連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

御油

築百年は経っていそうな家、軒下に手筒花火をつり下げた家、北西角にジノカミサマ*の祠をお祀りしている家、連子格子の家。豊川を渡るころからそうした家々が見られるようになり、先ほどまでの都会的な吉田の街並みが影を潜めている。

御油ごゆ宿まではおよそ十キロ。車が時おり通るだけの静かな道を歩いていくと、魚市場が現れ、そこを過ぎると豊川市に入る。

豊橋も川の豊川も明治になってからの名だが、地名豊川の歴史は古く、律令制時代の三河国宝飯郡豊川郷に由来するというから、千三百年以上存続していることになる。歴史的関心から東海道を歩いていると、地名に助けられ教えられる機会がたびたびある。直近の吉田がその名を失ったのに対し、豊川が千三百年以上続いているというのは嬉しいが、この辺り東三河一帯は律令制以前に穂国ほのくにと呼ばれたようで、豊川はその頃からの地名かもしれない。

穂国のことを知ったのはつい最近のこと。新幹線と在来線が通る豊橋駅に、「ようこそ穂の国へ」という幟がはためき、観光パンフレットの表紙にも「ほの国」の文字が見えた。聞いたことのない国名が気になり調べると、大化の改新で六十六の国に分けられる前、百三十を越える国があり、東三河は穂国と呼ばれていたと知った。この名前が記されているのは『先代旧事本紀せんだいくじほんぎ』の「国造本紀こくぞうほんぎ」、穂国の国造に葛城襲津彦かつらぎそつひこ四世孫の菟上足尼うなかみのすくねを任じたと短い記述があるのみで、詳しいことはわからない。しかも『先代旧事本紀』自体偽書という説もあり、どこまで信じてよいのかわからないが、豊橋市は穂国を市のイメージ戦略に活用することにしたらしい。豊かに実る稲穂を連想させる名前は、確かに印象がよい。

葛城襲津彦といえば、弓月君ゆづきのきみ一行が百済から日本列島に渡る際、新羅に遮られたため、葛城襲津彦が派遣されたと『日本書紀』応神天皇に記されている、大和国葛城地方の豪族で、葛城氏の始祖と伝わる。それに続く葛城氏は、五世紀の大和盆地においてヤマト大王家と婚姻関係を結び、大王家と並ぶ絶大な力を持っていたにもかかわらず、第二十一代雄略天皇の時代に滅亡し、現代人の記憶から遠のいているが、古代の日本において主に外交面で力を発揮した氏族だ。

新城方面に向かう伊那街道と東海道が交わる小坂井に、菟上足尼をお祀りする菟足うたり神社がある。休憩を兼ね、お詣りしていくことにした。

 

石段下から鳥居を見上げると、奥には銅板葺きの社殿。建物は再建だろうが、境内周辺からは貝塚も発見されているというように、長大な時間が堆積した気配が感じられる。創建が古いだけに史跡や伝説が幾つもあるらしく、あちらこちらでそれらを説明する表示が目に付く。その中で特に惹かれたのは、この神社に伝わる徐福伝説だ。

徐福伝説は、秦の始皇帝に仕える徐福が不老長寿の薬を探すようにという皇帝の命を受け、童男童女を含めた数千人と技術者、それに五穀の種を船に乗せ蓬莱山を目指して東に旅立ったが、上陸した場所で王となり皇帝の元には帰らなかった、というもので、司馬遷の『史記』にもその旨が記されている。日本には徐福一行が上陸したと伝わる場所が南は鹿児島、北は青森まで全国各地にあるが、ここ小坂井もその一つだった。

説明によると、徐福一行は熊野に上陸、その後徐福の孫にあたる古座侍郎が小坂井に移り住み、子孫は秦氏を名乗ったらしい。古座侍郎という名前から、出は紀伊半島南端の古座と想像される。徐福伝説といえば、新宮もその伝承地だ。徐福伝説は古座あるいは新宮から海の道を通じこの地に伝わったということだろう。

 

神社を出ると、東海道をまた歩き出したが、歩道のない狭い道をトラックがひっきりなしに通るので気が抜けない。後ろを振り返りながら歩いていると、しばらくして道の横に小さな空き地を見つけた。ちょうどよい待避場所と入っていくと、小さな木の鳥居の奥に石の祠があったが、そこに立つ表示を見て驚いた。菟足神社の元宮とあったのだ。

古代そこは柏木浜という船着き場で、先ほどお詣りに立ち寄った菟足神社で御祭神としてお祀りされている菟上足尼はここで上陸して宮を造り、穂国の国造として治績をあげた。それで薨後この地に祀られたということだった。

その後柏木浜から十分ほど歩いたころ、東海道沿いにはあるはずのないバイパスが近付いてきて、ようやく道を間違えたことに気がついた。そこは善福寺という寺の前で、門の近くに「菟上足尼命御休憩跡」と書かれた石碑があった。上陸した菟上足尼が築いた宮は、どうやらこの場所にあったようだが、間違えた道すがら二カ所も菟上足尼に関係する場所に行き会うとは、偶然とはいえ不思議である。そもそも菟足神社を出た後、東海道と信じて疑わず三河湾の方に歩いてしまったことも不思議なことで、こういう偶然が重なると、ここに来るよう導きがあったような気がしてくる。

  

 

軌道修正し無事東海道に戻ると、速度をあげて一本道を北西方向に進んだ。殺風景な工場地帯を抜けると国道一号線に合流するが、それも一キロほど。またすぐに旧道に入る。そこから先は国府こう町、近くには名鉄の国府駅もある。その名の通りここは律令制の時代三河国の国府が置かれていたところで、近くには国分寺や国分尼寺もあった。

先ほど菟足神社で穂国のことに触れたが、大化の改新後東三河にあった穂国は西三河にあった三河と一つになり、新しい三河国が誕生している。穂国についてはわかっていることの方が少ないが、新しい三河国の政治的中心地が御油の近くに置かれたというのは、穂国時代の力がそれだけ大きかったということでもあろう。

姫街道との追分を経て、音羽川に架かる御油橋に出る。東海道三十五番目の御油宿は、この橋を越えた先から始まっていた。

古代三河国の中心だった御油だが、江戸時代の御油宿は規模が小さく、わずか一.七キロしか離れていない次の赤坂宿に客を奪われないよう、激しい客引きが行われた。明治になり東海道線が開通するも、東海道線は御油ではなく海沿いの蒲郡を通ったので、人の流れは次第に御油から消えていった。名鉄の御油駅ができたのは大正十五年(一九二六)、四十年近く御油は鉄道とは無縁だったことになる。小さな町の雰囲気は、現在まで引き継がれているとはいえ、連子格子の家々が次第に建て替えや取り壊しで少なくなっている。

そんな御油で、江戸時代の風情を残すのが松並木だ。これまでにも大磯や袋井、舞坂などで松並木を目にしてきたが、江戸時代の松並木を現在まで伝えるのは御油が唯一。赤坂まで六百メートルにわたって続いている。

御油の松並木といえば、悪い狐がいて人を騙すと脅された弥次さんが、おっかなびっくり歩いていく場面が『東海道中膝栗毛』にあるように、街灯などない時代、夕暮れ時ともなれば真っ暗だったろうから、昔の旅人には怖い道だっただろう。

いまの私には、涼やかな秋風が吹き抜ける安らぎの道。やがて左手の松の間から山並みが見えてくると、松並木も終わりが近い。

松並木を抜けたら、そこはもう次の赤坂だ。山間の小さな宿場は、すぐそこに迫っている。

 

 

*ジノカミサマ:土地の神様のこと。遠州地方を中心に、小さな祠を家の敷地の北西に祀る風習が残っている。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

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コメント

    • wpmaster
    • 2018年 5月 28日

    コメントをどうもありがとうございます。御油の松並木は本当に立派で、このまま並木がずっと続いていてほしいと思いながら歩きました。当時はGPSなしで歩いていたので、このような偶然が起きました。紙の地図だけで歩くのも悪くはないのかもしれません。

    • 松本 茂樹
    • 2018年 5月 27日

    昔、お世話になった先輩が、ふと御油の松を見に行きたいとおっしゃったので、すぐさまお連れしました。あのような背の高い松を見たことがありませんでした。懐かしい記事でした。それにつけても、道を間違えてよかったですね。

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