連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

島田

まだ薄暗いうちに藤枝を出発、あちらこちらに立ち寄り、島田に着いたのは九時ごろだった。かつて宿場が置かれていたところは、現在信用金庫や自転車屋、薬局、洋品店といった店が並ぶ商店街になっている。開店前ということもあって、シャッターが下りたままの店が目につき、通りは閑散としているが、島田宿は次の金谷と共に、江戸時代大井川の渡しで栄えた歴史を持つ。

箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川

そう箱根馬子唄にも歌われたように、大井川の水は基準を超えるとすぐ川留めになり、旅人は水が引くまで待たなければならなかった。数日で済めばまだいいほうで、長いときには一ヶ月近くに及んだ。それが宿場の繁栄に繋がったとも言えるが、旅人にとっては大変なことだ。

岡部で立ち寄った大旅籠の柏屋で、大井川が川留めになると岡部の宿も賑わったという話を聞いた。そのときはあまりぴんと来なかったが、ここまで歩いてきてその距離を実感すると、影響の大きさに今更ながら驚かされる。

ちなみに、松尾芭蕉も大井川が増水したため、島田で足留めされることがあった。その際滞在先となったのが、島田で川庄屋や問屋などを勤めた塚本家だった。三代目塚本如舟は自身も俳諧を嗜んだので、芭蕉にとって大井川の増水はむしろありがたいことだったかもしれない。

東海道沿いに、その際詠んだ連句が刻まれた句碑を見つけた。

やハらかにたけよことしの手作麦     如舟
田植とゝもにたひの朝起                 はせを

川留めで滞在を延長されているとは思えないのどかな句で、芭蕉は如舟邸での滞在を楽しんでいたように感じられるが、実際そうだったのだろう。旅を続ける芭蕉にとって、行く先々で句を通じ心を通わせることができる時間は何より大切な時間だったはずだ。如舟は芭蕉にとってそれができる一人だったのだろう。芭蕉との交流により如舟に蕉風が伝わったことは言うまでもない。

如舟は島田出身の宗長を偲んで宗長庵(長休庵)を建て、そこで仲間たちと句会を催していた。そういう中で、芭蕉は如舟を知った。芭蕉自身も宗長を尊敬していたというから、二人の心も通いやすかったかもしれない。

宗長庵は島田駅前付近にあったというのでそちらに行ってみると、宗長庵跡の表示の隣に、次のような宗長と芭蕉の句碑。

遠江国、くにの山ちかき所の千句に
こゑやけふはつ蔵山のほととぎす        宗長

五月雨の空吹き落せ大井川               芭蕉

宗長と芭蕉では二百年以上の隔たりがあるが、二人は如舟を介し島田で結ばれたように思えた。

 

  

復活した旧道の先に、突如江戸時代さながらの町並みが現れた。

そこは大井川の川越を担った人足たちが待機する番宿や、川庄屋の業務を行う川会所などの建物を復元整備して一カ所に集めた一帯で、大井川川越遺跡と呼ばれる。周りに高い建物も電柱もないので、空が広い。

軒下に六番宿、三番宿と書かれた札を下げた家。その先には、荷物を梱包したり草鞋を販売したりした荷縄屋。さらに先には川札を回収し、人足たちに賃金を支払った札場や川越の大本締めの川会所、といった具合で、現に人が暮らしているところもあり、すべてが公開されているわけではないが、江戸時代の雰囲気は十分に感じられる。

とある番宿が開け放されている。中をのぞくと、褌に法被をひっかけた男の人形が、今にも立ち上がりそうな格好で座っている。

「お客さん、一人かい?先にそこの川会所に行って金を払っておくんなせい。今朝は股通またどおしって聞いてるから一番安い料金だ。肩車なら川札二枚、平連台なら六枚、高欄付きだと八枚だ」

そんな声が聞こえてきそうだ。

当時の大井川はいまと違って水量も多く、人足になるには高度な技術を必要とした。島田市博物館の分館でもらった資料を見ると、川越を担う人足は、島田と金谷でそれぞれ三百五十人ずつと決められていたが、幕末になると六百五十人に増えていたというから想像以上の人数だ。しかも人足になれるのは、島田か金谷の町民に限られ、島田では人口の一割が川越業務に携わる時代もあったという。

収入も膨大だった。たとえば江戸時代の中頃に尾張藩主が大井川を越えたときなど、増水していたこともあって、現在の金額にして一千万円以上が支払われたという。大名側にとっては大変なこの出費も、島田にはありがたい。

大井川に橋が架けられることなく、江戸時代かなりの危険を伴う渡渉が続けられた理由として、橋を架ける技術がなかったとか軍事的な目的だとか様々に言われるが、経済的な理由も大きいだろう。

時代が明治を迎えると、人足による川越は激増する交通量に対応しきれず、ついにお上から渡船や架橋の達しが届いた。島田と金谷合わせて千三百人を越える人足とその家族が反対したのは言うまでもない。

 

川越遺跡は百メートルほど。あっという間に堤防道に突き当たった。

駿河国と遠江国を結ぶ架け橋は、現在水色の鉄橋で、遠目にもよく映える。これを渡るといよいよ遠江国に入る。

風は穏やか、水量が少ないこともあって、富士川を渡ったときのような恐怖感はない。橋の半ばで立ち止まり、川をのぞき込む。

「お客さん、動いたら危ないって。風景に見とれてる場合じゃないよ。しっかり捕まってくれないと」

ふとそんな声が聞こえたような気がしたが、そういえばこの大井川に橋が架かった後、それまで命がけで東海道の難所越えを手助けしてくれた人足たちはどうなったのだろう。時代の移り変わりにある程度の犠牲は付き物だが、長い歳月箱根に比肩する東海道の難所の交通を担ってきた人たちが、ばっさり切り捨てられたとしたら忍びない。

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

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