岡部の光泰寺で拝観した木喰仏が、脳裏に焼き付いている。
富士山と富士川に挟まれた甲斐国丸畑に生まれた木喰は、宝暦十二年(一七六二)四十五歳のとき、日本廻国の修行を発願し、五十六歳の安永二年(一七七三)廻国修行の旅に出発、九十三歳で入寂するまで幾度か故郷の丸畑に戻りながら全国各地を廻り、数え切れないほどの仏像を残した。
木喰が西から駿河国に入ったのは、寛政十二年(一八〇〇)八十三歳のときで、六月に大井川を渡って藤枝では利八という旅籠に泊まり、翌日岡部に移動、二ヶ月ほどの滞在で岡部に六体の仏像を残すと、宇津ノ谷峠を越え故郷に帰った。現在岡部は藤枝市になっているので、七体の木喰仏が藤枝市にあることになるが、そのほとんどが岡部に集中している。
私が惹かれたのは、光泰寺に伝わる二体のうち、聖徳太子像の方だった。その像は全体に丸みを帯びて柔らかな雰囲気だが、木喰のいわゆる微笑仏とはやや趣が異なる。眉間のあたりに思いを一点集中させているその表情は、優しいけれど厳しく、閉じられた目は遠くを見据えているようで、高い精神性がにじみ出ている。
静かなお堂でその像に向き合っていると、伊吹山の麓、近江国米原の観音寺にある最澄座像が思い浮かび、似通った表情にどきりとした。
木喰は天明六年(一七八六)六十九歳のとき、北陸から近江に入り、琵琶湖東岸を南下して、西国三十三カ所の三十一番長命寺と三十二番観音正寺に立ち寄っている。ということは、米原の観音寺でこの最澄座像を目にしていたとしても不思議ではない。
それにしても木喰の行脚には驚く。木喰が歩いた道を図にしたものを見たことがあるが、それによると北海道から九州まで、まるで現在の鉄道網のように全国各地張り巡らされていた。それに比べたら、いま私が歩いている東海道はそのごく一部に過ぎない。
この日は歩く距離が長い上、峠越えに暑さが加わり、いつになく疲労が激しかった。木喰の歩いた道のりを思えばと、自らを鼓舞し、ひたすら無心で歩いた。
どのくらい歩いただろう。成田山と書かれた大きな看板が目に入るころから、街道沿いには民家に混ざって少しずつ商店が増え、いつしか本格的な商店街になっていた。思わず「助かった……」とつぶやきながら、汗をぬぐった。予約した宿まではまだ数キロあるが、ようやく藤枝に着いたのだ。
商店街の始まるあたりがかつての宿場の始まりで、江戸時代の藤枝宿はここから二キロにわたって続いていた。金物屋に文具屋、花屋に肉屋、洋品店に和菓子屋と、商店街はありふれているがどこか懐かしい感じがする。
宿場時代の面影は何も残っていないが、遠州屋、奥州屋、近江屋といった店の名前は、宿場時代からのものだろうか。そのあたりは白子町商店街という。街道の両側に隙間なく店が並んではいるものの、夕方の買い物時だというのにシャッターが下りたままの店が目につき、人の姿も少ない。
白子町商店街はやがて長楽寺商店街に変わる。この商店街は先ほどよりさらに店がまばらで、商店街というより住宅街といった感じがする。そこに一軒、立派な門構えの家。宿場時代の建物かと思って見ていると、通りがかりの人が「ここは小説家小川国夫さんの家です」と教えてくれた。
向かいには、見上げるほど大きな常夜燈が立ち、後ろに槙が聳えている。奥には古そうな寺も見える。その寺は蓮生寺といい、かれこれ八百年以上の歴史を持つらしく、東海道からもよく見える山門はこのあたりで異彩を放っている。
こういう門構えなら期待できそうだ。
気分を変えたい思いもあり、薄暗くなりかけた境内に入ると、古そうな山門に反して中は新しく、本堂奥に聳えるイブキの老木がここの主のように鎮座していた。身をよじるように幹をうねらせ、何本もの棒に支えられながら立っているその木は、樹齢七百年を超えるという。鎌倉に幕府が置かれ、京都と鎌倉の間の往来が増えた時代から、この木はずっとここにあるのだ。
「明治の大火事で、だいぶ焼けてしまったんですよ」
古木を眺めていると、寺の奥から出てきた初老の男性が教えてくれた。
火事はかなりの規模で、この木ばかりか藤枝宿の名残がほとんど焼けてしまったという。東海道沿いで一際目立つ山門は江戸時代のものだというから、それが焼けなかったのは不幸中の幸いだ。
「本堂は焼けたけど、お宝は良いのがありますよ。ここは熊谷直実にゆかりがあるんで、直実の像や刀もね」
と、その人は付け加えた。
普段は拝観できないようだが、熊谷の武将が藤枝に関係があるとはおもしろい。頼朝の御家人だった直実は源平の戦いに参加しているので、その際藤枝に立ち寄ったのかと思ったが、そうではなかった。
『平家物語』に、直実と平敦盛が一騎打ちをする有名な場面がある。自分の子供ぐらいの歳の敦盛を涙ながらに討ったという話だが、結局直実はそれを悔いて出家し、法然の弟子になった。直実の法名は蓮生、この寺が蓮生寺というのは、蓮生によって開かれたことに由来するのだという。
「お寺に関心があるなら、東海道から一本入るといろいろありますよ。藤枝は結構寺が多くてね。この近くだと長楽寺があるし、ちょっと歩くけど鬼岩寺も名刹ですよ。奈良時代の寺で、藤枝では一番古いでしょう」
宿場時代の名残はなくても、寺を通じ藤枝の歴史に触れることができるなら、むしろ私にはその方がありがたい。明日はまずこのあたりで一番古いという鬼岩寺に行ってみることにして、その日の旅を終えた。
翌早朝、まだ薄暗いうちに宿を発ち、鬼岩寺に向かった。
藤枝は山がちだった丸子や岡部と違い、平地に拡がりが感じられるが、全く山がないわけではなく、北に連なる山塊が、流れ出した溶岩の跡のように、幾筋か藤枝の中心部に迫っている。そうした流れ落ちる山の先端に、鬼岩寺は鎮座していた。
早朝の寺は、山が発する水蒸気に包まれて清々しい。深呼吸して中に入ると、右隅に置かれた夥しい数の石塔に目が留まった。十数基の宝篋印塔の左右に高さ三、四十センチほどの小さな五輪塔が数にして百以上、脇には板碑も見える。五輪塔はお寺の背後の山に墓地を整備する際見つかったものらしく、地中にはまだ埋められたままのものもあるという。その一角から発せられるある種独特の雰囲気に押され、寝ぼけた体が完全に目を覚ました。説明には、中世から近世にかけての墓標とある。
中世の人たちは、死者の霊は北西の山の彼方にあると考えていた。このあたりは藤枝の北西に位置しているので、その時代この裏山が藤枝の墓地だったということだが、興味深いことに、そこからは古墳時代の円墳もまとまって見つかっている。
鬼岩寺はそういう山の麓に、神亀三年(七二六)に開かれた。寺伝によると、聖武天皇の勅願、行基による開基という。本堂には行基が自ら彫ったという聖観世音菩薩がご本尊として祀られているが、秘仏なので拝観はできない。その代わりというのか、本堂左に行基の腰掛け岩と呼ばれる大きな岩を見つけ、そちらに行ってみた。
その岩に行基が座り、寺院建立の構想を練ったという謂われがあるそうで、そこに腰掛け思いを集中させると良い知恵を授かると書かれている。少しでもご利益があればと、腰掛け瞑想してみた。
行基は聖武天皇が東大寺を造る際、中心になった高僧だが、庶民に布教活動ができなかった時代に広く教えを広めたことで、朝廷から弾圧をも受けた。行基の活動は単に仏の教えを広めるに止まらず、貧困に苦しむ民衆を助けようと、溜め池などの灌漑施設や橋、布施屋と呼ばれる救済施設などを造る、いまでいう社会貢献事業と併せての布教だったところに特徴がある。
民衆を底から支えたことが、結果的に仏教を民衆に広めることになった。朝廷は行基のそうした統率力と、行基の布教によってまとまっていく民衆の力に怖れを感じ、弾圧したが、聖武天皇の時代になると一転、東大寺造営に際し行基を抜擢した。
行基は全国津々浦々至るところに、足跡を残している。藤枝には東国への布教活動の途中で立ち寄り、寺を開いたのだろうが、ここでそれ以外の仕事をしていったかもしれないとも思う。
地図を見ると、近くには瀬戸川が流れている。鬼岩寺はその瀬戸川を挟んで志太郡衙と対照的な位置にある。ということは、古代このあたりは交通の要衝だったはずで、中央に納める米などの庸調を運ぶ人や都で労役を供する人たちが行き交った様子が想像できる。当時彼らはかなり過酷な旅を強いられ、帰路餓死する者も出ただろう。行基が各地に建てた布施屋はそうした人たちを救うための施設だったと考えると、鬼岩寺がその役割を担っていた可能性もあるような気がするが、確証があるわけではない。
行基が腰掛けたという岩にしばらく座っていたが、恐れ多くなって腰を上げると、その左には縦長の深い筋が数本走る岩が置かれていた。
昔この石で爪を研いでは村人を困らせた鬼がいて、その鬼を空海が裏山の岩に封じ込めたことから、寺は鬼岩寺と呼ばれるようになったというように、寺の名前の由来になった岩だが、その謂われを信じれば、この寺は弘法大師にも縁があることになる。
弘法大師もまた、全国各地に数え切れないほどの足跡を残している。弘法大師の足跡には、後世の脚色や創作も多く、伝承地すべてが真実とは言えないが、だからといってすべてを否定するものではないだろう。
実は行基の足跡と空海の足跡が重なることがたびたびあるので、以前から気になっていた。江戸時代全国各地を行脚し、十三万体という膨大な数の仏像を刻んだ円空の足跡にも、行基や泰澄の影を見ることが多い。さらに言えば、岡部でその足跡に触れた木喰は、円空の足跡に重なるところがある。
生きた時代は異なるが、彼らはみな信仰のもとに日本各地を歩いた偉大な旅人だった。
彼らは聖なる場所、魂の鎮まる場所を本能的に感じ取っていたのではないだろうか。
東海道には、彼らの足跡が交差する場所がある。鬼岩寺も、そして藤枝も、そういう場所だったのかもしれない。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。