。

新幹線の新駅設置をめぐり、三島と沼津で争われたことがある。地形や地質などの関係で、結局駅は三島に置かれることになったが、いまこうしてそれぞれの町を見比べると、新幹線が止まらない沼津の方が町の中心部の規模が大きく、都会的な感じがする。

沼津の東海道は鉤型に折れながら西に向かう。それは沼津がかつて城下町だったからだが、現在城の痕跡はない。沼津城は中世武田勝頼が築いた三枚橋城に始まり、江戸時代に水野家八万石の城下町として栄えた。けれども明治の廃城令を待たずに破却され、その後道路の拡張や駅の建設などで完全に城郭が失われた。さまざまな事情があっただろうが、沼津では城主ではなく代官による支配期間が長かったというから、沼津の人たちの間では城下町という感覚が薄かったのかもしれない。

城ばかりか、沼津には宿場時代の面影も残っていない。第二次大戦の空襲で、沼津は大打撃を受けた。すっきりした町も、広い道も、戦後の復興の中から生まれたものだ。

 

沼津に来たら千本松原越しに海が見たいと思っていた。千本松原は、駿河湾沿いにおよそ十キロにわたり続く松林で、運がよければ千本松原越しに富士山が望める。

沼津の海岸沿いにいつから松林があったのか、詳しいことはわからないが、もとは暴風・防潮のために、付近の農民が植えたものに始まるという。中世の紀行文『東関紀行』(作者不詳)に、千本松原の風景が次のように書かれている。

千本の松原というあり。海のなぎさ遠からず。松はるかに生いわたりて、緑の影きわもなし。沖には船ども行きちがいて、木の葉の浮けるように見ゆ。かの「千株の松の下の 双峰の寺、一葉の船の中の万里の身」と作れるに、かれもこれもはずれず、眺望いずくにも勝れたり。

見わたせば千本の松の末遠みみどりにつづく浪の上かな

『東関紀行』は仁治三年(一二四二)の完成と伝わる。当時すでに立派な松林になっていたとすると、農民が松を植えたのは、それより百年以上は遡ることになるだろうか。

その後天正八年(一五八〇)武田勝頼率いる武田軍が駿河に侵攻する際、上陸の邪魔になるというので、伐採されてしまった。そのため農作物に被害が及び、農民たちは困窮した。その様子に心を痛めた増誉上人が、阿弥陀経を唱えながらおよそ五年の歳月をかけて松を植え、天文六年(一五三七)千本の松を植え終えたと伝わる。当時の浜は砂地が少なく、松を根付かせるのは容易ではなかったというが、努力が実り無事根付いた。それが現在見られる千本松原だ。

ちなみに、千本松原は大正の終わりにも、伐採の危機にさらされたことがある。財政の足しにしようということだったが、東京を引き払い沼津で暮らしていた若山牧水が先頭に立って反対し、幸い伐採は免れている。

戦国時代、海岸に松を植えた増誉上人は、もとは長円といった。延暦寺の乗運上人の弟にあたる。知恩院で修行した後、行脚の旅に出、当地にやってきたようだ。増誉上人に感謝した人々が、上人のために庵を建てた。それが千本松原近くにある乗運寺で、牧水もそこに眠っているというので訪ねてみることにした。

  

開け放たれた山門の奥に、手入れの行き届いた境内がのぞいている。格調高い構えに、一瞬門をくぐるのがためらわれる。背筋を正し中に入ると、低中高木それぞれに美しく刈り込まれた庭は、花の色こそないが、緑一色で変化に富んだ風景を作り出している。このあたりも戦災に遭っているので、戦後の再建だろうが、入母屋造りの本堂は、白い障子が日射しに映え、風格ある凛としたたたずまいだ。

戦国時代には三枚橋城主・松平周防守康親の菩提寺に、江戸時代には沼津藩主水野家の菩提寺になった。三世、雄誉霊巌ゆうよれいがんは、知恩院三十二世として知恩院諸堂の再建に尽くした人物として知られる。現在も知恩院の末寺。格調高い雰囲気は、そこから来るものかもしれない。

境内の静寂を破らぬよう、そっと足を踏み入れると、白い石畳の先に墓石があった。「若山牧水之墓」と刻まれ、墓の手前の両側には、縦長の歌碑が二基。一つは牧水、もう一つは妻喜志子の歌碑である。牧水の歌は次の通り。

聞きゐつつたのしくもあるか松風の 今は夢ともうつつともきこゆ

千本松原に魅せられ、松籟を友に晩年を過ごした牧水の墓前に相応しい歌だ。

話が聞けたらと思ったが、まったく人の気配がない。あるいは中にいたのかもしれないが、静寂を破るのがためらわれ、寺を辞した。

 

乗運寺から海岸に向かって歩いていたら、いつの間にか千本松原にいた。

松の一本一本は思っていたより細いが、密集している。これがあの千本松原かと、松の一本一本に眼をやりながらゆっくり歩いていると、急に陽ざしが遮られ薄暗くなるが、すぐにまた枝葉の隙間から木漏れ日が射し込み、明るくなる。遊歩道に沿って歩いていくうち、堤防に出た。

目の前には駿河湾。海を見るのは大磯以来だ。海面から反射した光が眼に突き刺すように飛び込んでくるが、次第に眼が慣れてくると、左手遠方に伊豆半島の影を捉えた。右に眼を転じると、千本松原越しに愛鷹山が見える。その向こうに富士山があるはずだが、あいにく雲に隠れている。

突然の強風が堤防に吹き付ける。体が持っていかれそうになり、慌てて体制を立て直す。再び富士山の方向に眼をやると、またもや打ち付けるような強風に体がよろける。冬の沼津は風が強いとは聞いていたが、これほどとは思っていなかった。

風で雲が吹き飛ばされてくれたら富士山が顔を出すかもしれないが、この強風では五分と身がもたない。早々に千本松原に逃げ込んだ。

千本松原の中は風もなく穏やかで、ときおりかすかな松籟が耳に届く。

林の中に、増誉上人の像を見つけた。白い石の像は、緑に映え、その顔は慈愛に満ちていた。

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。

 

 

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