連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

浜松

東海道を歩いていると、目は自然と東西に向くが、富士川、安倍川、大井川といった大河川から、南北の道の存在も教えられる。この場合の道は川の流れそのものでもあり、川に沿って通じた街道でもある。

たとえば富士川沿いには身延道があり、甲斐国と駿河国が結ばれていた。角倉了以のお陰で、川もまた甲斐国と駿河国を舟運によって結ぶ道になった。

いま到着した天竜川も、南北を意識させる川だ。信濃国の諏訪湖に発し、木曽山脈と赤石山脈の間の伊那谷を貫流しながら遠州平野を一直線に南下する天竜川は、全長二百十三キロの大河だが、天竜川というと掛川で知った塩の道を思い出す。この道は相良から掛川を経て北上し、信濃国の塩尻に至る。秋葉信仰の聖地秋葉山を通ることで、秋葉街道とも呼ばれるその道は、天竜川にぴったり沿うように信濃国を縦断している。

橋から川を覗き込むと、天竜川は灰色を混ぜた緑色を湛え、湖のように制止している。

 

  

片側四車線、左端に広い歩道のついた新天竜川橋を渡り終えると、いよいよ東海道の旅も後半に入る。

対岸は中野町、東海道の中間にあることからついた地名だ。明治になり天竜川が物流の道として使われるようになると、中野は物資の集積場として賑わった。運ばれたものは木材や鉱石など。帆掛け船が停泊し、船頭宿や小料理屋が軒を連ねていたというが、現在の中野は静かな住宅街。迷うことのない一本道を、ひたすら西へ歩いたが、あまりの暑さで、体が思うように前に進まなくなってきた。

それもそのはず、新天竜川橋の電光掲示板は三十四度を示していた。予報では三十度程度、それならばと出発したが読みが甘かった。

わずかな日陰を見つけては、立ち止まり一呼吸入れはするものの、次第に息苦しくなってきて、ついにバス停前のベンチに座り込んで動けなくなる。気が付くと、バスが停まりドアを開けてくれている。大きな誘惑だが、手を振って「乗りません」と合図をすると、重い腰を上げて再び歩き出した。

途中何度も立ち止まりながら、二時間以上歩いただろうか。暑さで霞んだ先に、超高層ビルが見えてきた。アクトタワーといい、地上四十五階建て、高さ二百十三メートル。浜松駅のすぐ北にあるので、このビルが間近に見えてきたらかつての浜松宿はすぐと思ってよい。馬込川に架かる橋を渡ると、ようやく浜松に入る。安堵から大きく息を吐き、ペットボトルのお茶を飲み干した。

オフィスビルが建ち並ぶ浜松は、久々に都会的な感じがする。見上げると、先ほどまで正面に見えていたアクトタワーはマンションの影に隠れてしまったが、数十メートルして左を見ると、また姿を現す。円柱を両手でつぶしたような独特の形は、音楽の町らしくハーモニカをイメージしているのだという。そう思えば、そう見えなくもない。

この超高層ビルは、浜松駅前に造られた複合施設の一つで、国内初という四面舞台を持つ音楽ホールが入った建物や楽器博物館が、タワーに隣接して建っている。竣工は二十年前ほど前だが、バブル期の再開発の産物と単純に片付けることのできない複雑な歴史を背負っている。

アクトシティは、新幹線敷設に伴う東海道本線の高架化や貨物駅移転の結果、浜松市が旧国鉄から取得した土地に建てられた。その際浜松駅の南西二キロほどの伊場が、この土地の代替え地として貨物駅建設に充てられたが、伊場は縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡があった場所。しかも弥生時代の遺構については、静岡県によって昭和二十九年(一九五四)史跡に指定されていた。

にもかかわらず、高架化や貨物駅移転が決定、静岡県は史跡指定を解除、土地を旧国鉄に渡したのだ。一度史跡に指定したものを、開発のために指定を解除するなどありえないだろうと、最初信じられなかったが、何度確認してもそれは事実だった。

結局遺跡は埋め戻され、その上を貨物の引き込み線が通り、申し訳程度に一部が公園として整備されているのが現在の姿だ。史跡指定を解除された土地に貨物駅が移転、それによって空いた土地にアクトシティが建っている。アクトシティには何の罪もないが、四十五階建ての超高層ビルがどこからでも目に付くだけに、これを見るとその影で犠牲になった伊場遺跡のことにどうしても思いがいく。

この遺跡は、第二次大戦中の空襲によって空いた穴で遊んでいた地元の中学生が、土器の破片を発見したことに始まり、その後の発掘調査で縄文時代から平安時代までの遺物や遺構が数多く出土したことから、当時大きな話題になった。

弥生時代の環濠跡や祭祀で用いたと考えられるひれ付き土器の発見は、伊場の集落が神聖な場所だった可能性を伝えているという。

律令制の時代の遺構も人々を驚かせた。多くの柱の発見から、その時代伊場には役所のような建物があったと考えられ、そこから百八点という大量の木簡も出土した。地方でこれだけの数の木簡が見つかったのは例がないらしい。

こういう話は、いま聞いても心躍らされるが、昭和二十四年(一九四九)に史跡に指定された後、発掘されたままの状態で放置され、雑草が生い茂りゴミ捨て場にされたこともあったというから、何のための史跡指定だったのか。そこには古代の人々の暮らし、日々の営みに対する敬意が少しも感じられない。

 

いつの間にか、体の火照りもおさまっていた。アクトシティを見上げながら浜松の中心部を抜け、伊場遺跡があった公園に向かった。

早速園内に足を踏み入れると、ウナギの寝床のように東西に細長い公園はきれいに整備され、古墳時代の住居や弥生時代の環濠跡の一部、古墳時代から平安時代にかけて掘られたと思われる大溝跡の一部などが復元されていた。それらを前に、ようやく気持ちが落ち着いてきたが、ここに見えているのは貴重な遺跡のごく一部に過ぎず、埋め戻されてしまった遺跡の上には、現在線路が敷かれている。

地元の人の散歩コースになっているらしく、早足に向こうからやってきた中年女性とすれ違う。犬と一緒に、後ろから私を追い越していく人がいる。ゴミ置き場にされるよりは、一部でも復元された現状のほうがまだよい。木陰のベンチに腰を下ろし、復元された園内を漠然と眺めていると、リードを外された犬が、弾むように遺跡の周りを走り、それに驚いた雀が一斉に飛び立ち、周囲が一瞬ざわめいた。

数千年前にこの場所で祭祀を行った長はどんな人だったのだろう。

考えるともなしに、思いを巡らせていると、ふとこのすぐ近くに賀茂真淵の生誕地と真淵をお祀りする神社があったことを思い出した。近くには鴨江という地名も残っている。

賀茂真淵は代々賀茂神社の神官を務めてきた岡部家の三男だが、祖先を辿っていくと京都にある賀茂別雷かもわけいかづち神社(上賀茂神社)の神官に行きつくと言われる。さらに溯ると、現在の奈良県葛城地方で、弥生時代に陸稲や稗、粟などの畑作農耕に従事した鴨族に繋がる。一説には、鴨族は葛城地方で畑作に従事した後、弥生時代中頃から水稲栽培を始めるようになったようで、日本列島に稲作が伝播していった背景に、鴨族が大いに関わっていたという。

伊場遺跡からは弥生時代の環濠跡が見つかっているが、環濠集落の伝播は稲作のそれと関係が深い。鴨族が伊場に稲作を伝え、そこで豊作を祈り祭祀を執り行ったのではないだろうか……。

伊場は齋場いみば、つまり祭祀を行う場所に由来するという説があるという。空想はさておき、ここは地名からして神聖な場所だったようだ。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

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