連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

日坂

緑豊かな石畳の金谷坂を上っていく。一番茶の収穫が終わり、枝も露わな茶畑を過ぎると、道は鬱蒼と丈高い杉林に入る。木陰の石畳は涼しく、道のでこぼこに気を取られるせいか、上り坂のきつさをそれほど感じない。四百メートルほどの金谷坂はあっけなく終わり、東海道はまたいつもの平らな舗装道に戻る。

「なんだ、また……」

そう思いかけたとき、茶畑が目に飛び込んできた。先ほど石畳道で見た茶畑は収穫が終わっていたが、ここはこれからのようで、六月の初夏の日ざしを受け一面緑に覆われている。この先の峠道は、牧ノ原台地の茶園の中を縫っていく。小夜の中山峠はまだ先と思っていたが、茶園が目につくようになったのでもうそろそろなのか。

 

小夜の中山。その美しい響きには、想像をかき立てられる。実際小夜の中山は古来ここを通った多くの旅人たちの心を捉え、歌枕となったり、紀行文に記されたりしてきたが、響きの美しさの鍵になっている「小夜」には様々な含みがあるようだ。

小夜の中山を詠んだ歌が最初に登場するのは『古今和歌集』。たとえば次のような歌がある。

 

東路の佐夜さやの中山なかなかになにしか人を思ひそめけむ    紀友則 五九四

 

「佐夜の中山ではないが、なまなかに、どうして道険しい恋をし始めてしまったのだろう」といった内容だが、ここは「さやの中山」とある。同じ『古今和歌集』の歌、「甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく横ほり臥せるさやの中山(一〇九七)」でも「さやの中山」である。古くは「さや」、それが次第に「さや」「さよ」両方用いるようになったということらしい。

地名は古いものほど漢字よりも音が大切だ。では「さや」とは何だろうということだが、すぐに思い浮かぶのはこの辺りの地形からきた狭谷という可能性である。一方民俗学者の野本寛一氏によると、「さや」は塞の神の塞ではないかという。塞の神は辻や境界を守る神、つまり道祖神のことで、昔は峠が国と国との境として捉えられていたことを思えば、野本氏の説は説得力がある。

「さや」の由来はそのどちらかなのか、あるいは他にもあるのだろうか…。素人の直感ではあるが、これは狭谷か塞のどちらかではなく、狭谷でもあり塞でもある、つまりその両方が中山というこれも境界を意味する地名に自然と付随していったように思える。

それはともかく、この峠を有名にしたのは、他でもない西行によるこの歌だ。

 

年たけて又越ゆべしとおもひきや命成けり佐夜さやの中山

 

平氏による南都焼き討ちで消失した東大寺と大仏の再興に取り組む重源の依頼を受け、西行は文治二年(一一八六)砂金の勧進を藤原秀衡ふじわらのひでひらに依頼するため、奥州への旅に出た。西行が奥州に行くのはこれが二度目、最初の小夜の中山峠越えは三十歳頃と言われている。最初の旅の目的は定かではないが、能因法師の旅路の後を追い各地の歌枕を訪ねるのが主眼だったらしい。それから四十年近い歳月を経て、西行は再び小夜の中山峠に来たが、間もなく七十になろうとする身で再びこの峠を越えるとは思いもしなかったのだろう。いまこうして小夜の中山を越えることができるのも命あってのものだという感慨が、三十一文字から伝わってくる。

峠というのは、旅人に様々な思いを抱かせる。険しい峠を越えたときの安堵、峠の先に待っている未知の世界への期待と不安、峠の先にある故郷への想い……。

旅はそれ自体非日常の行為だが、特に峠という場所は、旅の非日常性をさらに強める要素を含んでいる。小夜の中山峠を詠んだ歌の数々は、平坦な道を歩くときとは違った心の高ぶりがもたらした詠嘆で、とりわけここでは西行の歌の影響が大きく、以後多くの文学者たちがこの峠を取り上げることとなった。彼らのそうした言葉は新たな旅人を呼び、その旅人もまた言葉を生んだ。

小夜の中山峠には、言葉の連鎖を生み出す地霊がいるのかもしれない。

 

茶畑の横を歩いていると、再び石畳道が現れた。先ほどの金谷坂は上りだったが、今度の道は下りで菊川坂という。金谷坂同様、こちらの石畳も地元の人たちの協力で復元されたものだが、西側の百数十メートルだけは江戸時代後期のものらしい。茶畑の斜面を下る菊川の石畳は日当たりがよく、白い石が反射してまぶしい。

「掛川に行くには、こっちかしら」

突然の声に振り向くと、小柄な女性がちょこんと立っていた。歳のころ七十ぐらい、短い髪の溌剌としたご婦人だ。私も一人で歩いているが、その年齢の女性が一人で歩いているというのも珍しい。私はすでにそのときかなり消耗しており、この炎天下掛川まで歩けるだろうかと思っていたところだったので、

「掛川まではまだ十キロ以上あるし、この先には峠もあって結構大変そうですよ。電車もないですし……」

などと余計なことを言ってしまったが、その人は顔色一つ変えずに「あ、そんなもんね」とつぶやいた。

私たちはどちらからともなく坂を下り始め、どちらからともなく自己紹介を始めた。

その人はYさんといって、二年ほど前から東海道を歩いているという。日ごろ水泳で体を鍛えているので、「東海道といってもいっぺんに歩くわけじゃないから、たいしたことないわ」と言うが、話の端々に後期高齢者という言葉が出てくるので七十五歳は過ぎている。私より三十歳も離れているのに同じ歩調で歩いているうえ、早朝住まいのある平塚から電車で藤枝まで来て、そこから歩いていると言うのだから驚く。

私もその日は朝五時半に藤枝の宿を発ち、何カ所かに立ち寄り、道を間違えもしながら、やっとの思いで金谷に到着したのだった。全身汗まみれ、顔から湯気を出しながら歩いているのに、Yさんは涼しそうな顔をしている。ここに来る前に、諏訪原城跡に寄ってきたらしい。

「山城だったっていうけど、広くてびっくりしたわ。空堀なんかがよく残ってるのよ」

少女のように嬉々として話すYさんの顔を見ながら、この人は本当に掛川まで歩くつもりなのだろうかと疑ったことを反省し始めた。箱根以来久々の道連れ、しかも女一人旅という似た境遇で、相手はかなりの強者だ。これは負けてはいられないと、力が湧いてくる。

六百メートルほどの石畳はあっという間に終わり、私たちは静かな菊川の集落に入っていった。菊川は古代から中世にかけての宿場町、峠越えを控えて栄えたようだが、江戸時代になると金谷宿が出来たので、菊川は休憩のみの間の宿になった。当時の茶屋は残っていないが、山間の集落らしく落ち着いたたたずまいで、茶畑も所々に見られる。

菊川の集落を抜けると、いよいよ峠道に入る。道は舗装されているが、最初から勾配がかなりきつく、早くも体が重くなってくる。

「箱根よりきついわね」

そうつぶやいたYさんの言葉を最後に会話が途切れ、私たちはそれぞれのペースでゆっくりと坂を上がっていった。

  

 

気がつくと、久延寺きゅうえんじの前に来ていた。どうやらここが峠らしい。

久延寺は、奈良時代行基によって開かれたと伝わる真言宗の古刹だが、ここは寺自身の歴史より、峠に伝わる夜泣き石伝説によって知られている。

伝説とは次のようなものだ。

中山峠を越える途中、妊婦が山賊に殺され、お腹の切り口から赤ん坊が生まれたが、みるみる弱っていく。何とか赤ん坊を助けたいと願う母の魂が、東海道沿いにあった丸い石に乗り移り、その石が夜ごとに泣き声をあげたので、久延寺の和尚が気づいて赤ん坊にお乳の代わりに水飴を与えて大事に育てた。やがてその子は立派に成長し、無事母の仇を討った、というものだ。

江戸時代、日坂宿に伝わる話を元に滝沢馬琴が『石言遺響』に記したことで、広く知られるようになったらしい。広重の浮世絵の影響も大きいだろう。

境内に入ると、本堂の右に直径一メートルほどの丸い石が置かれていた。

「それは伝説の石じゃないはずよ」

Yさんがそう言いながら境内に入ってきた。

「あー大変だった。やっぱり歳ね。伝説の石は国道一号線沿いの茶店の裏にあるみたいよ」

タオルで汗をぬぐいながら、Yさんが言った。

江戸時代峠道の真ん中にあった石が、どうして数百メートル北の国道に移されたのかといえば、明治になってから、伝説で有名なこの石を博覧会に出して一儲けしようと、東京に運んだところ、元の場所に戻す費用が足りず、峠下の茶店の庭先に置かれることになったということらしい。

では境内にある石はというと、明治元年(一八六八)に明治天皇が通られる際、道の真ん中に石があって邪魔だというので、いったん境内に移したことがあったことから、昭和三十年代に似たような石をまた境内に置いたのだという。

近代の人間の都合に翻弄された丸石が、これではあまりにも気の毒だ。

久延寺の境内にある丸石は、本物の夜泣き石と形がよく似ている。いまはこれを本物と思って眺めるしかないが、じっと見ていると、その石は実に見事な球形をしており、峠道にこのような丸い石があったら、古の人がこれを神の依り代と思っても不思議ではないだろうという気がしてくる。いや実際そうだったのだろう。国の境であり此岸と彼岸の境でもある峠に置かれた丸い石は、いつしか峠の神となり、そこを通る旅人たちが手を合わせるようになったのではないか。

峠にあって、自然信仰の対象として道行く人々が祈りを捧げてきたこの石は、仏の教えを広めようと全国を行脚する僧たちの目にも留まったはずだ。現在国道沿いにある本物の夜泣き石には、伝説を知った弘法大師が霊を慰めるために指で書いたとされる「南無阿弥陀仏」の文字が残っているという。事実はどうであれ、この文字が刻まれたというのは、峠の神だった石に仏の教えが習合したということだろう。

神としてまた仏として、峠を越える人たちがいったん足を留め、手を合わせる対象だった石が、やがて伝説の中で語り継がれ、より多くの人に知られるようになった。それは様々な伝説が生まれる峠にあって自然な成り行きだが、明治以後この石が辿った運命は、伝説ばかりが肥大したことによってもたらされた悲劇に思えた。

  

久延寺を過ぎると、明るい尾根道に変わった。緩やかな下りの峠道が終わりにさしかかるころ、道ばたに夜泣き石跡と書かれた表示を見つけた。夜泣き石は元々そこにあったのだ。明治にその石を動かした人は、ここに石が置かれていた意味をどれほどわかっていただろうかと思ったが、これも時代の流れ、仕方のないことかもしれない。

明治十三年(一八八〇)に中山新道が開通すると、人々はこの峠を通らずして、金谷から日坂に出た。博覧会に出品するため、夜泣き石が東京に持ち出されたのは明治十四年。そのころすでに峠の往来は減っていた。新道が開通した時点で、丸石の役割は終わったと思うしかない。

 

日坂宿は峠の西にあることからそう呼ばれるようになったというように、坂道が終わるとすぐに集落が現れた。

傾き始めた西日が、街道に建物の影を作っている。峠の静寂をそのまま引き継いだように静まり返った街道沿いに、数軒だが江戸時代の旅籠が残っている。黒っぽい板塀と連子格子が印象的で、日が暮れたらそこに灯りがともりそうな温もりが感じられる。引き戸に手をやってみるが、鍵がかかっていて開かない。

町はどこか時間が止まったような空気に包まれている。

「良い町ね」

Yさんが静かにつぶやいた。

頷きながら、私たちは行きつ戻りつしながら鄙びた日坂の町をカメラに収めると、名残惜しい気持ちでまた歩き出した。

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。(菊川から小夜の中山峠にかけての写真は、ひとつ手前のこちらをご覧くださいませ。)

 

 

 

関連記事

  1. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    保土ケ谷

    かつて相模国と呼ばれた地域は、ほぼ現在の神奈川県に相当するが、保土ヶ谷…

  2. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    桜田へ 鶴《たづ》鳴き渡る 年魚《あゆ》市《ち》潟《がた》 潮干《しほ…

  3. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    島田

    まだ薄暗いうちに藤枝を出発、あちらこちらに立ち寄り、島田に着いたのは九…

  4. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    はじめに

    東海道と言っても一つではない。車なら東名・名神高速道路や国道一…

  5. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    桑名

    宮から桑名までは、二通りの行き方があった。一つは七里の渡しで、熱田から…

  6. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    沼津

    三島と沼津の間はおよそ六キロ。道も平坦なので、気がついたらもう沼津だっ…

コメント

    • wpmaster
    • 2018年 3月 12日

    いかにも近江らしい風景ですね。世の中心ない人ばかりではありませんが、そういう人の行為で制約が増えていくのは悲しいことですね。最近足が遠のいていますが、風景を思い浮かべていたら、また近江を訪ねたくなりました。

    • 松本 茂樹
    • 2018年 3月 12日

    追記
    近くに、伊吹神社がありますが、5年ほど前までは、車で、3合目あたりの高原食堂まで入ることができました。8月第1週の土曜日に、長浜で花火大会が行われているのを、高原食堂あたりから、眺めることができました。あたり一面、夕すげが咲き誇り、風に吹かれてゆれて、なんとも言いがたい夕すげの中から、琵琶湖の水面にうつる花火を見に行くのが夏の最大の楽しみでした。しかし、その夕すげを心ない人が、大型の四駆で踏みにじったりしたからではないかと、山の入り口に鍵がかけられてしまいました。野呂先生を連れて行ってあげたかった。

    • wpmaster
    • 2018年 3月 12日

    コメントをどうもありがとうございます。箱根以来の道連れでした。不思議なことに箱根も小夜の中山も峠道。峠道は出会いの場所なのでしょうか。
    泉神社、どのあたりかと思って調べたら春照の近くですね。春照の太平寺観音堂に円空仏を拝観に行ったことがあります。伊吹山がすぐ近くにあり、清々しいところでした。

    • 松本 茂樹
    • 2018年 3月 12日

    歩いてならでは、ほのぼのした出会いのようでしたね。現代と異なって、車がない時代の険しい峠は、国の境でもあり、此岸と彼岸の境界でもあるような思いを抱かせたかもしれませんね。幾多の人が病やその他で、一命を落としたかもしれませんね。

    追伸 昨日、伊吹山のふもとにある名水が湧き出ている泉神社の近くにオウレン(セリハオウレン)のかわいい花を見てきました。野呂先生にお話したところ、生薬としては、胃腸の薬だ。見てみたいな、とつぶやいておられました。いつの日にか、きっとご案内をしようと心に決めていました。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

最近の記事

連載記事

アーカイブ

  1. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    丸子
  2. 連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

    神奈川
  3. 寄り道東海道

    長寿寺
  4. 歴史散歩

    丹波篠山
  5. 心に留まった風景

    錦市場
PAGE TOP