富士川は山梨と長野の県境にある鋸岳に発し、富士山の西を通って駿河湾に注ぐが、海抜が三千メートル近い山々に発しているので流れが激しく、東西を行き来する際の大きな障害になった。これまでに越えてきた多摩川や相模川にも渡しはあったが、富士川を渡る苦労はそれらの比ではなく、林羅山も『丙辰紀行』に次のように記している。
我國に名を得たる大河はあまたあれど、殊に富士川は海道第一の急流なり。舟に乗りて渡るに、渡守ちからを出だして竿をさし、艪をおし出すとき、岸より見るものは、あはやと危く思ひ、船中の人は目まひ、魂の消ゆる心地ぞしける。
富士川が人の移動や文化の交流を拒む東西文化の境界と言われるのは、そうした渡河の難しさが関係しているが、この川は大化の改新以前は珠流河国と廬原国の国境、改新後は駿河国の富士郡と廬原郡の郡境でもあったことを思うと、川の流れが緩やかだったとしても、川の東と西の風土の違いがなくなることはなかったかもしれない。
実際、富士川の東と西では気象が異なり、静岡県の気象情報では富士川の東を東部、西を中部として分けて報じている。また富士宮市で聞いた話だが、富士川の東では道祖神が多く見られ、冬に道祖神を焼くどんど(ドンドン)焼きが行われるのに対し、西では道祖神自体少ない上に、そのような行事はほとんど見られないという。さらに富士川は電力の境界でもあり、富士川以東が五十ヘルツであるのに対し、以西が六十ヘルツであるのはよく知られている。
何にしても昔の人にとって、川を一つ越えるということは別世界に入っていくのに等しかった。新幹線でわずか十数秒、車なら一分もしないうちに富士川を越えることのできる現代の私たちに、川向こうが異界であるという感覚はもはやないが、こうして歩いて旅をしている間だけでも、昔の人の気持ちに寄り添ってみたい。
やがて目の前に、緑青色の鉄橋が見えてくる。大正十三年、東海道に掛けられた富士川橋だ。対岸には標高三百メートルほどの山が連なり、鉄骨越しにその中腹から麓にかけて建ち並ぶ家々が見える。
富士川橋に一歩を踏み出すと、橋を揺らすほどの強風に手荒い歓迎を受ける。橋の下を、薄灰色の濁流がしぶきをあげて勢いよく流れていく。数日前に降った雨の影響もあるだろうが、三大急流と言われるだけある。
渦巻く流れに吸い込まれそうで、思わず手すりにしがみつく。
下ばかり見ているから怖いのだ。
そう思い直し、少し進んだところで顔を上げ後ろを振り返ると、富士山が川向こうにゆったりと聳えている。吉原で見た富士山よりは小さいが、それこそここには山の姿を隠すものは何もない。薄灰色の富士川と岩本山の緑の奥にゆったりと裳裾を拡げる富士山は、全体に霞みがかって柔らかい表情をしている。
町中で見る富士山もいいが、やはり自然の中の富士山は格別だ。風に煽られながら何度もカメラのシャッターを切った。
富士川を渡ると岩淵に入る。富士川越えを控えた場所がら、江戸時代岩淵には立場が置かれていた。江戸時代この川を越えることがいかに大変だったか想像がつくだけに、ここの立場はさぞかし旅人にとってありがたいものだったろう。現在は、落ちついた住宅街になっている。
手入れの行き届いた生け垣を見ながら歩いていると、右に明らかに普通の家とは違う黒い板塀が現れた。中からは、立派な松が顔をのぞかせている。薬医門の右に「西條少将小休」、左に「無料公開中」と書かれた札が下がっている。
門をくぐると、瓦葺きの平屋から歳のころ七十ぐらいのボランティアガイドの男性が出てきて、「中へどうぞ」と招き入れられた。
「ここは江戸時代に渡船役の名主を務めた、常盤家の小休本陣だったところです。岩淵は立場でしたから、本陣といっても宿泊はできず休憩だけですが、身分の高い人が使われました。あの一番奥の部屋が大名さんが休んだ上段の間です。床が少し高くなっているの、わかりますか」
男性は土間から一番奥の部屋を指さし、続けて言った。
「今ではこういうのは造れませんな。安政の大地震で倒壊して、その後再建されたので、この家は江戸の末期のものです」
さらにその後も多少手を入れているようだが、宿場に関係する建物で江戸時代まで溯るものを見たのはこれが初めてだ。
そういえば、入口に西條少将とあった。何のことだろうと尋ねてみた。
「現在の愛媛県にあった、西條藩の藩主です。身延山にお詣りに行く途中、ここに立ち寄って休憩したようです。富士川に沿った道は身延道と言いましてね。岩淵が東海道からの分岐点なもんで、このあたりは身延参りに行く人でも賑わったんです」
地図を見ると、曲がりくねった富士川に沿って、JRの身延線と国道五二号線が通っている。東西に行き来する交通しか考えていなかったが、なるほどここ岩淵は身延道によって甲斐の国にも通じている。
「富士川橋を渡ったところにある角倉了以の碑を、ご覧になりましたか。家康は天下を統一すると街道を整備しますが、富士川も甲斐と駿河を結ぶ大事な交通路と考えたんですな。角倉了以に水路の開発を命じます。ですが急流で聞こえる富士川、大変だったようです。
川の流れが今みたいにすっきりしていなかったので、舟が通れるように流れを整える必要がありました。岩もごろごろして大変な工事でしたが、完成したお陰で甲州の鰍沢から岩淵まで、陸路だと三日かかっていたのが半日で済むようになったんです。
でも舟が通れるようになったって、良いのは下りの話で、甲斐に行くのは相変わらず大変です。何でも船頭が河岸の岩に立ち、縄で引っ張ったって言われてますよ」
富士川を越えるのも大変だが、上るのも大変。江戸時代の人は、想像を絶する苦労をしながらこの川と関わってきたことがわかる。
「その舟で何を運んだんですか?」
「下げ米、上げ塩と言いましてね。下げ米というのは信州や甲州からの年貢米、上げ塩は塩や海産物です」
川と陸二つの道が東海道と交差する立場岩淵の賑わいが目に浮かぶが、明治の後半に東海道線が開通し、輸送が舟から鉄道に切り替わると、岩淵は火を消したように静かになった。
富士川と共に歩んできた岩淵。ここにも栄枯盛衰の歴史があった。
岩淵を出ると、東海道は右に山並みを見つつ、緑多い道を南西方向へ進む。
先ほど身延参りの話を聞いたばかりだが、岩淵から西では秋葉山の常夜燈が目に付く。秋葉山は浜松市の天竜川上流にある山。その山頂付近にある秋葉寺三尺坊は鎮火・防火の神として崇敬を集め、近世以降遠江国を中心に秋葉信仰が盛んになったが、富士川を渡るまで秋葉の常夜燈に目が留まることはなかった。
雑草を摘みながら道ばたに座り込んで内緒話をしている子供たち。木の台にみかんを並べた無人販売所。車が全く通らない山沿いの静かな旧道……。
こうしたのどかな風景も、富士川を渡るまで目にすることはなかった。富士川が境界であることを知らなくても、またそれを意識しなくても、確かに新しい世界に入ったと感じられる。
東名高速を越え、南に坂を下ると蒲原宿に入る。
早々に目に留まるのは、江戸時代問屋職をつとめていた渡邊家。一見ブロック塀に囲われた普通の民家だが、敷地内には天保九年(一八三八)建立の珍しい三階建ての土蔵が残っている。
そこから程なく、なまこ壁の商家。表示には江戸末期のものとある。蒲原には期待できそうだと思っていると、その先には別のなまこ壁の商家が、さらに進むと欄干付きの木造家屋や蔀戸のある商家が……と次々に現れる。日本橋を発って以来、初めて目にする江戸時代の名残の数々に、心が躍った。
蒲原に江戸時代の建物が残っているといってもほんの数軒で、街道沿いに並ぶ建物の多くはごく普通の民家だが、その数軒が町の雰囲気を一変させる。立ち寄る旅人を歓待してくれるガイドたちの存在も大きい。江戸時代の旅人が旅籠に到着し、もてなされたときの気持ちに近づけたような気がして嬉しくなった。
蒲原はそういう人の温かさのあるところなのだろう。そういえば、広重の傑作、「雪の蒲原」も、雪景色とはいえ実に温かみがあるではないか。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。