菊川坂でYさんと出会い、道中を共にしたのは先月のこと。城好きのYさんは私が金谷で諏訪原城跡に寄らなかったのを残念がり、掛川城は是非と勧めてくれたが、そのとき私は掛川城は復元されたもので、東海道を歩いている身として宿場町掛川をまず見たいという思いもあって、「時間があったら行ってみます」と気の乗らない返事をしていた。
そのYさん、後期高齢者というのが信じられない健脚で、小夜の中山峠も難なく越えたが、さすがにその後疲れたらしく、日坂と掛川の中間あたりで別れた。その後旧道を歩く私を一台のタクシーが追い抜いていったので、おそらく乗っていたのはYさんだろう。掛川城に寄って帰るつもりだったかもしれない。頑張って追いついてみようかとも思ったが、そのときの私に早足で進む体力はもはやなかった。
およそ半月ぶりに掛川にやってきた私は、前回の旅を思い出しながら掛川駅前の交差点に立ち、北に向かって一直線に延びる県道の先に掛川城を探した。
「お城に行くと、そこから日本の歴史を見ることになるでしょう。それがおもしろいのよ」
Yさんの言葉が前回の旅以来心に残っていたので、この日最初の立ち寄り先は掛川城と決めていた。
掛川城はこの先の小高い丘にある。あいにくここからでは天守閣らしきものは見えないが、立ち止まり通りを眺めていると、前回気づかなかったこの通りの隅々に目が留まる。道はゆったり、歩道は色石で舗装され、両側に植えられた街路樹が枝を伸ばし初夏の日射しを遮っている。車も人もほとんど通らないのは前回と同じだが、朝ということもあり町の印象は明るい。
掛川城のすぐ南を、旧東海道と並行し逆川が東西に流れている。碁盤目状に整備された町を乱さず、城と城下町との境界にもなっているこの川は、城の外堀として機能していたが、昔はたびたび氾濫する暴れ川で、掛川という地名も欠川、つまり堤防が決壊したこの川に由来するらしい。その逆川に架かる橋までやってきた私は、対岸の木立の向こうにようやく掛川城の天守閣と太鼓櫓を捉えた。
掛川城は、戦国時代の駿河の守護大名今川義忠が、遠江に勢力を拡げる足がかりとして、明応六年(一四九七)から文亀元年(一五〇一)にかけて重臣の朝比奈泰煕に築かせたのが始まりという。当初は現在地より二、三百メートル北東にあったが、義忠の息子氏親の代に替わり今川氏の遠江支配が本格化してくると、氏親は掛川城を遠江支配の要にすべく、永正九年(一五一二)頃さらに規模の大きな城を築かせた。それが現在の城址に当たる。ところが桶狭間の戦い以後今川氏は急速に力を失い、武田氏に追われた氏真は掛川城に逃げ込んだが、西から家康に攻められ、ついに和睦により城を明け渡すことになった。
これを掛川城の第一期とすれば、第二期は天下統一を果たした秀吉の家臣として掛川城に配された山内一豊の時代である。一豊は掛川城主だった十年間に、掛川城を家康に対抗できる防衛力を備えた近代的な城に大改修したほか、城下町の整備、大井川の瀬替え工事と江戸時代の掛川の基礎を造った。天守閣が造られたのも一豊の時代だ。
一豊が築いた掛川城は、関東にいる家康からの攻撃に対抗できるよう、秀吉の築城を手伝う中で培った知識と技術を生かした堅牢なものだったいう。その城の完成から五年ほどで、一豊は家康に忠誠を示し城を明け渡しているのだから変わり身の早さに驚くが、刻々と状勢の変わる戦国時代にあって一豊は大きな時代の流れを読みとる才能に長けていたというべきだろう。その才能を後押しする存在として掛川の果たした役割は決して小さくはない。掛川は東海道のほぼ中央に位置する。そのため東西どちらにも一定の距離を置きそれぞれの勢力を俯瞰できたように思う。
それはともかく、関ヶ原の合戦後一豊は家康から土佐二十四万石を拝領、掛川城には家康の異父弟の松平定勝が入り、以後徳川の譜代大名が入封。これが第三期になるが、掛川城の歴史を概観し、特に私が興味を惹かれるのは一豊の時代である。一豊といえば、妻の差し出した持参金で購入した名馬が信長の目に留まり、出世のきっけかになった逸話が有名だが、掛川との深い縁は知らなかった。
天守閣を目指し急な石段を上ると、先ほど橋からちらちらと顔をのぞかせていた天守閣が全貌を現した。清潔感のある引き締まった印象。中は床も壁も天井もすべて木で覆われ、復元された天守閣にありがちなひんやりとした感じがない。「まず上へどうぞ」と言われ、狭い木製の階段をロープを伝って最上階に出ると、四方が開け放たれ抜群の見晴らしだ。
早速、今歩いてきた南側に眼をやると、碁盤目状になった町の様子までは捉えられないが、今しがた駅から歩いてきた県道沿いの白い建物が、町全体に及んでいるとわかる。掛川の町は白く清潔感があり、突出する高い建物がないためまとまった感じがする。
「この天守閣は平成六年に復元されたものですが、木造なんです。木造というのは全国でここだけなんですよ」
六十代ぐらいのガイドの男性が自慢げに教えてくれる。
入った瞬間、ひんやりする感じがなかったのはそのためかと思ったが、木造での復元となると相当な費用がかかったはず。聞けばある老婦人が多額の寄付をしてくれたことから話が進み、市民による寄付も加わって完成したという。
「富士山が見えますよ」
その声につられ東の窓に移動すると、なだらかな稜線を描く山並みの向こうに、白い山頂がうっすらと。久しぶりに見る富士山。由比の薩埵峠以来だろうか。今見えているのは山頂のほんの一部だが、富士山が見えると心が弾む。富士山の手前の山並みが牧ノ原台地だから、あのどこかに小夜の中山峠がある。
先月私はあそこを越えたのだと懐かしい気持ちで見ていると、ガイドの男性が口を開いた。
「小夜の中山峠に久延寺という寺がありますが、関ヶ原の合戦の二ヶ月半前に、掛川の山内一豊が会津の上杉景勝を討ちに行く家康をそこの茶亭でもてなしたんです。おそらくそこで一豊は家康につこうと決めたんじゃないかと思うんですが、そこでも一豊は奥さんに助けられてるんですよ」
「というと?」
「大坂にいた奥さんが使者に文箱を届けさせたんですが、笠の緒に「文箱を開けずに家康に渡すように」と書かれた密書をしたためておいたんです。文箱には西軍につくことを勧める手紙が入っていたので、それを開けずに家康に差し出したということで、一豊は家康から忠誠心を認められたんですよ」
歴史的な軍議である小山評定が開かれたのはその翌日のことで、家康を中心とする諸大名による連合軍は上杉景勝討伐を中止し、西で挙兵した石田三成を討ちに西へ軍を引き返すことになった。
その際山内一豊は、他に先んじて自分の城を家康に明け渡すと宣言して家康への忠誠を誓い、家康を喜ばせている。
一豊のその発議により、東海道沿いに城や領地を持つ大名たちもその明け渡しに協力することになり、東軍は関ヶ原まで一気に軍を進めることができたのである。
一豊が掛川にいた十年間というのは、秀吉の天下統一から関ヶ原の戦いまで、日本の歴史が大きく動いた時代だった。牽引したのは、秀吉と家康だが、こうして掛川という一つの小さな点から眺めると、一豊も歴史の流れを変えるきっかけを作った一人とわかる。そんな一豊にとって、掛川は一大転機のきっかけをつかむ場所だったのだ。
掛川城を後にした私は、七曲がりまで戻り、前回半ば朦朧と歩いたかつての掛川宿をもう一度歩き直すことにした。前回は夕方で、今回は朝である。時間が違うことで町の様子も違うかもしれないし、何より私自身体の状態が違う。
逆方向に歩く旧東海道は、初めて歩く道のように新鮮で、ここにこんな建物があったのかときょろきょろしながら歩いていると、眼を向けた先に七曲がりとは別の表示を見つけた。この半月の間に出来たとは思えないので、前回見落としたらしい。近づくとそこには塩の道と書かれ、地図も出ている。掛川に塩の道があったのか。私の心は色めき立った。
塩の道と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、糸魚川と松本を結ぶ千国街道だが、沿岸部から内陸に塩を運んだ道はすべて塩の道と呼ばれたので、各地にある。掛川の塩の道といってもすぐにはぴんと来なかったが、表示の地図からその道筋がわかってきた。
掛川を通る塩の道の起点は相良である。相良は掛川の南東五十キロほどのところにある駿河湾沿いの町で、現在は牧ノ原市。その相良を起点に北西に進んだ塩の道は掛川市内に入るとこの七曲がりで旧東海道と合流し、掛川宿を西へ進む。掛川宿を過ぎ、大池橋で旧東海道は南西に、塩の道は北西にと行き先が分かれる。
塩の道はそのさき森町、春野町を経て天竜川上流の山奥に分け入り、南信濃村で信濃国に入る。表示の地図には静岡県域しか出ていないが、塩の道はさらに続き、伊那街道(別名三州街道)と名前を変えやがて塩尻に至る。塩尻から先は松本、穂高、白馬を経る千国街道があり、最後は糸魚川で日本海に出るが、塩が運ばれる順路でいえばその逆で、日本海で採れた塩が千国街道を通って塩尻に運ばれたということになる。
これらの道を辿っていくと、日本列島を縦断する塩の道が浮かび上がってくる。掛川はその塩の道と東海道が交わる場所だったのだ。
その後私は旧東海道と塩の道が分かれる大池橋にやってきたが、そこから先の塩の道は火防の神として有名な秋葉山へ通じる参詣道でもあると知った。秋葉詣の流行は江戸時代の中頃からだが、参詣者は遠江・三河に限らず関東方面からの旅人も含まれていた。彼らは掛川で東海道から分かれるこの道を使って秋葉山を目指したのだ。
そういえば広重が描いた掛川宿は、保永堂版が当時土橋だった大池橋の風景、行書版が秋葉山の鳥居、隷書版が鳥居と常夜燈の風景である。当時の秋葉詣の流行がそんなところからもわかる。
道には様々な顔があり、興味が尽きない。
東海道は東西を結ぶだけではなく、東海道と交わる無数の小さな街道を通じ全国各地と繋がっている。東海道を歩き終えたら、そうした小さな道をいくつか歩いてみようかと、まだ道半ばなのに欲が出てきた。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。