連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

見付

見付に着いたのは、夕方の五時に近いころだった。袋井から見付まではおよそ六キロ、普通に歩けば一時間半ほどの距離だが、何しろこの日は暑く、予定を大幅に上回ってしまった。倒れ込みそうな足取りでようやくたどり着いたので、見付の町をゆっくり見るのは次回にしようかと思っていたが、いざ到着するともう少しとつい欲が出る。

見付は現在の磐田。サッカーのジュビロ磐田の本拠地としていまは知られるが、律令制の時代にはここに国府が、中世には守護所が置かれた遠江国の中心的な政治都市だった。中世の終わりごろには、町人たちによる自治都市に発展。その勢いは、戦国時代遠江にまで勢力を拡大した今川義元の支配の手を退けるほどだったという。

見付はまた中世の東海道の宿駅で、江戸時代には言うまでもなく五十三次の宿場町でもあった。

そういう土地なので、見付には古い神社やお寺、史跡が多い。せっかくなので日が落ちるまで史跡のいくつかに立ち寄ってみようと、まずはここから一番近い矢奈比賣やなひめ神社に行ってみることにした。

 

矢奈比賣神社は、東海道から北に数百メートルの高台にある。きつい坂を上ると、その先に白い鳥居。そこから後ろを振り返ると、眼下に隙間なく家々が建ち並ぶ見付の町が拡がっている。

二つ目は赤い鳥居で、その脇には狛犬ならぬ、普通の犬の銅像が立ち、霊犬悉平太郎れいけんしつぺいたろうと書かれている。

霊犬悉平太郎とは何だろう…と思いながら、境内に入ると、青銅色の屋根が印象的な社殿が目に飛び込んできた。延喜式内社らしい、落ちついたたたずまい。主祭神は神社の名前にもなっている矢奈比賣大神という女神で、正歴四年(九九三)には相殿の御祭神として菅原道真も祀られたようだが、霊犬悉平太郎については何も記述がなくわからない。

お詣りを済ませ、さらに境内奥に進むと、手入れの行き届いた庭園の先に、白い小さな鳥居と祠が見えてきた。霊犬神社とある。どうやらそこが、霊犬悉平太郎がお祀りされているお社らしい。

御由緒によると、悉平太郎というのは古くから見付に伝わる人身御供伝説に登場する霊犬で、伝説というのは次のような話だった。

………

昔から見付では、毎年矢奈比賣神社の祭のとき、白羽の矢が飛んできた家の娘を人身御供として捧げる風習があり、そのたびに村人たちは悲しみにくれていた。偶然見付を通りかかった僧が調べてみると、それは妖怪の仕業とわかる。しかもその妖怪は信濃にいる悉平太郎を恐れているというではないか。僧は早速悉平太郎を探しに信濃へ向かう。すると地元では、光前寺で飼われている犬が悉平太郎だという。事情を話し、見付に連れて来られた悉平太郎、無事妖怪を退治したが、その時の傷がもとで死んでしまったことから、こうしてお祀りしているという。

………

いかにも伝説らしい話だが、霊犬といえば藤枝で立ち寄った鬼岩寺境内にも、霊犬クロをお祀りする黒犬神社があった。クロは遠州の春埜山はるのさんから来た犬と言われる。春埜山は秋葉山の東六キロほどのところにあり、山中の大光寺は修験道の山犬信仰で知られている。藤枝の鬼岩寺に伝わる霊犬伝説は、遠く離れた春埜山の信仰が藤枝にもたらされた結果だろうが、見付の悉平太郎もそれと繋がりがあるかもしれない。

悉平太郎がいた信濃国の駒ヶ根は、秋葉山や春埜山から六十キロ以上北に離れているが、駒ヶ根は天竜川の上流にあり、川に沿って伊那街道が通っている。

この伊那街道は、駒ヶ根からさらに北に行くと塩尻に至るように、塩の道でもあった。塩尻といえば、牧ノ原の相良から掛川を経て北上する塩の道もそこを通っている。

静岡県から長野県にかけての山中には、たくさんの塩の道が巡り、古来さまざまな往来があったのだ。

悉平太郎は駒ヶ根では早太郎、疾風太郎などと呼ばれていたらしい。山中を疾風のごとく駆け抜ける者といえば、白装束に身を包んだ修験者が思い浮かぶが、秋葉山も春埜山もまさに修験の山だった。

山中で修行する行者たちが信仰する山犬が、いつしか塩の道と呼ばれる街道を通じ各地に伝播していったのではないか……。

東海道の奥行き、幅の広さを感じさせる伝説に、想像力をかき立てられた。

 

人身御供伝説によると、矢奈比賣神社の祭のときに白羽の矢が飛んできたということだが、その祭自体も奇祭と言われ、なかなかおもしろそうだ。

毎年八月、御祭神である矢奈比賣大神が、深夜に東海道沿いにある総社・淡海国玉神社に遷行、そこで一晩過ごした後また矢奈比賣神社に戻られるという神事だが、御神霊の渡御に先立ち、腰蓑を着けた裸の男たちがすさまじい熱気と迫力で押し合いへし合いしながら町を練り歩き、堂内で乱舞することから裸祭と呼ばれ、国の重要無形民俗文化財にもなっている。祭の説明に目を通しているうち、これはもしかして古代の見付で起きた史実を伝えているのではという気がしてくる。

先ほどから矢奈比賣神社の御祭神である矢奈比賣大神のことが気になっているが、これはどのような神様なのか。わかっているのは女神ということだ。一方、矢奈比賣大神が祭の深夜向かわれる淡海国玉神社には、大国主命がお祀りされている。矢奈比賣大神がこの土地の娘を象徴するものだとしたら、この神事は婚姻を意味しているのではないだろうか。

裸祭の由来については諸説あり、はっきりとした起源はわからないが、女神の御遷行がもしいま思ったようなことなら、その前後盛大に行われる裸の男たちの練りや舞は、その祝福とも取れる。

 

  

矢奈比賣神社から東海道に戻り、問屋場跡や脇本陣跡の表示を見ながら、かつての宿場の中心をゆっくり西に進んだ。

裸祭で深夜矢奈比賣大神が遷られるという、淡海国玉神社にお詣りに立ち寄り、さらに西へ進むと、やがて正面に姫街道と表示が立つ交差点に来た。

姫街道は浜名湖の今切れの渡しを避け、湖の北を通って御油に抜ける東海道の脇街道だ。この先の東海道に何カ所か姫街道に通じる分岐点があるが、ここ見付はその最初の追分に当たる。

直進すれば姫街道、東海道はその交差点を左に折れ、県道四十四号線を南下することになる。もちろんその日は左に曲がり、磐田駅で旅を終える予定だが、この交差点であることを思い出した。

交差点を右、つまり北に行くと、かつて一の谷遺跡のあった水堀地区に至る。一の谷遺跡は様々な埋葬形態を伝える、中世の大規模な墓地遺跡で、宅地開発のための事前調査によって八十年代半ばに発見されたが、各方面から保存が叫ばれたにもかかわらず、宅地開発が優先されるという残念な結果に終わってしまった。

一の谷遺跡があったのは、見付の町の北西高台。中世の見付に暮らし、その発展を支えてきた祖霊を祀るのに、これ以上ふさわしい場所はない。

他方、先ほどお詣りした矢奈比賣神社は、町の東の丘陵に鎮座している。夏に行われる女神の御遷行が神々の婚姻なら、それは新たな生命誕生の象徴と言える。

町を東西に横切る東海道に向かって、見付の北東と北西から丘陵がなだれ込む地形を生かした。そう言ってしまえばそれまでだが、生と死を町の東西に絶妙に配した、古の都市計画を見たような気がした。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

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