境川を越えると三河国、いよいよ愛知県だが、喜んだのも束の間、境界を越えるとすぐ旧道は国道一号線に合流し、落ち着いた白須賀の余韻がたちまちかき消された。
ここの一号線は片側二車線、トラックや乗用車が風を起こしながら走り抜けていく。しかも強い向かい風も吹いている。突風がサンバイザーのつばを顔に押しつけ、突然視界を奪ったかと思うと、今度は国道沿いに拡がる畑の赤土を巻き上げ、コンタクトレンズの眼を直撃もする。あまりの痛さに立ち止まると、風は巧妙に角度を変えてやってきてサンバイザーのつばを押し上げる。こんな調子で、先ほどから風に翻弄され通し。三河国に入ったとたん、何とも手荒い歓迎だ。
やがて東海道は新幹線に接近、新幹線の高架をくぐった北側から旧道が復活する。ほっとして周りに目をやると、道ばたには彼岸花。耳を澄ませば、小川が音を立てながら西に向かって流れ、土手の草が風に揺れている。その風は先ほどまでの強風ではなく、肌触りのよい優しい風に変わっている。それだけ遠州灘から離れたということだろうか。
のどかな道を進むと、大きな家の前に二川宿案内所という看板が出ている。そこから先がかつての二川宿らしい。
二川宿はもとは農村だったところで、宿駅制度が設けられたのに伴い、東の二川村と西の大岩村を現在地に寄せ集め、正保元年(一六四四)に新しく作られた宿場だ。現在は落ち着いた住宅街で、所々に連子格子の家が残り、どことなく先ほどの白須賀にも似ているが、玄関先に掛けられている「二」の紋を染め抜いた紺の暖簾、竹筒に生けられた生花のせいか、白須賀より宿場の面影が色濃い。かつての屋号を掲げた家も多い。
そんな二川の町を歩いていると、程なく右側に歴史を感じさせる建物が見えてきた。切妻屋根の二階建ての家が少しずつ高さを変えながら四棟連続し、なかなか良い雰囲気。近づくと、古風な街灯に東駒屋と書かれている。豪商の家のようだが、格子戸が閉じられ中の様子は窺えない。
観光で訪れたらしい中年夫婦が珍しそうに建物を眺め、カメラのシャッターを切っている。すれ違いざまどちらからともなく会釈をすると、「歩いて来たんですか」とご主人に声をかけられた。「どちらから?」「今日はどちらまで?」などと東海道を歩いているときのお決まりの会話を交わしているうち、その夫婦が豊橋の人とわかったので、もしかしてこの東駒屋について何か知っているかもしれないと聞いてみたところ、「たまり醤油を作っていたみたいですよ」とのこと。創業はさして古くはなく、元々質屋だった駒屋が幕末に分家し、駒屋の東隣に増築したらしい。豊橋市が駒屋の建物も含め買い取ったというから近い将来公開されるのだろう。そのときまた訪ねてみてもよい。
駒屋を過ぎると、歴史を感じさせる別の建物が見えてきた。こちらは修理復元された旅籠と本陣。旅籠は清明屋といい、柵越しに開け放された室内をのぞくと、宿に着いた旅人が草鞋を脱いで足を洗っている様子が人形で展示されている。隣の本陣は、袖塀の付いた表門に宿泊者の定紋が入った白い幔幕が軒下で風に揺れ、格式が感じられる。
復元とはいえ、当時の姿が蘇っているということでは東海道中初めての本陣だ。早速主屋に足を踏み入れると、先客に説明を終えたガイドの女性が近づいてきて「こちらは本陣家の家族が住んだ主屋です。右の板の間は街道から長持や駕籠を運び込めるように、蔀戸になっています」と説明してくれる。見ると開かれた上部から板の間に光が差し込み、よく手入れされた板が黒光りしている。
「この本陣は馬場家が担っていましたが、馬場家に落ち着くまで二度本陣家が変わっています。最初は後藤家、次は紅林家、どちらも火事で焼け、再建できずに没落しました。紅林家が本陣職を辞した後、しばらく本陣のない時期があったんですが、それでは困るので、紅林家の親戚でもあった馬場家に本陣職を依頼し、ようやく引き受けてもらって復活したのがこの本陣です」
馬場家は甲斐の武田信玄の家臣馬場美濃守信房の流れを汲み、二川宿が開設された寛文年間ごろ伊勢から二川に移ってきたらしい。二川では当初農業や米穀、金融を手がけていたが、七代目のときに本陣職を引き受けることになり、東隣にあった脇本陣の敷地を譲り受け、表門や玄関、書院などを新築した。その後も必要に応じて手を入れ、本陣の体裁を整えていったが、明治三年(一八七〇)に本陣職が廃されると酒造業や味噌醤油の醸造業に転向、建物もそれに合わせて改変され、上段の間があった書院棟は失われてしまったという。
昭和六十年(一九八五)、十三代目に当たる当時の当主が建物を豊橋市に寄贈したことから、豊橋市はこの本陣を市の史跡に指定し、三年がかりで大規模な改修復元工事を行った。財政難を理由に歴史的価値のある建物が保存されないことが多いなか、豊橋市は本陣の保存に積極的に動いたようで、修復と同時に資料館の開設も決まったというから二川の本陣は恵まれている。
ひんやりした畳の感触を確かめるように奥へ進んでいくうち、本陣に到着した大名一行が慌ただしく上がり込む様子が脳裏に浮かんでくる。表門を入った一行は石畳を伝って玄関にやってくると式台に駕籠が下ろされ、大名はそこから座敷に上がり書院棟の一番奥にある上段の間に通された。誰がどの部屋を使うかは、一足先に本陣に到着していた担当の役人によって決められていたので、混乱はなかったはずだ。
ちなみに江戸時代の二川は俳諧や書、絵画といった文化活動が盛んな土地で、豪商や本陣家がその牽引役だったという。先ほど通った駒屋の九代目は、幕末から明治にかけて俳諧や書、絵画などを嗜んだというし、二川本陣最後の当主馬場梅士も俳人として聞こえ、自宅で連句の会を催したこともあるという。
河内生まれで東海道の日坂を終の棲家にした大須賀鬼卵という戯作者が、享和三年(一八〇三)に東海道沿いの文化人をまとめた『東海道人物志』という本がある。言ってみれば東海道沿いの文化人名録だが、宿場によって人数の差はあるものの、和歌、俳諧、書、絵画、生花と実にさまざまな分野の文化人の名が記されており、江戸後期の東海道がいかに文化的に豊かだったかがよくわかる。二川に記されているのは二名、他に比べると少ないが、ここに記されているのはおそらく氷山の一角だろう。
『東海道中膝栗毛』に代表される庶民文化が華開いた文化文政年間は、鬼卵の『東海道人物志』が出た次の時代。ということはそれは文政文化の予告とも言える。
宿場として決して大きくはなかった二川で俳諧が盛んだったということから、東海道沿いの文化の厚み、豊かさが逆に想像できるのだ。
二川ではそうした歴史を伝えるべく、毎年本陣句会を催していると聞いた。宿場時代は規模が小さく宿場経営に苦しんだが、第二次大戦の戦禍を被らずに済んだこと、駅がかつての宿場からかなり西にはずれたところにできたこと、こうした幸運が重なって残された町並みを、さらに手を加えよりよい状態で残そうとしている。近い将来駒屋の改修が終わり公開されることになったら、二川は江戸時代の本陣、旅籠、そして商家が残る町になる。
小さな宿場のこうした努力は、私のような旅人にはこの上なく嬉しい。
*東駒屋は平成二十七年十一月から一般公開されています。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。