連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

金谷

現在大井川下流には、十以上の橋が架かっている。道が出来、鉄道が通るたびにこれらの橋が造られていったが、その中で先鞭を切ったのが、いま歩いている大井川橋だ。

急増する交通量に対応すべく、明治に入り大井川に渡船と架橋の許可が下ると、さっそく計画が立てられ、明治九年(一八七六)最初の仮橋が完成した。ところが大井川を橋で制するのは容易ではなく、完成して間もなく増水で流失。さらに明治十六年(一八八三)本格的な橋が完成するがそれも洪水で流失。やむなくその後しばらく渡船が行われていたが、もう一度挑戦し、昭和三年(一九二八)にようやく橋が完成した。川越も大変だったが、橋を架けるのにも相当な苦労があったのだ。

そんな先人たちの努力の結晶である橋を歩きながら、いつも新幹線で東京大阪間を移動するとき、一体何度大井川を越えたことに気づいただろうかと自問した。東京を発ち静岡県を通過する間のまとまった時間は、読書か居眠りに当てられることがほとんどで、窓外に目をやるのは名古屋を過ぎてからではなかったか。

いま私は、そうした日頃の無礼を詫びるような気持ちで、大井川橋をゆっくり歩いている。一キロ近い橋を歩いて渡るには、十数分を要するが、そのお陰で対岸に連なる牧ノ原台地の斜面に目が向く。斜面の大半は茶畑でその間には家も見えるが、目を凝らすと所々茶畑が茶色くなっている。一番茶の収穫を終えた畑なのだろう。あと一月早くここに到着していれば、まぶしいほどの青い丘陵が望めただろう。

 

橋を渡り終え、気持ちも新たに旧道を歩き出す。金谷も島田と同じく川越業務を請け負っていたので、島田側のように川越遺跡があるかと期待していたが、金谷側はごく普通の静かな住宅街で、島田とは様子が違う。

小さな公園に「金谷の川越し場跡」と書かれたイラスト入りの看板が立っている。それを見ると、金谷にも島田と同じく番宿と川会所や札場があったとわかるが、どういう事情なのか、こちらでは保存整備には至らなかったらしい。

ちょうどよいので一休みしていこうと公園に入ると、真新しい石像に目が留まった。羽織袴に丁髷姿だが、漫画のキャラクターのような顔立ちで威厳とはほど遠い。碑文に目をやると、ユーモラスな表情からは想像もつかない、命をかけた篤志家の略歴が書かれていた。

金谷の醤油屋に生まれた仲田源蔵、明治に入って失業した千三百人もの島田・金谷の川越人足たちの救済に奔走した、とある。

牧ノ原台地の一部を開墾地として払い下げ、人足に渡船業務を一任してほしいと要求したが、払い下げがなかなか進展しなかったことから、源蔵は民部卿に直訴を決意した。田畑を売って旅費を作り、東京の民部省に嘆願書を提出。徹夜で民部卿の登庁を待っていたところ、不審者として厳しい尋問と拷問を受けた。最終的には源蔵の熱意が政府に伝わり、土地の払い下げと救助金の支払いが決まり、努力は報われたが、直訴すれば命がないと言われていた時代だ。源蔵は当時二十九歳。青年の熱意が大井川の人足たちを救ったと知った。

開墾といっても牧ノ原台地には雑木も多く、途中で逃げ出す者もかなり出たようだ。結局最後まで残ったのは入植したうちのおよそ三分の一の三十三人、入植した年の秋に最初の茶の種が蒔かれ、四年目には製茶が始められた。ちなみにその指導をしたのが丸尾文六、丸尾も私財を投じて製茶業の基礎を造りあげたという。

牧ノ原台地といえば、現在日本のお茶のおよそ四割を生産する牧ノ原大茶園で知られる。広さは五千ヘクタールとも言われ、その多くが人足同様、明治になり職を失った武士たちによって開墾されたというのは聞き覚えがあったが、川越人足たちもそれに関わっていたのだ。

公園を過ぎると、かつての金谷宿である。民家の間に商店が少しずつ増え、道も広くなっていく。正面には山並み、気づけば緩やかな上り坂になっている。本陣跡の表示が次々に現れ、宿場の中心にやってきたことを知らされた。

金谷には本陣が三軒あった。その一つが現在書店になっている佐塚本陣で、店の前に大きな表示が出ている。店に入ると、どこか懐かしさの漂う昔ながらの町の本屋さんで、広い店内には雑誌から文学まで一通りの本が並び、隅には文具もある。レジに座っている初老の男性に声をかけてみると、その人が十六代目のご当主で、明治になると建物を学校に貸したり、薬局をやったりと、何度か職を転々とした後本屋に落ち着いた、と話してくれた。

「金谷は大井川の川越を控えてたんで、大きな宿場でしたけど、火事で町が焼けてしまいましてね。ここは西風が強くて、よく火が出たんです。島田は水害、金谷は火事ってね。裏に蔵があって、そこには江戸時代の宿帳なんかが多少残ってますけど」

とのこと。

宿場時代の記録全体を散逸させたくないので、宿帳を公開する予定はないらしい。宿場時代の遺品をどうするかは、それぞれなのだ。

東海道線の線路が接近してくるあたりが、金谷宿の西のはずれに当たる。高架をくぐり鉄道の東側に出ると、緩やかだった坂が急坂に変わった。

大井川を渡りほっとしたのもつかの間、東海道はこの先小夜の中山峠にさしかかる。箱根峠に薩埵峠、宇津ノ谷峠とこれまで三つの峠を越えてきたが、小夜の中山峠は箱根に次ぐ難所と言われる。突然の急坂は、早くもこの峠の険しさを物語っているようで、気が引き締まった。

息が上がり、顔は汗だくで真っ赤に火照ってくる。

「最初からなんてきつい道だろう」

視線はつい下を向くが、ときおり民家の隙間から見える山々の風景に涼をもらいながら、急坂を一歩一歩上がっていくと、やがて目の前に石畳の道が現れた。

石畳とは箱根以来。箱根の荒々しい石畳とは違い、金谷の石畳は石が丸く、全体に整って新しい感じがする。そう思っていたところに、茶屋から箒を手にした女性が出て来て、「この石畳は、金谷の住民みんなで造った道なんですよ」と教えてくれた。

ここには元々江戸時代の石畳があったが、舗装工事などで取り除かれ原型を留めなくなってしまったので、復元したのだという。

「石畳はいいですね」

「そうでしょう」

そう言葉を交わしながら、先に続く石畳の上り坂を眺めているうち、道にも栄枯盛衰はあるが、この東海道は形を変えても決してなくなることはないだろうという気持ちを強くした。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

関連記事

  1. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    日坂

    緑豊かな石畳の金谷坂を上っていく。一番茶の収穫が終わり、枝も露わな茶畑…

  2. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    江尻

    江尻は現在の清水、清水港に注ぐ巴川下流にある。江の尻なので江尻なのだろ…

  3. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    赤坂

    御油の松並木が終わりに差しかかるころ、左手に優しい姿の宮路山が見えてく…

  4. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    大津

    前日経験のない筋肉痛に襲われ、果たして最終日予定通り歩けるだろうかと不…

  5. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    藤枝

    岡部の光泰寺で拝観した木喰《もくじき》仏が、脳裏に焼き付いている。…

  6. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    白須賀

    中世、今切が出来る以前の浜名湖は、浜名川によって海に通じ、河口付近に架…

コメント

    • wpmaster
    • 2018年 3月 05日

    コメントをどうもありがとうございます。昔の人の苦労の上に今の私たちの暮らしがあるのだなということを思い知らされました。

    • 松本 茂樹
    • 2018年 3月 04日

    すごいですね。牧の原サービスに立ち寄ったことがありましたが、こんな名も知らない先人の労苦があったのですね。このような先人も、筆者に再び光を当てられて、喜んでいるんじゃないかと思いました。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

最近の記事

連載記事

アーカイブ

  1. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    岡部
  2. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    三島
  3. 心に留まった風景

    高松塚古墳とキトラ古墳
  4. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    保土ケ谷
  5. 東海道の祭

    花笠太鼓踊り
PAGE TOP