連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

興津

民家が続く街道に、米屋、床屋、畳屋といった商店が見られるようになると、そこはもう興津である。このあたりの東海道は国道一号線だが、大都会のそれと違い、ときおり数台の車が走り抜ける程度の静かな生活道路だ。

江戸時代脇本陣を務め、明治になってから旅館を営んでいた水口屋のあたりが、江戸時代の宿場の中心。旅館はすでに廃業され、現在は清水にある物流会社の迎賓館として使われている。一角で旅館時代の品を展示しているというので、短時間そこに立ち寄った後、興津宿の西はずれにある清見寺へ向かった。

水口屋を出て五、六分、右手に山の緑が迫ってきたころ、途切れた家並みの先に石垣が、その上に瓦葺きの表門が見えてきた。境内はその奥、東海道線を越えた小高い山の上にある。

興津は海岸線近くまで山が迫り、平地が少なかったことから、古代清見が関と呼ばれる関所が置かれていた。その関所を鎮護するため建てられたのが、これから訪ねる清見寺だ。明治に入りここに鉄道を通そうと思ったら、清見寺の山裾を切り開くしかなかったのだろう。表門と山門が線路で分断されているのはそのためだが、石垣に囲われた境内はまるで要塞のよう。近代化の波に動ぜず、という趣きだ。

山門をくぐると、正面には重層入母屋造りの仏殿、右手には大玄関に大方丈。塀越しに興津の町が見渡せる。気持ちのよい眺めと言いたいところだが、埠頭に建つ倉庫やクレーンが邪魔をしている。拝観料を払い大方丈に入ると、敷き詰められた緋毛氈に窓から光が差しこみ、天井まで赤く染まって見える。そこでボランティアガイドFさんの出迎えを受けた。

  

 

「清見寺の歴史は天武天皇の時代、今から千三百年以上前です。当時は清見関という関所が置かれ、その鎮護のために建てた仏堂が始まりと言われています。初めは天台宗でしたが、鎌倉時代に再興されたときに臨済宗になりました。室町時代になると足利尊氏は禅宗を保護します。清見寺の七堂伽藍はそのとき整備され、名前も清見興国禅寺と改められました」

天正元年(一五七三)武田軍に攻撃を開始した家康は、清見寺が敵の要衝になるのを防ぐため、後日必ず復興させるという約束のもと、寺に火を放った。家康にとっては、今川氏の人質だった幼少時代に、たびたび訪れては手習いなどをした思い出の寺。苦渋の決断だったろう。

清見寺はその後、後北条氏征伐に向かう秀吉が一時滞在した際、鐘を戦陣に持って行かれるなど情勢に翻弄されるが、当時の住職大輝和尚が秀吉、家康ら時の権力者との交渉に長けており、そのお陰で寺領が確定、繁栄の道が築かれたという。

「これを見てください」

Fさんは縁側の壁の上を指さした。

見上げると、細長い木の板が数枚、それぞれに白い文字で漢詩が書かれている。

「朝鮮通信使が清見寺で詠んだ漢詩を、板に写し取ったものです。秀吉の時代、敵国になってしまった朝鮮との国交を回復させたい家康は、朝鮮通信使を復活させ、友好的にもてなしました。そのときの宿泊先が清見寺でした」

朝鮮通信使は瀬戸内海を経て大坂湾から淀川を遡り、中仙道、美濃路を通って名護屋で東海道に入ると、一路江戸に向かった。その際興津の清見寺が宿泊先になったということは、家康自身この場所に思い入れがあったということだろう。

清見寺には朝鮮通信使による詩や書、絵が八十点以上も伝わっているが、その多くは清見寺からの眺望によって生まれたものだ。

「広島の鞆の浦にある福禅寺にも、朝鮮通信使の残した物が伝わってますし、岡山の牛窓にもありますけど、清見寺が一番多いんですよ。当時の住職が漢詩の教養がある人で、使節とほぼ対等に詩を交わすことができたということも大きいでしょうね」

当時の住職とは、秀吉や家康との交渉に長け、清見寺の繁栄を導いた、大輝和尚である。

朝鮮通信使は文化八年(一八一一)まで、二百年間、十二回にわたって続けられた。通信使は友好親善使節だが、清見寺に残る多くの詩や書などの話を聞いていると、これは文化交流使節でもあったと思えてくる。

鎖国時代にあって外来文化を受け入れることのできる数少ない場所の一つが、清見寺だったのだ。

「それからこちらは、琉球使節から寄贈されたものなんです」

Fさんは、方丈正面にある「永世孝享」と書かれた大きな板を指さした。

明とも国交を持ちたいと思った家康は、琉球を通じて明と交渉しようと、薩摩に間を取り持つように命じたが、結局うまくいかず、薩摩は武力で琉球を降伏させる結果となった。慶長十五年(一六一〇)島津家久は琉球国王を伴い駿府に登城するが、そのとき同行していた国王の弟が、長旅の疲れから病気になり、亡くなってしまう。

家康は心を痛め、清見寺に王子の墓を造らせたので、その後琉球使節は必ず清見寺に立ち寄り、王子の墓参りをした。扁額は、寛政二年(一七九〇)、使節によって寄贈されたものという。

王子の墓がいまもあるのかと尋ねると、Fさんは、もちろんです、と言った後、こう続けた。

「去年(二〇一〇)がちょうど四百回忌でしてね。そのときは沖縄から七十人ほどの人が来て、ここで沖縄の歌や踊りを奉納する盛大な法要が営まれましたし、お墓の前でも舞が奉納されました。四百年もの間、沖縄の王子の墓を守ってくれたお礼にと、知事からも大きな花が届きましたよ」

「歴史が生きてますね」

「あなたみたいに訪ねてきた人たちに話をすると、何人かは清見寺の歴史を心に留めてくれます。その積み重ねなんでしょう」

清見寺では、四百年前のことも歴史の彼方に追いやられてしまわずに、人々の交流によっていまも生きた歴史として流れている。

「最後に見晴らしのよいところにご案内しましょう」

案内された建物は潮音閣といい、一面窓ガラス張りの部屋から駿河湾が一望できる。

清見が関は、片つかたは海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶり合ふにやあらむ、清見が関の波もたかくなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。

平安時代に東海道を旅した菅原孝標の娘が、『更級日記』にこう記しているように、関所からよく見えたという興津の海は風光明媚、清見潟と呼ばれたその海岸は、正面に三保の松原、左には富士山、海岸寄りには大きな岩と、変化に富んだ景観を持ち、旅人の目を捉えた。

昭和三十年ごろなら、これとさほど違わぬ風景を前に、歓声が上がっただろうが、現在海沿いは倉庫が建ち並ぶ興津埠頭で、海の景色は遮られている。

「昔はこの正面から三保の松原が見えたんです。一の字のように一直線にね」

目の前の風景は、あらかじめそうとわかっていても落胆させられる。だが清見寺の生きた歴史に触れたいま、私の目は想像力というものを得たようだ。

紺碧の海に緑の一文字が横たわる。その風景を思い描いているうち、古代以来この風景に惹かれ、興津と縁を持った人々の顔が浮かんできた。

美しい風景を求めて人が集まれば、そこに歴史が生まれる。風景と歴史は、表裏一体なのかもしれない。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

関連記事

  1. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    藤枝

    岡部の光泰寺で拝観した木喰《もくじき》仏が、脳裏に焼き付いている。…

  2. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    庄野

    石薬師の家並みが途切れると、東海道は畦道になる。もう数ヶ月早かったら目…

  3. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    土山

    数年前、かつて近江国と呼ばれた滋賀県各地に足繁く通った。日本列…

  4. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    掛川

    菊川坂でYさんと出会い、道中を共にしたのは先月のこと。城好きのYさんは…

  5. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    見付

    見付に着いたのは、夕方の五時に近いころだった。袋井から見付まではおよそ…

  6. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    桑名

    宮から桑名までは、二通りの行き方があった。一つは七里の渡しで、熱田から…

コメント

    • wpmaster
    • 2018年 1月 18日

    こんにちは。いつもご覧いただきましてどうもありがとうございます。清見寺は歴史を守り伝えようとする心意気が伝わる良いお寺でしたので、是非お近くにいかれることがありましたらいらしてみてください。運動は嫌いですし苦手ですが、歩き出すと止まらなくなる性分のようで…(^_^;) といっても、少しずつ距離を延ばして行っただけのことで、東海道を歩かれている方の中には、私の数倍健脚な方が大勢いらっしゃいますし、昔の人はみな歩いていたことを思うと、私などはまだまだでございます。

    • 松本 茂樹
    • 2018年 1月 18日

    ありますよね。過去の歴史とは似つかわしくもなく、落胆させられることが。しかし、このブログを拝見して、いつの日か、興津方面に向かうときは、清見寺に立ち寄りたいと思いました。それにしても、高橋さんは、健脚なんですね。先祖すじに、伊能忠敬さんなどがいらっしゃるでしょうか(笑)

  1. この記事へのトラックバックはありません。

最近の記事

連載記事

アーカイブ

  1. 東海道の祭

    瀧樹神社のケンケト踊り
  2. 寄り道東海道

    旧逢坂山隧道
  3. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    日坂
  4. すばらしい手仕事

    箱根の寄せ木細工
  5. 寄り道東海道

    観音山
PAGE TOP