早朝新居を発ち、渥美半島の付け根を横断しながら遠江国から三河国へと駒を進めたその日の旅も、終わりに近づいてきた。
鉄道の通らない白須賀では、岡部や丸子に共通した隔離の中の温もりを感じ、鉄道は通っていても駅から距離のある二川では、残された本陣を中心にした、古い町並みの保存伝承という町の熱意を垣間見た。いずれも規模が小さく、江戸時代には宿場経営にかなりの苦労があったはずだが、開発の波にのまれず、そこかしこに連子格子の家々を残す町並みは、いまとなっては貴重で、そういう街道風景に出会うと歩き続けた甲斐があったと感じる。
次の吉田は、それらとは対極にある。江戸時代規模の大きな宿場町だった吉田は、城下町でもあった。明治時代になると豊橋と名を変え、製糸の町として発展、軍都としても知られた。第二次大戦の空襲で、市街地の七割近くを失ったが、その後の復興はめざましく、現在の豊橋は人口およそ三十七万人、東三河の中核都市になっている。人口八十万の浜松には及ばないが、久しく静かな町を歩いてきた目に、豊橋は都会に映る。
東八町と書かれた五叉路にやってきた私は、歩道橋に上がり、真下を走る道を見おろした。
歩道橋のすぐ下には、高さ五メートルはありそうな巨大な秋葉の常夜燈がそびえ立つ。この交差点の主役はもちろん東西に走る国道一号線だが、北に行くと東海道の脇街道である姫街道や、新城や奥三河を経て信州に至る伊奈街道に合流する。信州への道を途中で東に向きを変えれば、秋葉山に至る。ここに秋葉の常夜燈があるのは、そのためだ。
この交差点から南に延びる道は田原街道。そこを南下すると、渥美半島先端の伊良湖に出る。そこから先は海。太平洋には、東の海の道が通る。
地図を取り出し、豊橋の町を俯瞰してみる。豊橋の北部を北東から西へ蛇行しながら、豊川が流れているのがわかる。先入観から豊橋は内陸の町と思い込んでいたが、豊川を下れば三河湾はすぐそこで、三河湾に出るとその先にも航路が開けている。南西に五十キロも行けば、伊勢に至る。
江戸時代、豊川の河口は吉田湊と呼ばれ、豊川上流からの川船と、三河湾から入ってくる海船の両方が集まり賑やかだったと言われる。大型の帆船も入ることができたので、とくに伊勢、名古屋方面への航路は大繁盛で、お伊勢参りに向かう旅人にもよく利用されたらしい。
町の北には吉田城址。現在は公園になっているが、城は蛇行する豊川を外堀にして建てられていたことがわかる。
吉田城は戦国時代の永正二年(一五〇五)、今川氏親の家臣牧野古白によって建てられた平城で、当時は今橋城と言ったが、後に吉田城に改名されている。今橋が「忌まわしい」を連想させるため、縁起のよい吉田にしたという説がある。吉田城は牧野氏滅亡後、今川義元に支配され、義元が桶狭間の戦いで敗れると家康の手に渡り、城主に任命された酒井忠次の下で城が拡張された。
家康の関東転封後、吉田城主になったのは池田照政だった。この照政の代に、近代城郭が完成している。豊川に吉田大橋が架けられたのも、照政の時代だ。
最近三遠信とか三遠南信という言葉を耳にすることがある。これは東三河と遠江と南信州を括った地域を表す造語で、かつて天竜川や豊川沿いに南北の交流を続けていたこの地域の歴史を現代に蘇らせ、県境をまたいで観光や経済の発展を図ろうということらしいが、この地域に共通するのは交通の要衝という点にある。東西の交通軸は言うまでもなく東海道で、川やそれに沿った多くの街道が南北の軸に相当するが、吉田もその特徴を兼ね備えた都市だった。
歩道橋を下りていくと、右に左にと、かつての城下町らしい複雑な道が始まる。国道一号線の南に位置する一帯は、民家やマンションが建ち並ぶ住宅街だ。プランターに水をやっている初老の女性が、散歩中の女性と路地裏で話し込んでいる。どことなく東京の下町を思わせる夕暮れの風景が、あちらこちらに散らばっている。住居表示を見ると、そのあたりは鍛冶町という。さらに西に行くと曲尺手町、その先は呉服町と、いかにも城下町らしい地名が続く。
呉服町から西がかつての宿場の中心だった。田原街道とも呼ばれる国道二五九号線を、路面電車が豊橋駅方面に走っていく。その道を横断すると町名は札木町に変わる。本陣や脇本陣はこの札木町にあった。三、四階建てのビルが並ぶその通りは、旧道とはいえ道幅が広い。
鰻屋の前に、本陣跡の表示。赤らみ始めた空を背に、街道風景をカメラに収めていると、店の人が出てきて道に水を撒き始めた。
「ここに本陣があったんですね」
「ええ、清須屋と江戸屋っていうのが二軒並んでたんです。豊橋は戦争で焼けてしまったから、いまはこんなですけど、この先にはずっと旅籠も並んでて、ずいぶん賑やかだったようです」
吉田宿は飯盛女が多いことで知られていた。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が」と歌われたのも、この辺の情景だったかもしれない。
「賑やかっていえば、江戸時代はすぐ南の魚町もそうでしたよ。名前の通り魚市場があって、吉田藩に保護されたんで城下町最大の町だったようです」
中世今川義元は、伊良湖岬から浜名湖までの間で獲れた魚貝を、魚町の神社境内で売買するよう命じた。それが魚市場の発祥という。このあたりは、海岸線から数キロ離れているが、豊川がすぐ近くを流れている。魚貝は三河湾から豊川を溯り、魚町に運ばれてきたのだろう。
現在魚町に魚市場はないが、竹輪や佃煮の老舗があるというので、その日の旅の最後にそちらに向かった。
東海道より旧道らしい感じがする商店街に、八百屋や魚屋といった個人商店が並んでいる。そこに一軒、一際目を惹くのが竹輪の老舗だ。大きなガラスケースの中に竹輪や蒲鉾、野菜入りの揚げ物など様々な練り物が並んでいる。名物はもちろん竹輪で、竹輪だけでも数種類ある。
ここはもともと魚問屋だったが、四国に金比羅詣に行った初代が、そこの名物だった竹輪を気に入り、遠州灘や三河湾の新鮮な魚が入ってくる吉田でも竹輪を作ろうと、文政十年(一八二七)帰国早々竹輪作りに取りかかったのが始まりという。
竹輪は吉田で消費されるばかりでなく、魚の獲れない信州でも売られたが、その運搬に使われたのが、いわゆる塩の道だった。信州に運ばれる竹輪は、保存のため穴に塩を詰め、周りにも塩が振られた塩漬けの状態で出荷され、信州に着くと川の水で塩気を抜いてから食べられた。その塩加減が絶妙だったことから、吉田の竹輪は人気だったという。
たかが竹輪、されど竹輪。こんなところにも、陸上と水上双方で交通の要衝だった吉田の歴史が垣間見える。旅の土産に特製ちくわを買い、帰路についた。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。