東静岡駅前で再開発の音を聞きながら、府中宿に向かう。府中というのは律令制の時代、駿河国の国府が置かれていたことから付いた地名で、駿河の府中を略して駿府とも呼ばれる。現在の静岡だ。府中はそういう意味なので、各地にその地名が残っている。東京の府中について見ると、政治の中心は東へ移り、府中は郊外になったが、静岡の府中は今も変わらず政治の中心にある。
東京から遠ざかるにつれビルが減り自然が増えていくものと思い込んでいたが、府中で私が目にしたのは、東京に舞い戻ってしまったかと思うような、都会的な街並みだった。スクランブル交差点の信号が青になると、四方八方から大勢の人が歩き出す。洗練されたファッションに身を包んだ若者も多い。ビルが並び、109や丸井もある。東京では当たり前の光景だが、ほとんど人とすれ違うことなく東海道を歩いてきた私は、人にぶつかりそうになって渡るスクランブル交差点に戸惑い、次の瞬間どこかほっとした気持ちにもなる。
東海道は伝馬町通りから呉服町通りへ。アーケードの商店街になっている呉服町通りには、ドラッグストア、宝飾店、レストラン、居酒屋などが軒を連ねる。その間にお茶や蒲鉾の店といった江戸時代創業の店も数軒あるが、全体の雰囲気は都会的。いつの間にか東海道を歩いていることを忘れ、東京のどこかの街を歩いている気分になる。
伊勢丹が見えてくると東海道は左折し、七間町通りに入る。呉服町通りと七間町通りの交わるところにかつて高札場があり、伊勢丹一階のシャネル前にその石標が立つ。そこを北に直進すると、駿府城の濠に出る。現在駿府城跡地に城はなく、広い公園になっている。立ち寄らずに済まそうかと思っていたが、この町を造った家康にもう少し歩み寄りたくなり、北に向かった。
家康は七十五年の生涯の三分の一を、府中で過ごしている。最初の府中との関わりは、家康がまだ幼い六歳の時、いわゆる人質時代である。家康の生家である三河の松平家が西の織田家に攻められたことから、東の今川家に援助を求めたところ、家康を人質として預けるよう要求されたのだ。家康はその後十九歳で岡崎に戻るまでの十二年間を、府中で過ごすことになった。
二度目は天正年間の五カ国領有時代、家康四十五歳の時。今川義元が桶狭間の戦いで信長に敗れると、家康は今川家と決別して岡崎に戻り、信長と結んで東から攻めてくる武田軍に対抗、やがて三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国の大名となる。その際家康は、五カ国支配の拠点として府中に城を構えた。それまでの拠点浜松ではなく府中を選んだのは、戦略上のことだろうが、府中への愛着も否定できないだろう。
二度目の府中は、秀吉に関東へと国替えを命じられたため五年で終わるが、その後家康は関ヶ原の戦いを制し江戸で征夷大将軍として江戸幕府を開くと、わずか二年で将軍職を息子秀忠に譲り、自身はまた府中に戻ってきた。その時家康は六十六歳、府中に城を構えると、亡くなるまでの十年間ここで大御所政治を行った。府中と最も関わりが深かったのはこの時代で、現在の静岡はこの時造られた町が基になっている。
家康は亡くなる直前、遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたら日光山に小堂を建てて勧請、神として祀るよう遺言し、死の翌年秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)が建てられた。家康の亡骸があるのは久能山なのか、それとも日光なのか、いまだ確かなことはわからないが、何にせよ家康自らその亡骸を安置してほしいと言い残した場所が駿河湾を見下ろす久能山だったことは確かである。そこには政治的な思惑や信仰上の理由が考えられるが、その根底には久能山、ひいては駿河国への愛情があったのではないだろうか。
そんなことを思いながら公園を歩いていると、復元された東御門が見えてきた。駿府城の資料館になっていて、太い梁や柱に囲まれた堅牢な空間に、城の平面図や再現模型などが展示されている。寛永年間の火災で城の大半が焼失、天守閣が再建されないまま現在に至っているので、再現模型はありがたい。天守閣は五層七階、白が際だつ明るい雰囲気。南西に千四百坪近い広大な本丸御殿があり、家康は普段そこで執務を行った。
「江戸に将軍秀忠がいましたけど、実際に政治を動かしていたのは駿府にいた家康なので、ここが当時の政治の要でした。よかったらご案内しましょうか」
ガイドの男性が声をかけてくれたので、ありがたくお願いすることにした。
「ここには家康が天正年間に建てた城があったんですが、将軍職を秀忠に譲って駿府に戻ってきたとき、家康は別の場所に城を築こうと考えていたようです」
「昔自分が建てた城があったのにですか?」
「そうなんです。駿府城の南にある川辺なんですけどね。当時の安倍川は網の目のようで、洪水になると被害も大きかった。この川を家康は城に取り込みたかったんでしょう」
そういえば江戸城でも、家康は日比谷入江と堀を結ぶために平川を付け替え、道三堀を掘っている。東海道の起点日本橋の下を流れる日本橋川は、その際に出来た人工の水路だったことを思い出す。水路が確保できれば、年貢米など様々な物資を容易に城へ運ぶことができる。けれども府中にいる家康の頭には、もっと壮大な構想が描かれていたようだ。
「当時はヨーロッパ諸国が海外に進出していた時代なので、家康はその流れに乗ることを考えていたんじゃないですか。大型の帆船が入ってこられる場所に城を造りたかったんでしょう。それが川辺。でも家康も安倍川には太刀打ちできず、その計画は御破算。結局天正時代の駿府城跡、つまりここに城を築いたというわけです」
実質的に政治の実権を握っていた家康は、駿府城をそれに相応しいものにしようと多くの精鋭を集め、城の拡充を計り町造りを行った。結果生まれたのが、四神相応に基づき綿密に町割りされた府中である。
私たちはジオラマの前に立ち、当時の府中の町を眺めた。武家地、寺社地、町方と棲み分けされた府中の町は計算しつくされた感がある。そして大きい。東海道も付け替えられ、西から来た人は、東海道の正面に天守閣を望むことになった。当時の人口は、府中を訪れた外国人ドン・ロドリゴの見聞記によると十二万。江戸は十五万というから、どこまで正確かは別にして、かなりの規模だったとわかる。
「江戸の城下町が完成したのは家光の代ですから、駿府の城下町はそれに先駆けて完成していました。今も呉服町、両替町なんか残ってますが、当時は駿府九十六ヶ町と呼ばれていました。土地にかかる税金が免除され、ポルトガル船が持ってきた生糸の独占権を駿府の商人に与えたので、城下町はずいぶんと潤っていたようです」
慶長十四年(一六〇九)にはオランダ国王使節が、その二年後にはスペイン国王使節が、さらにそのまた二年後にはイギリス国王使節がそれぞれ来日。いずれも府中にいる家康のもとを訪れ、オランダとイギリスはこの会談をきっかけに平戸に商館を設立している。ちなみにこれらの国々との国際外交と貿易において家康を支えたのは、ウィリアム・アダムズ、日本名三浦按針だった。
鎖国とはいえ、完全に孤立していたわけではない。府中の地で、家康はむしろ西洋諸国と繋がりを築こうとしていたのだ。
府中は西洋外交発祥の地だった…。
駿府城跡に身を置き、話を聞いているうち、そんな気がしてきた。
「この後はどちらまで」
一通り展示を見終えると、ガイドの男性が尋ねた。
「今日は府中までなので、あとは気の向くまま街を少し歩いてみようかと」
「よかったらお浅間さんに行ってみてください。家康との縁も深いですから。人質時代に預けられていた臨済寺が神社のすぐそばだったので、幼いころから信仰を寄せていましたし、元服式もそこで行ってます。総漆の社殿が見事ですよ」
お浅間さんというのは、静岡浅間神社のことで、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の三社を総称してそう呼ばれている。この土地最古の古社で、神社が鎮座している賤機山から、静岡の地名が生まれたらしい。家康にゆかりの神社ということもあるが、やはりその土地の古社なら、お詣りしないわけにはいかない。
外に出ると、夕刻の府中に五月らしい爽やかな風が吹いていた。ビジネスマンが行き交う道を抜け、神社を目指した。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。