連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

こんな俗謡がある。

沼津を出ると、東海道は海岸に並行しながら西進、定規で線を引いたような直線道が続く。ここに至るまでことあるごとに目にしてきた富士山が、最も大きく間近に見えるのが原から吉原にかけてである。

ところが、空は厚い雲に覆われ、富士山は一向に姿を現してくれない。

道は一直線、富士山も見えないとなると、退屈が頭をもたげてくる。車が少ないのをいいことに、道のど真ん中を悠長に歩いていると、後ろから来た車にクラクションを鳴らされ、慌てて脇によける。

一体いつまでこの単調な道は続くのか…。

退屈しのぎに、広重の絵を思い浮かべてみる。広重は保永堂版で、画面からはみ出すほどに大きな富士山を描いた。手前に拡がる湿地は浮島が原。鶴が二羽下りたって羽を休めている。浮島が原を進む女性の旅人が、立ち止まって振り返り、富士山に見とれている。

広重の描いた富士山ほどではないにせよ、条件がそろえば目の前に迫り来る富士山を望めたかもしれない。そうと思うと、灰色の空が恨めしくなる。

その後もしばらく単調な道は続く。淡々と黙々と、ただひたすらに歩き続けていると、次第に邪念が薄れ、リュックの重みで痛み出していた肩が、ふと気がつけば軽くなっている。

そんなとき目の前に現れたのが、もう一つの「過ぎたるもの」、「原の白隠」ゆかりの松蔭寺だった。

白隠慧鶴はくいんえかくは、臨済宗を中興したことで知られる、五百年に一度出るか出ないかと言われた名僧だ。孤高で力強く気迫に満ち、ときにユーモア溢れる独特の禅画が有名で、その画風から、見た目は恐そうだが心優しい白隠を思い浮かべていた。

白隠は、松蔭寺近くの東海道沿いで旅籠兼問屋場を営む家に、貞享二年(一六八五)に生まれた。松蔭寺は弘安二年(一二七九)、鎌倉円覚寺の末寺としての創建というから、白隠が生まれたときには、すでに四百年近い歴史を刻んだ古刹だったことになる。白隠と松蔭寺との縁は、この寺を白隠の大叔父が中興したことで生じた。

旅籠と問屋場を兼ねた生家は、いつも旅人が立ち寄り賑やかだったが、母は熱心な日蓮信者だったので、家庭内は信心深い雰囲気だったようだ。幼少のころから際だった記憶力と強い感受性で周囲を驚かせ、元禄十二年(一六九九)十五歳のときに松蔭寺で得度。その後各地を行脚し、修行に明け暮れた。

松陰寺に戻ってきたのは三十二歳の享保元年(一七一六)、父危篤の知らせを受けてのこと。無住で荒廃していた松蔭寺の再建をという父の願いをかなえ、白隠は松蔭寺の住持となり、明和五年(一七六八)八十四歳で息を引き取るまで、この寺の住職を務めている。

 

こぢんまりとした山門をくぐり、境内に入ると、右には建てて間もない新しい本堂、正面奥には六角堂が見える。境内のあちらこちらに、松が聳えている。山門手前の松も入れれば、十本以上はありそうだ。

「すり鉢の松はあっちだよ」

境内の写真を撮っていると、上の方から声がする。見ると、松の手入れをしている庭師だった。

「すり鉢の松って何ですか?」

「備前の殿様からもらったすり鉢を、台風で折れた松がかわいそうだっていうんで、白隠さんが上に被せたら、そのまま大きくなったという松さ」

指さした先に目を凝らすと、十メートルぐらいはありそうな松のてっぺんに、逆さにしたすり鉢が被さっている。

すり鉢には次のような謂われがあった。

参勤交代の途中、松蔭寺に立ち寄った備前の池田侯から、必要なものを所望せよと言われた白隠は、小僧がすり鉢を壊してしまったことから、新しいすり鉢を所望した。修行僧たちの食糧にも困っていそうな寺である。池田侯は白隠の無欲に感銘を受け、早速備前焼きの立派なすり鉢を贈った。それなのに、白隠はそれを一本の松のために使ってしまったのだ。

松はすり鉢を被せたまま成長したが、数年前にその松が枯れてしまったので、いま見上げている松は別の松、しかも上に乗っているのも別の清水焼きのすり鉢だという。

「じゃあ、備前のすり鉢は?」

尋ねると、大事なものとして保管してあるとのこと。白隠の人柄が伝わる話だ。

庭師の男性は、先ほどから「白隠さん」と呼んでいる。原ではいまでも、皆そう呼ぶらしい。それが原における白隠禅師の素顔だろう。

白隠の功績は一言では言えないが、修行を体系化したほか、禅画や説法、禅問答によって、庶民にも親しみやすくわかりやすい言葉で禅を説いたということになるだろう。そうした晩年の白隠のもとには、修行僧や民衆など様々な人が訪れたが、白隠は人々の来訪を待っていただけでなく、自ら各地に出向き、教えを広めた。

東は下総の佐原、西は松山までと、活動範囲は広い。足跡が残されているのは江戸、平塚、甲府、由比、興津、浜松、飯田、名古屋、高山、京都、明石と数え切れないほどで、原から出かけて行っては原に戻り、また出かけては戻りと、旅を繰り返しながら、新しい臨済宗つまり白隠の禅を布教していった。藤沢で触れた一遍上人も偉大な旅人だったが、原の白隠もしかり。その気力体力は常人の域を超えていた。

白隠が出向いた場所は東海道沿いの町が多かったが、岐阜・長野といった内陸にも足を延ばしている。原が東海道沿いにあることがその旅を大い助けただろうが、何にせよ布教への思いは計り知れない。

せっかく松蔭寺にいるのだから、白隠の禅画が見たい。そう思って聞いてみたところ、普段は非公開とのこと。ただ六角堂に白隠像がお祀りされているというので、上がらせてもらう。祭壇手前に座り見上げると、大きな眼がぐっとこちらを見据えている。迫力ある眼に緊張で固くなるが、慣れてくると子供のように澄み切った瞳に吸い寄せられていく。

じっと見ていると、その眼は白隠が数百枚も描いた達磨像の眼に実によく似ていることに気がついた。達磨像は白隠の自画像でもあったのだ。

 

白隠の墓前で手を合わせ松蔭寺を後にした私は、またまっすぐな道を西に進んだが、以前のように富士山のことが気にならなくなっていた。見えない富士山にこだわっていても仕方がない。諦めがついたのとほぼ時を同じくして、愛鷹山が家々の隙間から顔を覗かせ始めた。

千メートル級の山が十ほど連なる山塊である。長い時を経て浸食が進み、上部が削られ波打つような稜線を描く姿になった。富士山より数十万年前に誕生したというから、愛鷹山は富士山の兄貴分のような存在だ。

いまは山頂付近まで雲が下りていて、広重が描いたようなぎざぎざの稜線は望めないが、原の北側にあって、その姿の全体を隠すことはない。

姿を見せない富士山に代わり、この先しばらくは愛鷹山との同道二人旅を楽しむのがよさそうだ。

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。

 

 

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