連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

赤坂

御油の松並木が終わりに差しかかるころ、左手に優しい姿の宮路山が見えてくる。標高は三百六十メートルほど。古代から中世にかけての古東海道は、この山中を通っていた。

平安時代の末、菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめが通ったのもこの宮路越えの道で、『更級日記』には次のような記述がある。

宮路の山といふ所越ゆるほど、十月つごもりなるに、紅葉散らでさかりなり。

嵐こそ吹く来ざりけれ宮路山 まだもみぢ葉の散らでのこれる

古より、この山は紅葉の名所として知られていた。いまは新暦の十月。ついこの前まで酷暑の中を歩いていたことが嘘のように、空高く空気が爽やか、道ばたの秋桜に秋を感じるが、紅葉にはまだ早い。松並木の隙間からのぞく宮路山は豊かな緑を湛え、秋の空を背にしたその風景はすがすがしい。

古人いにしえびとの心を捉えた宮路山の紅葉は、小油躑躅という灯台躑躅どうだんつつじの仲間だという。紅葉した灯台躑躅の赤は、鮮烈で強い。いままだ青い山肌を、その色に置き換えてみる。すると目の前にたたずむ柔和な山が、炎に包まれ燃えさかる様子が思い浮かぶ。このあたりは律令制以前穂国と呼ばれていたが、「ほ」という音は宮路山で赤く燃えさかる紅葉の、炎の「ほ」にも重なる。

 

宮路山の紅葉を思い浮かべながら御油の松並木を抜けると、東見付の表示。赤坂宿に入ったのだ。御油赤坂間は一、七キロと東海道中最も短いことはわかっていたが、ここまで接近しているとは思わなかった。あっけない。

そもそもこの二つの宿場は上り伝馬を赤坂、下りを御油というように、当初二宿で一宿の役割を果たしていたというから、兄弟のような関係だったのだろう。それがいつしかそれぞれが独立した宿場になり、近さゆえ客の奪い合いが生じた。御油も赤坂も、飯盛女(宿場女郎のこと)が多いことで有名な宿場。同じ宿内でさえ、隣り合う旅籠同士、熾烈な客の奪い合いが繰り広げられたのだから、宿場が違えば尚更だったろう。

ちなみに『東海道名所記』に、「よう〱宿に入ければ。宿ごとに遊女あり。立ならびて旅人をとゞむ」とあるように、江戸時代赤坂について書かれたものは、軒並み飯盛り女が多いことに触れている。そういう宿場なので、広重は保栄堂版で御油に続き赤坂でも旅籠の風景を取り上げたが、御油で客引きの様子を描いたのに対し、赤坂では宿の中を次のように克明に描写した。

……

開け放された障子の奥で、煙草をくゆらせている旅人に、食事の膳が運ばれる。別の部屋では飯盛女が化粧にいそしんでいる。

……

向かいの建物の二階から見下ろすような構図で、見ていると臨場感があるが、広重のこの絵のモデルとなった宿が現存しているというから楽しみだ。

現在の赤坂は、ごく普通の落ち着いた住宅街である。宝永六年(一七〇九)の火災で宿場の大半が灰燼に帰し、本陣や問屋場といった宿場施設は残っていないが、そうした中にも連子格子の家や古い商店が若干見られる。尾崎屋という雑貨屋もその一つ。二階の連子格子に「曲物製造卸問屋」と書かれた軒行灯が吊され、ガラス越しに店内をのぞくと盆や桶、民芸品などが並んでいる。

尾崎屋からさらに西に進むと、二階建ての古びた木造の家が見えてくる。格子窓や大きな提灯が懐かしい雰囲気。大きく太く書かれた「大橋屋」の文字から、すぐにそれがその宿とわかった。

 

大橋屋は慶安二年(一六四九)の創業、当時は鯉屋といった。岡部や二川でも旅籠に立ち寄ったが、どちらも復元整備されたものだった。正德六年(一七一六)築という大橋屋のこの建物は、これまで歩いてきた東海道中、最も古い旅籠になる。

ガラスの格子戸越しに中をのぞくと、黒光りした上がりかまちの奥に、二階へと通じる階段が見え、左の通路には大橋屋と書かれた茶色の暖簾がかかっている。人の気配がなく扉は閉まっているが、中はよく手入れされ、人が暮らす気配がする。扉に手をかけると、きゅるきゅると音とたてながら重たそうに扉が開いた。

「ごめんください」

声をかけながら中に入ると、何とも言えず懐かしい匂いがする。しばらくしても応答がなかったので、もう一度声をかけると、奥から六十ぐらいの奥さんが出てきて、「すみませんね。今日は予約が入ってるんですよ」と言う。

広重の絵のモデルになった旅籠というので、その話でも聞くことができたらと思っていたが、泊まれるとは思っていなかった。昔のままの間取りなのでプライバシーに配慮して一日一組しか客を取っていないとのことだが、東海道で現在も泊まれる旅籠はここだけだという。

旧道に面した二階の部屋には、松尾芭蕉も泊まったらしく、「夏の月御油より出でて赤坂や」という句もそのときに詠まれたという。そうとわかっていればこの日は大橋屋に泊まるよう計画したのにと、準備不足が悔やまれた。

  

よく磨かれた板の間や繊細な格子戸、二階に通じる階段など、見れば見るほど味がある。ご主人は十九代目だそうで、奥のほうは手を入れているが、旧道に面したところは正德六年当時のままという。

せめて一階の写真だけでもと、奥さんの許しを得て撮影させてもらう。

「お客さんがなければ中をご覧いただいてもいいんですけど、準備中なもので」

申し訳なさそうに言うが、泊まりもしないのに見せてもらっているので、申し訳ないのはこちらの方だ。

「いつかきっと泊まりに来ます」

「秋は宮路山の紅葉がきれいですよ」

古の紅葉の名所が、いまなお紅葉の名所であり続けている。ならば、ここに泊まるのは十一月がよさそうだ。

 

 

気になっていた宮路山に近づいてみたくなり、来た道を戻った。

宮路山は古来歌や日記に記されてきた歌枕の地だが、ここには三河に行幸した持統天皇の足跡も残され、山頂には天皇の行幸を記念する石碑があると聞いていた。山に登る時間はないが、東海道から宮路山に向かって延びる登山道を少し歩くことはできそうだった。

持統天皇は、三河を二度訪れている。一度目は即位二年後、持統六年(六九二)の伊勢行幸の折。二度目は最晩年の大宝二年(七〇二)十月十日で、三河に来るのが目的だったらしく、一月近く滞在している。二度目の三河行幸については、長期間の滞在にもかかわらず、それを記した『続日本紀』の記述が簡略、しかも持統天皇は三河から戻った二ヶ月後に崩御していることもあって、どこか謎めいている。

 

左に田圃を見ながら宮路山に向かうと、右に鬱蒼とした木立が見えてきた。登山口かと思ったが神社のようで、近づくと宮道天神社とある。宮路山の懐に潜り込んだ場所にあり、鳥居をくぐったとたん山の霊気が下りてきたような、冷たい空気に包まれる。御由緒に目を通すと、興味深いことが書かれていた。

この神社は、この地に住まわれた草壁皇子が宮路山山頂に小さな祠を残したのに始まり、後の時代、村人たちが建貝児王たけかいこのみこ大山咋神おおやまくいのかみ、草壁皇子を合祀し、この土地の産土神として信仰しているという。草壁皇子は、天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子だ。

御由緒には、大宝二年持統天皇の三河行幸の際、宮路山に頓宮を造られたとも書かれている。山頂に行幸を記念する石碑があるというのは、頓宮跡を伝えるものでもあるのだろう。宮路山という名前はそれに由来するとわかったが、これが史実なら、いま目の前に見えている山に持統天皇が一月近く滞在されたことになる。

豊橋以来意識に上っている穂国のことが、脳裏を過ぎった。律令制以前東三河は穂国で、三河と呼ばれていた西三河とは別の国だった。穂国と西三河が一つになり、新しい三河国が誕生したのは、大宝二年十月十四日、諸国に頒布された大宝律令(制定は大宝元年)によってだったが、これは持統天皇が三河を行幸された数日後のことだ。ということは、穂国は形の上では三河になっていても、意識の上ではまだ穂国を残していただろう。

持統天皇という言い方をしているが、そのときすでに孫の文武天皇に譲位していた。その文武天皇は歳まだ若く、実際に実権を握っていたのは持統天皇だが、文武天皇は体が弱かったというから、いつまた皇位争いが生じるかもしれない状態に、持統天皇は気が気ではなかっただろう。大津皇子に謀反の疑いをかけ死に追いやったように、天智天皇の娘である持統天皇には、天智系の血筋を継承したいという強い思いがあったと想像される。万が一、文武天皇の皇位が脅かされるような事態になったらどうするか。大宝律令を制定したとはいえ、まだ国が安定しない中、持統天皇は壬申の乱で天武天皇に忠誠を誓った氏族が多く暮らす尾張や美濃に加え、三河も味方につけておきたいという思いがあったとしたらどうだろう。

宮路山というのは、西三河と東三河の境界にある。まだ完全には掌握しきれていない東三河と交渉に当たるのに、最適な場所だったのではないか…。

持統天皇が最晩年に力を尽くした土地が、かつて穂国と呼ばれたと言われる東三河で、そこへの行幸とほぼ時を同じくして公布された大宝律令により、日本は律令国家になっていったことを思うと、宮路山は国家としての日本が始動する契機となった場所の一つと言えなくもない。

優しげな宮路山に秘められた歴史は、思いのほか奥深い。

来年の秋にでも、紅葉を見がてら宮路山に上ってみようか。もちろんそのときには大橋屋にも泊まりたい。

 

*大橋屋は平成二十七年三月十五日に廃業、建物は豊川市に寄贈され、資料館として公開予定で平成二十九年から三十年にかけて整備中。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

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