鬱蒼とした松並木を抜けると、舞坂に入る。
いまは舞阪と書くが、五十三次の時代は舞坂だった。ついでに言えば、中世には舞沢、廻沢、前坂などと呼ばれた時代もあった。舞坂のあたりは、天竜川の漂砂によって形成されていることから、地形に変化が生じやすい。舞沢や廻沢はおそらくそうしたことに由来するのだろうが、最大の変化といえば、室町時代、明応の大地震によって生まれた今切だ。
舞坂と新居の間には浜名湖がある。当初この湖は海と隔てられており、両者は陸続きだったが、地震によって生じた今切によって、陸路が途切れた。舞坂から新居までのおよそ一里を舟で渡らなければならなくなったのだから、旅人も大変である。
五十三次三十番目の舞坂は、そうしたことから渡船を請け負う宿場で、交通の要だったことから、宿場規模に見合わず二軒の本陣と一軒の脇本陣があった。宿場の入り口には、見付、つまり見張番所の石垣が残っている。日本橋を発って間もない高輪で見たのは、高さ二メートル近い立派な石垣だったが、ここ舞坂のは、ひょいとそこに腰掛けることができそうなくらい小さい。
早速かつての宿場に入っていくと、道の両側にシラスや海苔を売る店が並び、いかにも港町といった風情だ。シラスといえば、由比にも桜エビと共にシラスを売る店が何軒もあったが、遠州灘でもシラスがよく採れるようで、舞阪漁港は県内でも一、二の水揚げという。
とある一軒に入ってみる。店内には、大きさや干し具合の異なるシラスが何種類も並んでいる。
「食べてみて」
そう言いながら、奥さんが次々に違うシラスを手に乗せてくれる。
この日の旅が舞坂までなら数種類買っていくところだが、この先弁天島を経て新居までは行きたいので、よく乾燥したチリメンをもらうことにした。
そこでこんな話を聞いた。関東では若干しが好まれ、関西ではかりっとしたものが好まれるという。東海道のほぼ中央に位置する舞坂はどうかというと、若干しが多いというからシラスに関しては東のようだ。
鰻に東西の違いがあるのは有名で、関東は背開きにして白焼きした後、蒸して再び焼くのでふわっと柔らかいのに対し、関西では腹開きで蒸さずに焼くため、ぱりっと香ばしい。その境界線は浜松のあたりと言われる。県境と違い文化的な境界はきっちりと線引きできるものではないが、シラスや鰻については浜松や浜名湖付近に東西の境界があるようだ。
ちなみに、食に関する違いは他にもある。関東の四角い餅に対し関西は丸餅、年とり魚に関東は鮭を使うのに対し関西は鰤、関東のネギは白い部分が多いのに対し関西は葉の部分が多いという具合で、これらの境界は大部分中央構造線付近に見られる。中央構造線と文化的な境界が一致するのは興味深い現象で、この辺も広い意味でその範囲にあるのだろう。
舞坂は小さな宿場だったので、あっという間に浜名湖に突き当たるが、湖岸手前に復元された脇本陣がある。資料館として公開されているので入ってみると、六十ぐらいの女性が迎えてくれた。
「ここは茗荷屋という脇本陣でした。書院棟だけ残ってまして、それを解体したら、天保九年(一八三八)とあったので、築百六十年以上になります。母屋も復元して、平成九年(一九九七)にこうして昔の姿が蘇りました」
東海道を歩いているのだと言うと、「でしたら脇本陣の建物を見るのは初めてでしょう」と得意そうだ。本陣はこの先二川や草津にあるが、脇本陣が残っているのは舞坂だけらしい。
二階建てというのも珍しい。おそらく最初は旅籠として使われていたのだろう。一階には中廊下が南北に通り、その左右に部屋がいくつも並んでいる。奥の書院棟には床の間を備えた上段の間があり、二軒ある本陣が満室のときはここに大名が泊まることもあったという。ひんやりした畳の感触と、建物内を吹き抜ける風のお陰で、額から流れ落ちる汗が引いていく。
展示を順に見ていると、とある掛け軸に目が留まった。
「これはこの先新居の関所を通るために書かれた、女手形の複製です。新居の関所も箱根と同じで、『入り鉄砲に出女』が厳しく取り締まられたので、こうした手形が必要だったんですね。今切を船で渡らないといけないし、関所はあるしで、特に女性の旅は大変でした」
見付を起点に、浜名湖の北を通り御油に抜ける姫街道があるが、これは浜名湖の今切れを避けた女性が多く通ったので、そう呼ばれるようになったと聞いたことがある。とはいえ、姫街道には気賀の関所があった上、険しい本坂峠を越えなければならず、決して楽な道ではなかったので、女性が好んで通ったというのは必ずしも当たらないだろう。むしろ、ひねた道が姫になった説の方がもっともらしい気がするが、それはともかく「昔は舞坂新居間の婚姻はなかったんですよ」と言うように、今切と新居の関所の存在が、六キロに満たない舞坂と新居を近くて遠い存在にしてしまったようだ。
では習慣も違うのだろうか。
「微妙に言葉が違いますね。たとえば舞坂では「いる」と言いますけど新居では「おる」なんです」
今切が出来たことで、舞坂新居間に婚姻や言葉の境界が発生したのか、それともそれ以前からなのかはわからない。現在舞坂と新居は橋で結ばれているので、昔のような隔たりはないし、「いる」と「おる」の使い分けにしても個人ごとの違いだろうが、この辺に東西を分けるさまざまな境界線が存在していることは確かのようだ。
脇本陣を出ると、雁木と呼ばれる渡船場跡を見ながら弁天島を目指した。弁天島も今切と同じように明応の大地震で生まれた。当初は西野とか狐島と呼ばれていたが、江戸時代に弁天神社が勧請され、島の名前も弁天島になった。
舞坂と弁天島の間を、赤い弁天橋が架かっている。右には国道一号線の橋やJRの線路が並行し、数分おきに新幹線が猛スピードで走り抜けていく。左を見ると、国道一号線のバイパスである浜名大橋が見える。
先ほど目にした渡船場跡に始まり、ここにも近現代の全交通史が凝縮している。由比や宇津ノ谷と同様に、異なる時代の交通路が近接しているのは、そこに造らざるを得ない事情があった、つまりそれだけそこが交通の難所だったということだが、弁天橋から見える現在の浜名湖は至って穏やかで、かつて荒波を受け船が転覆することもあったという、命がけの今切の渡しが嘘のようだ。
弁天島に弁天神社をお祀りしたのも、航海の安全を願ってのことだが、現在のように橋で浜名湖を横断する時代、航海安全と言われてもぴんと来ないのだろう。先ほどから湖面に赤い鳥居が見えるので、てっきり弁天神社の鳥居だと思っていたら、何のことはない、これは鳥居ではなく観光用に立てたシンボルタワーなのだという。
湖面は日ざしを受け、強い光を放っている。しばらくして目が慣れてくると、鳥居型のシンボルタワーの奥に、錨瀬と呼ばれる浅瀬が見えてきた。左に目を転じると、先ほども見えた浜名大橋が、水平線を強調するように空と湖面の境界に一本の線を引いている。肉眼で捉えることはできないが、浜名大橋の向こうには遠州灘が拡がっている。
今切が出来たことで、浜名湖は外に向かって開かれた。
そこを船で横断しなければならなかった昔の旅人にとって、今切はやっかいな存在だったが、これができたことで湖周辺にもたらされたものも多いだろう。
いつかそれを探す旅に出てみようか。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。