連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

丸子

丸子まりこに来たら、立ち寄りたい場所があった。名物とろろ汁の店だ。丸子は、難所として知られた安倍川と宇津ノ谷峠の間にある。一息入れる旅人が多かったうえ、美味しい自然薯が採れる土地だったことから、いつしか丸子にはとろろ汁を出す店が増えていった。

十返舎一九も広重も、丸子ではとろろ汁の店を描いているし、晩年の松尾芭蕉も門弟への餞として「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」という句を贈っているように、江戸時代とろろ汁は丸子の代名詞だった。

現在の丸子にも、とろろ汁の店が数軒ある。その中で一番古くて有名なのが、東海道沿いの丁字屋で、近所から移築した茅葺きの古民家が広重の描く丸子の風景そのままということもあり、遠方からも客が訪れる有名店になっている。観光名所化したところは避けたいが、ここだけは特別だ。

  

「とろろ汁」と書かれた藍色の暖簾をかき分け、引き戸を開けると、中は薄暗くひんやりしている。炎天下を歩き続けたので、店内の暗さに目がすぐにはついていけない。言われるまま囲炉裏のある座敷に上がり、荷物を下ろして汗をぬぐった。

しばらくして暗さに目が慣れてきた。店内を見回すと、十一時を少し過ぎたばかりだが、すでに混み合っている。しかも見ているそばからひっきりなしに客がやってきては、建て増しされた奥へと案内されていく。

間もなくお膳が運ばれてきた。

「お櫃に麦ご飯が入ってます。茶碗に半分ほど盛って、とろろをかけてお召し上がりください。お好みで葱もどうぞ」

自家製味噌と鰹出汁で味付けしたというとろろは、ふんわりとして麦飯によく合う。一杯目のとろろ汁を平らげ、二杯目を食べている間も、次々に新しい客がやってきては私の目の前を通って奥へ通されていく。三杯目に入っても客足は途絶えず、休みない人の動きに目が回りそうになったころ、胃袋にも限界が来た。

 

店を出ると、外は相変わらず強い日差しが照りつけている。しっかり食べたので体力は十分だが、こんなにお腹がふくれていては、峠越えもままならない。腹ごなしのためにも、少し寄り道をしていこうと、丁子屋から北西に一キロ弱のところにある、吐月峰とげっぽう柴屋寺さいおくじに向かった。

吐月峰柴屋寺とは、戦国時代今川氏の六代目義忠と七代目氏親に仕えた連歌師宗長が結んだ柴屋軒に始まる寺で、宗長は晩年ここを拠点に活動し、八十四年の生涯を終えている。

連歌師というと旅に生き旅に死すというイメージだが、晩年の宗長は一カ所に根を下ろした。吐月峰は雅号だが、月を吐く峰とは小粋で、小さな山々に抱かれた丸子にふさわしい。

かつて柴屋寺周辺は泉谷という小字だったように、山間の谷のような地形で、左右に小さな山が迫っている。高くはないが空に突き出した山々に向かって歩いていくと、程なく柴屋寺が見えてきた。

手入れの行き届いた竹垣の向こうで、天高く自然のままに伸びた木々が風に揺れている。山中の離宮といった趣き。素朴な門をくぐると、左の植え込みの奥に、かつては茅葺きだったと思われる本堂が見える。

「ごめんください」

受付で声をかけるが応答はない。しばらくしてまた声をかけるが、やはり誰も出てこない。次もだめなら拝観料を置いて上がらせてもらおうかと、もう一度声をかけてみると、ようやく奥から七十年輩の女性が出てきた。

「ご説明しますので、どうぞこちらへ」

本堂南側は一面ガラスの格子窓、庭のある西側は開け放されているので、堂内には光と風が絶え間なく入ってくる。

「ここは天柱山吐月峰柴屋寺といいまして、室町時代中期に連歌師の宗長が結んだ草庵に始まります。ご存じのように、丸子は今川氏親が家督争いを避けて身を隠したことのある場所で、当主となり駿府で暮らすようになっても、時々草庵を訪れたと言われます。

本堂を建て柴屋寺としたのは氏親で、この庭園は宗長が京都銀閣寺の庭を模して造った借景庭園、国の史跡・名勝になっています。まずこのあたりから、あちらをご覧ください」

と、南側の窓の外を指した。

「奥に見えるきれいな形をした山は、丸子富士と言いまして、冬には雪見も楽しめたようです」

南の植え込みのはるか彼方に、円錐形の山が頭をのぞかせている。

「今度はこちらへどうぞ」

庭に向かって座ると、手前に植えられた低木から、庭に覆い被さるように茂った木々を伝わり、視線は空に導かれる。

「宗長は庭の奥に見える月見石に腰を下ろし、月が昇り池に映る様子を愛でたそうです。池の周りに石が七つ置かれていますが、これは北斗七星をイメージしたもので、七星池といいます」

風が吹き抜け、池に映り込んだ木々を揺らしている。

「ここに座って上をご覧ください。木の後ろに、竹箒のような形をした山が見えますでしょう。首陽山と言って、十五夜のときあの山の先から月が出るんです。その様子が山が月を吐き出したようなので、吐月峰と称されるようになりました」

訪れる前から風雅な響きが気になっていた吐月峰は、そういう由来と知った。囲われた空間に宗長は宇宙を思い描いていたのだ。その心の豊かさに感じ入りながら、上を見た。

その後、私たちは本堂北側へ移動した。そちらにもこじんまりとした庭があり、山から引き込まれた水が音を立てて流れている。右手に迫った竹林は、宗長が京都嵯峨野から移植した竹が元になっているという。

「あの隅まで行って、上をご覧ください。天に突き出たような山が見えます。あれが柴屋寺の山号にもなっている天柱山です」

見上げると、突然空のどこかから鶯の谷渡りが降り、竹林がざわめき出した。私たちはしばらく無言のまま、その自然の会話に耳を傾けていたが、やがて鶯はどこかへ飛び去り、竹林を揺らす風も止んだ。

その後女性は、宗長が使っていた杖や愛用の笛、自筆の連歌といった寺宝の説明をすると、「後はご自由にご覧ください」と下がっていった。

再び一人で本堂に戻り、庭に向かって腰を下ろした。

ここにいると心が落ち着く。庭というのは、多かれ少なかれどこもそういうものだが、柴屋寺で感じる安らぎは格別な感じがする。この寺は庭のどこからでも山が見えるというのではなく、ある場所から見上げないと借景として取り込んでいる山が見えない。それだけ山々が近くに迫っているということだが、そのお陰で山々に守られている気がしてくる。さらにここは、自然のまま天に伸びた木々に囲まれているので、山と木で二重に囲われていることになる。

宗長は丸子の自然に守られたこの庭で精神を研ぎ澄まし、連歌の会を催したのだろう。けれども宗長は、この柴屋寺で連歌三昧の安らかな日々だけを送っていたのかというと、必ずしもそうではなかった。

宗長は氏親にあまりにも信頼され、重用されすぎたのではないだろうか。宗長は今川家お抱えの連歌師だったが、氏親が宗長に求めた役割はそれだけではなかったと考えられる。

連歌の起源は『万葉集』に溯ることができるが、百句を一作品とする長連歌は鎌倉時代あたりから起こり、南北朝から室町にかけてが最盛期だった。その中で第一人者だったのが宗祇で、宗長は宗祇の弟子にあたる。

当然ながら連歌は複数で行われる。貴族の邸や寺社などに人々が集い、連歌師を中心として歌が紡ぎ出されていった。

やがて連歌が戦国武士の必須の教養になると、彼らは積極的に連歌師に教えを請うようになる。連歌には子細な規則があり、それに則って詠むには、古典の素養や茶道、香道などの心得も不可欠だったのだ。その結果、連歌師たちは武士らの求めに応じて、各地に出向くようになった。

戦国時代、連歌師たちは政治的に中立で、相争う国々の間でも通行に支障はなかったと言われている。ということは、連歌師たちは各地の情報を比較的容易に得ることができたはずで、連歌の会ではそうした情報を連歌師から得ることも、目的の一つとされただろう。

宗長は柴屋寺に居を定めながら、関東や北陸、京都などに頻繁に出かけており、氏親も宗長が旅の途中で得た情報を求めていた可能性がある。そればかりか、この自然に囲まれた静かな寺が、今川家の軍事上の秘密基地としての役割を担っていたとも言われているらしい。

柴屋寺から西に一つ山を隔てたところに、大鈩おおだたら不動尊があるが、そのあたりは丸子大鈩という地名で製鉄を連想させる。また宇津ノ谷に向かう国道一号線沿いには、赤目ヶ谷というバス停があるので、昔そのあたりは赤目ヶ谷と言ったのだろう。この地名から連想するのも鉄である。さらに柴屋寺の近辺には細工場という地名もあったというから、この一帯で武器を造っていた可能性がある。実際専門家の間ではそのような議論がなされていると聞く。

宗長がどこまで軍事面に介入していたのかはわからないが、無関係ではなかっただろう。庭から見える山々の向こうに戦の狼煙を見つけたら、それを伝えたこともあったかもしれない。

宗長はどんな思いで氏親の期待を受け止め、それに応えていたのだろう。連歌師にとって有力者の庇護は必須だったが、氏親の要求すべてに応えることが宗長の本意だったのか。

氏親が、病のため実質的な政務を妻の寿桂尼に譲った大永六年(一五二六)、宗長は尊敬する師匠一休ゆかりの地で最期を迎えたいという長年の希望を叶えるべく二月に上洛した。その年の六月、氏親が亡くなったという知らせが届いても、宗長は駿河に戻ることはなかった。

私はそこに宗長の本音を見る。宗長は、もう十分氏親に仕えた、複雑な思い出の詰まった柴屋寺には戻りたくない、そんな風に思ったのではないだろうか。

ところがその翌年、宗長は二度とその土を踏むことはないと思っていた駿河に連れ戻され、柴屋寺で最晩年を過ごすことになった。

氏親亡き後の駿河で、宗長に対する風当たりは強く、柴屋寺にそれこそ身を潜めるようにして暮らしたと言われる。銀閣寺を模して造った庭も掘り返され、田畑に変わった。宗長が書き残した『宗長日記』は、次の歌で終わっている。

くまもなき空もみる〱かきくらし をば捨山のてる月にして

月見石に腰かけ、空高く昇る月が池に映じる様子を愛でた時代が嘘のような、悲しく寂しい歌だ。

一休ゆかりの地でという願いは叶わず、宗長は柴屋寺で生涯を閉じたが、氏親に仕えていた時代、少なくとも歌に心を寄せているときの宗長は、この柴屋寺で豊かな時間を過ごしただろうし、氏親は宗長にとって申し分のない相手だったと思いたい。

月見石の後ろに、宗祇と宗長の墓がある。樹木に隠れて見えないが、見えなくていいのだ。こうして庭に向き合い、宗長が眺めたように空を見上げ、月夜を思い浮かべ、宗長の粋な造園センスに感心する。それが樹木に隠れた墓に手を合わせることであり、最晩年の失意を慰める一番の方法のような気がする。

そろそろ寺を辞そうと腰を上げると、野鳥の鳴き声が天から降り、静寂が破られた。

自然は心を浄化する。宗長にもそう思える瞬間が、何度もあったに違いない。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

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コメント

    • wpmaster
    • 2018年 2月 02日

    コメントをどうもありがとうございます。丁字屋さんにいらしたことがあるのですね。東海道中お店に入って昼ご飯を食べたのは数えるほどしかありませんでしたので、その意味でも丁字屋さんのことはよく覚えています。静かな一帯なのにお店の周りだけ大勢人が押し寄せて、ちょっと異様な感じもいたしましたが。。鶯は私も姿を見たことはありませんが、どこからともなく降ってくる鳴き声はいいものですね。

    • 松本 茂樹
    • 2018年 2月 02日

    ほっこりとした、人間らしさを感じたエッセイでした。ウグイスの谷渡りには、何度も遭遇していますが、なかなか姿をみることができませんね。筆者はいかがですか?ただ、田舎の家の庭で、草むしりをしていたら、すぐ近くの梅ノ木にウグイスが飛来してきてホケキョと鳴きました。目と鼻の先でした。体を凍りつかせてみていると、程なく立ち去っていきました。それと、丁字屋は2回行きました、やはり、ひとの多さにビックリしました。以後、たまに、彦根の山奥で、自然薯を掘って、いただいたりしました。よく、スズメ蜂に襲われなかったなー。

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