七月、梅雨の晴れ間を狙って歩き出したが、予想以上の暑さで消耗が激しい。そんなときに限って休憩するような場所はもちろん、日陰すらない。とにかく先に進まなければと水を口に含み、吹き出る汗をぬぐいながら、足を引きずるように歩いていると、突然目の前に松並木が現れた。並木の両側には目にも鮮やかな黄緑色の田圃が拡がり、稲が風に吹かれて波打っている。
過酷な道中、ついに幻覚が現れたかと思ったが、木に体をもたげても霧散することなく依然としてそこにあったので、どうやら本物の松並木らしい。助かったとばかり根元にへたり込むと、ペットボトルの水を一気に飲み干した。これまでにも何度か松並木を目にしてきたが、このときほどありがたいと思ったことはない。
ときおり、目の前を風が吹き抜け、松を鳴らしていく。どこからか白鷺がやってきて、しばらく黄緑色の田圃を舞台に舞を披露しては、また去っていく。
松並木のおかげでようやく人心地ついた私は、体の火照りが落ちついたのを見計らい、また歩き出した。
袋井は日本橋から数えても京都から数えても二十七番目というので、五十三次の「どまん中」と言われている。距離の上での真ん中は天竜川のあたりだが、「半分」まで来たというのは嬉しい。
松並木を抜け、さらに一時間ほど歩いたころ、「これより袋井宿」と刻まれた真新しい石標が現れた。その少し先には、一軒の茅葺きの家。「東海道どまん中茶屋」と書かれた幟が風になびいている。ばて始めていたので、ちょうどよい。
中に入ると、真ん中を刳り貫いて囲炉裏に仕立てたテーブルの周りに、小さな木の椅子が四、五客置かれ、学校帰りの小学生たちが、おじいさんに飴をもらってはしゃいでいる。
「こっちへ掛けてください」
その人はそう言うと、麦茶と共に器に入ったお菓子を差し出した。ありがたく出されたお茶を飲み、周りに目をやると、部屋のそこかしこに東海道のガイドやパンフレット、新聞などが無造作に置かれている。
「広重の出茶屋が現れたかと思いました」
そう口火を切ると、その人は無愛想な顔をほころばせた。
「二〇〇一年が東海道の宿駅が出来て四百年目だったでしょう。そのときいろんな整備をしたんですけど、これもその一つですよ。広重が描いた茶屋がちょうどこの辺にあったんで、それじゃあおもてなしの茶屋を作ろうってね」
いまでは東海道を歩いている人のほとんどが立ち寄る袋井の名所になっている上、地元の人たちの交流の場でもあるらしく、そういう話をしているそばから、初老の男性が入ってきてはお茶を飲んでくつろいでいる。
「無料休憩所と観光案内所を兼ねたようなもんです」
ならばと、先ほどから気になっていた道標について尋ねてみることにした。ここに来るまでの東海道沿いで、「従是油山道」とか「是可睡三尺坊道」などと刻まれた道標をたびたび目にする機会があったからだ。
「袋井には遠州三山と言って、有名なお寺が三つあるんです。油山寺に可睡斎、法多山ってね。ご利益があるんで、昔の人は東海道を歩きながらそちらにも足を延ばしたもんです」
油山寺は行基開基と伝わる、眼病平癒にご利益がある真言宗の寺。可睡斎は明治の神仏分離で秋葉山から三尺坊大権現が遷され、火防霊場となった曹洞宗の寺。法多山は寺名を尊永寺といい油山寺同様行基によって開かれたと伝わる真言宗の寺で、厄除けにご利益があるらしい。
現代人が徒歩で寄り道するには、どこもやや遠い。またの機会にしようかと思っていると、本数は少ないが袋井駅からバスが出ているという。休ませてもらったおかげで、だいぶ体力は回復したし、バスならちょうどよい休憩にもなるだろう。物は試しと駅に向かったところ、それほど経たないうちに可睡斎に向かうバスが来た。
のどかな田園の中でバスを降り、土産物屋が並ぶ道を進むと、突き当たりに総門が見えてくる。門の両側には、「秋葉総本殿三尺坊大権現」の大きな幟がはためく。十万坪という境内の奥には杉林が拡がり、自然に抱かれた寺に見えるが、全体として新しく整備された感じがする。
御由緒によると、可睡斎は室町時代の応永年間に如仲天誾によって開かれ、当初は東陽軒といったが、十一代住職等膳和尚の代に可睡斎に改められたという。
石段を上がり山門をくぐると奥に本堂、そこからさらに奥に進むと、御真殿と呼ばれる建物がある。秋葉信仰の三尺坊大権現がお祀りされているのは、この御真殿だ。
秋葉詣が盛んだった江戸時代、秋葉山には神仏習合の神である秋葉三尺坊大権現がお祀りされ、そこに秋葉神社と別当寺の秋葉寺があった。秋葉三尺坊大権現といえば火防の神だが、除災開運、家内安全、授福繁栄のご利益もある。
ちなみに三尺坊は平安時代に実在した修験僧で、山中での修行で飛行自在の神通力を身につけ、秋葉山を安住の地としたと伝わる。飛行自在の身になったというのはあくまでも伝承、秋葉山にやってきてそこを修験の場としたことから、後に守護神とされたのだろう。 庶民たちが比較的自由に旅ができるようになった江戸の中期以降、彼らはそうした神のご利益を求めて秋葉詣に出かけた。東海道はそうした秋葉詣での道でもあった。
秋葉詣といえば、掛川の西の大池橋に、秋葉道との分岐合流点があったことを思い出す。東海道を歩きながら、秋葉山までの寄り道はとても無理なので、ここでお詣りが出来るのはありがたいとも言えるが、そうなった背景に明治の神仏分離があるので心中複雑でもある。
神仏分離後、秋葉山はどうなったかといえば、秋葉大権現を神社にすることとし、山には秋葉山本宮秋葉神社上社が、南東麓には下社が置かれ、御祭神は火之迦具土大神とされた。また下社の近くにあった秋葉寺は廃寺になり、明治六年(一八七三)可睡斎に寺宝が遷されている。秋葉三尺坊大権現が可睡斎に遷されたのもそのときで、以来可睡斎は秋葉信仰の総本山としていまも信仰を集めているが、こういう話に接するたびに神仏が習合した日本独自の信仰形態をどうして守り伝えようとしなかったのか、他に方法はなかったのかと思わずにはいられない。
「これからご祈祷がありますから、よかったらご一緒にどうぞ」
お坊さんに声をかけられた。
願ってもないことと、薄暗い堂内の隅で正座をして待っていると、七十代ぐらいの男女七、八人が入ってきた。その人たちが祈祷を申し込んだということらしく、導師が入場すると太鼓の音と共に読経が始まった。彼らは二つのグループで、一組は大阪から、もう一組は三河安城から来たという。
秋葉山からここに遷されても、三尺坊大権現の信仰は広く生きている。その様子を目の当たりにしたせいか、脳天に響き渡る太鼓と読経の声に身をゆだねているうち、心地よい安堵感に包まれていった。
祈祷が終わり御真殿の外に出ると、灼熱の陽光と共に蝉の合唱が頭上から降ってきた。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。