桜エビやシラス、イルカすましなどを売る海産物の店を眺めながら西へと歩くうち、正面に黒っぽく霞んだ山並みが視界に入ってくる。これから越える薩埵峠はまだ捉えられないが、行く手に聳える山並みの続きにその峠はある。
午後三時。この分なら、薩埵峠で広重の絵さながらの富士山を見られるかもしれない。逸る気持ちを抑えながら、由比の町を小走りに進んだ。
中から話し声が聞こえてきそうなほど、街道すれすれに建つ連子格子の家。せがい造りと呼ばれる、深い軒の下に出桁が何本も突き出た二階建ての民家。丸い郵便ポスト。桜エビの幟をはためかせた商店……。
由比駅前を過ぎ旧道に入ると、連子格子や蔀戸の家が増え、時間を巻き戻したような町並みに変わる。
寺尾である。この先薩埵峠までの間に東倉澤、西倉澤と全部で三つの集落があるが、これらの町は断崖が海に迫った幅百メートルほどの狭隘な土地に開かれており、民家が狭い道に肩を寄せ、顔を突き合わせるように建ち並んでいる。
東倉澤を経て西倉澤へと進む。山がだいぶ目の前に迫ってきたので、峠道は近い。
とある家の格子戸に、「間の宿 本陣跡」と書かれた表示。薩埵峠を控えているので、ここは茶屋や旅籠が並ぶ間の宿だったとみえる。さらに十数メートル進むと「脇本陣柏屋明治天皇御小休所跡」の表示。そのまた先に「山岡鉄舟ゆかりの家 望嶽亭 藤屋」とある。道は藤屋の先で二股に分かれる。右の急坂が峠道だ。
引き戸が開け放された藤屋。上がり端に数人の靴が見える。引き込まれるように中に入る。
「ごめんください」
声をかけると、六十代と覚しき女性が出てきた。
「ここは藤屋という茶屋で、兄で二十四代目になります。四軒先までうちの建物だったんですが、今はここだけになりました。ご説明しますので、どうぞお上がりください」
離れ座敷から見事な富士山が見えるので、かつてここは望嶽亭とも呼ばれた。多くの文人墨客がその眺望に惹かれ常宿としたし、『東海道名所図会』や広重の隷書版などで取り上げられもしたので、藤屋より望嶽亭の方が通りがいいらしい。
「由比というと桜エビですけど、桜エビ漁が始まったのは明治になってからで、江戸時代このあたりの名物は、栄螺と鮑だったんです。昔の人は駿河湾や富士山を眺めながら、栄螺や鮑を食べて休まれたんですね」
奥さんは、その様子を描いた広重の絵を示した。
窓越しに外を見ると、目の前を東海道線が通り、それと並行して国道一号線と東名高速も走っている。
「昔はこの絵の通り、すぐ目の前が海岸でしたが、安政の大地震で海底が隆起して、海岸沿いに陸地ができたんです。線路や道路はその新しい陸地に造られました。広重さんが隷書版を描かれたときは、地震の前ですからね」
そんな話を聞きながら、いまここで大地震が起きたらどうなるだろうとかすかな不安がよぎるが、奥さんの絶え間ない話ですぐにそれもかき消された。
「この部屋は東海道からだと一階に見えますけど、実は二階に相当してまして、蔵の二階と繋がってるんです。幕末官軍に追われた鉄舟さんを逃したと伝わる仕掛けがありますので、ご覧に入れましょう」
漆喰扉の奥に案内されると、そこは駿河湾を一望する十五畳ほどの蔵座敷。壁に沿って書や掛け軸などが展示されている。せっかくの機会と、一つ一つ見て回るうち、一際目を惹いたのはガラスケースに入ったピストルだった。
「もしかしてこれは……」
そう私が言うと、幕末の緊迫した一夜の話が始まった。
時は慶応四年(一八六八)三月。徳川慶喜を捕らえるべく江戸総攻撃を計画する官軍が江戸に迫り来るなか、山岡鉄舟は駿府にいる西郷隆盛に慶喜恭順の意を伝え、江戸の総攻撃を中止するよう談判に向かったが、東海道にはすでに官軍の陣営が張られ、突破が難しい状況だった。脇道を通るなどして何とか由比までやってきたが、鉄舟は薩埵峠を前に窮地に追い込まれた。
興津に出るには、断崖の迫った海岸沿いを行くか、峠道を通るしかない。とはいえ、海岸沿いの道とは絶壁にしがみつきながら歩くような道で、これまで高波にのまれ大勢の人が命を落としてきた。峠道のほうも、官軍と遭遇する可能性が極めて高い。
さあ、どうするか。
ぎりぎりの選択を迫られた鉄舟。結局彼は後者を選び、三月七日の夜、峠道を歩き出したが、官軍の尖兵に気づかれてしまう。
だがここで捕まるわけにはいかない。
鉄舟は必死に逃げ戻り、望嶽亭の扉を叩いた。
当時の当主は二十代松永七郎平。不穏な情勢の夜のこと、最初は警戒して扉を開けなかったが、物音がしなくなったので外の様子を見ようと、ほんの少し扉を開けたところに鉄舟は強引に侵入し、跪いて当主に助けを求めた。
「将軍徳川慶喜の名代として駿府に向かっているが、官軍に見とがめられた。何としても駿府に行かねばならない。かくまってほしい」
「こちらへ」
瞬時に事を理解した当主は、鉄舟を蔵に案内すると、分厚い蔵の扉を閉めた。
当時望嶽亭は、網元として漁師を何人も抱えていた。この状況では海路しかないと判断した当主は、鉄舟に身につけていたもの一切を脱がせて漁師の恰好をさせ、清水の次郎長宛に無事駿府まで送り届けるよう手紙を書くと、床の間の置床を上げた。そこには隠し階段があり、蔵の一階に下りられるようになっていた。
一階の扉を開けると、目の前は浜辺である。連絡を受け待機していた漁師にその手紙を託すと、舟はたちまち闇夜に消えていった。それから時を置かずして官軍がやってきたが、家中を探しても鉄舟の姿はなかった。
鉄舟が駿府に到着したのは三月九日、その会談で西郷隆盛が鉄舟を高く評価したのは有名な話だ。それから四日後の三月十三日から十四日にかけて、隆盛と海舟の会談が行われ、江戸城無血開城が決まった。
「これがそのとき鉄舟さんが置いていったと伝わる、フランス製の十連発のピストルです。浜岡原発の建設工事に来ていたフランス人が、これに興味を持って調べたら、製造工場も製造年月日もわかったんですよ。フランス公使のレオン・ロッシュが将軍に献上したもので、それが鉄舟さんに渡されたようです」
その声で我に返り、改めてそのピストルに目をやった。
ずっしりとした鉄の塊には、幕末の乱世を駆け抜けた英傑の気迫が染みついているように思えた。
振り返った先に、床の間があった。
「隠し階段というのは、この下にあるんです」
奥さんが置床を上げると、急な階段が現れた。
「下りてみますか」
「もちろんです」
と、奥さんの後について階下に行く。
「鉄舟はここから逃げたんですね」
奥さんはうなずきながら重たい扉を開けた。
薄暗かった蔵に光が差しこみ、まぶしい。もしあのとき当主が鉄舟をここから逃さなかったら……。そう思いかけたが、歴史に「もしも」はないのだ。それよりも、当時のあの緊迫した情勢の中、突然真夜中に訪ねてきた見知らぬ人をかくまった当主の判断力と勇気に敬意を表したい。
「それだけ鉄舟さんという方は、普通の人とは違う雰囲気をお持ちだったんでしょうね。あの西郷さんをして『金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない』と言わしめた方ですから」
そう物語る奥さんの声は、どこか嬉しそうだった。
幕末にタイムスリップしたかのような興奮を引きずりながら望嶽亭を出ると、峠道はすぐに始まった。
道は急だが舗装されて歩きやすい。途中から道の左右は蜜柑や夏蜜柑の畑になり、甘酸っぱい香りが漂ってくる。その香りで次第に現実へと引き戻されていく。我に返り振り返ると、ときおり木々の間から駿河湾も見える。振り返れば富士山も見えるはずだが、いまここで見てしまうのはもったいないような気がして先を急いだ。
顔が火照り、体中汗でびしょぬれになったころ、眺望の開けるところに出た。
「どうだろう」
後ろを振り返ると、少し灰色になりかけた空の向こうに、待望の富士山を捉えた。
いま歩いてきた薩埵山から浜石岳に続く断崖を一番手前に、駿河湾、蒲原方面の山、そしてその奥に富士山と続く構図は、聞いていた通り広重の作品そのままだ。ただ現在そこには、広重の絵にはない巨大な建造物が加わり、現代らしい風景に変わっている。
それは望嶽亭からも見えた東名高速、国道一号線、JR東海道線で、駿河湾に沿って交差しながら走るコンクリートの帯は、富士山を望むこの自然の風景にそぐわない乱入者のようにも思える。だが見方を変えれば、様々な時代の交通が一カ所に凝縮されたこの眺めほど、興味深いものはない。
歴史は堆積し古いものは埋もれていくが、眼下に見えるさまざまな道は異なる時代を並列して見せてくれる。人道、車道、鉄道、そして海道が走るこの風景。これを現代の東海道風景の傑作と言わずして何と言おう。
薩埵峠からの風景を目に焼き付けると、私はその日のゴール興津を目ざし、峠道を下った。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、合わせてご覧くださいませ。
松本様 いつもご覧いただきまして、どうもありがとうございます。「由比」は実は私自身も取材を通しとても心を動かされ、東海道の中でも思い入れの強い場所です。「興奮した」と言っていただけたのは筆者冥利に尽きます。長い道のり、うまく描けなかった場所も正直ございますが、今後とも紙面の旅におつきあいいただけますと幸いです。嬉しいコメントをどうもありがとうございました。
生々しい描写につい興奮してしまいます。まさに、歴史を動かした様が如実に映し出されていますね。そうですか、山岡鉄舟が逃げた道だったのですね。百数十年ほど前の出来事だったんですね。よくぞ、時代を描写されています。