連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

藤川

三時を過ぎ、高かった日がかなり西に傾いているが、山がちょうどよい具合に太陽を隠してくれるので、街道に降り注ぐのは柔らかくなった山越しの西日だ。稲刈りが終わって間もないようで、刈り取られた稲は田圃の片隅に置かれた稲架はさに架けられ、ときおり吹く風に揺れている。

こうしたのどかな街道風景がずっと続いてほしいが、なかなかそうはいかないもので、程なく旧道は国道一号線に合流し、静寂が破られた。歩道脇には殺風景な工場が並び、トラックが排気ガスをまき散らしながら走り抜けていく。それと並行し、名鉄の赤い電車が岡崎方面に消えていく。

しばらく国道を歩いていると、真新しい冠木門と「是より西 本宿村」と書かれた大きな表示が見えてくる。次の宿場は藤川。本宿というのは聞いたことがない。説明に目をやると、本宿は昔から交通の要衝で、中世以降この先にある法蔵寺の門前町として栄え、近世には赤坂と藤川の間に位置することから、間の宿として賑わったらしい。

古代や中世の東海道は、法蔵寺の裏山から宮路山に通じていたというから、たとえば中世に東海道を旅し、宮路山の紅葉を日記に記した菅原孝標女などは、行きはここから山道に入り、帰りはここで山道の疲れを癒やし、法蔵寺にお詣りしたのだろう。

 

法蔵寺はその表示の先の旧道沿いに、背後の山に抱かれるように建っている。創建は古く、文武天皇の大宝元年(七〇一)にこの地を訪れた行基によって開かれたというから、持統天皇の三河行幸の前年に当たる。創建時は出生寺といったが、それについてこんな言い伝えがある。

行基が東に向かう旅の途中、本宿を通りかかった。二村山に目をやると、山から一筋の光が差していたので、不思議に思って山に登ったところ、目の前に童子が現れ、こう告げた。

「昔、日本武尊がこの山に神々を呼び集めた際、一晩で成長したという霊木がある。それを使って観音像を彫れば、どんな願いも聞き入れてもらえるだろう」

その霊木で行基が観音像を彫ると、たちまち像は黄金に輝いた。その話を聞いた文武天皇は、皇子が産まれるよう行基に祈祷を依頼、願いが叶ったことから、出生寺と呼ばれるようになったという。

石段を上がると、横堀の井戸。その井戸にも伝説がある。東征途中の日本武尊が二村山から紅白の雲が立ち上るのを目にし、山上で戦勝祈願をした。その際、ほこで岩を突いたところ、水が湧き出たのだと。

こうした伝承があるということは、古代の人にとってここが何か特別な力を感じる場所だったということだろう。今日言うところのパワースポット、古代人の研ぎ澄まされた感受性が捉えたのは、地中から発せられる地球のエネルギーだったのではないか。

鉾で岩を突いたら水が出たというのは、水源を探し当てた話に他ならず、現在のように計測機器のない時代、古代人は感受性を頼りに地球の資源を求め渡り歩いたことが、伝説として伝わっているのだろう。古代人なら誰でもできることではなく、その能力は厳しい修行を通じ体得しえたもので、たとえば空海の足跡を追っていくと水銀の鉱脈に通じるというのも、そのことを示している。

行基も葛城山に籠もって修行をしており、それによって得た、あるいは開発された能力は計り知れないものだったはずだ。行基は寺を飛び出し、民衆の中に入り込んで仏の教えを広めながら、同時に治水を手がけたが、土木もある意味では土地の声に耳を傾け、土地の力と相談して行うものだ。

藤枝でお詣りに立ち寄った鬼岩寺も、行基の開山と伝わる寺で、そこには空海の足跡もあった。この両者は同じ場所に足跡を残していることが多い。境内を見廻すと、六角堂はまさにその空海の建立だった。

このあたりの低山は、美濃三河高原の山々の一端だが、その山伝いに北上すると信州、美濃、飛騨など、日本中部の山岳地帯に至る。日本列島の屋台骨への入口に位置する本宿は、宗教者にとっても要衝だったと見える。

法蔵寺の先に続く本宿の町並みは、一キロほどで終わる。その後東海道は、国道との分岐や合流を繰り返しながら、四十分ほどで藤川に入っていった。

 

小さな宿場だった藤川は、いまもどこか控えめだ。夕焼けに染まる空を見ながら、連子格子の家が残る道を歩いていると、学校帰りの中学生たちが、自転車で旧道を走り抜けていく。その先では、お婆さんが数人立ち話をしている。ゆったりとした日常が、藤川の町に流れている。

本陣や脇本陣があった中心部にやってきた。当時の建物は残っていないが、とある家の前に「資料館」と看板が出ている。

「もう五時を過ぎてるから、閉まってますよ」

振り向くと、通りがかりのお婆さんが手招きしている。

「裏に本陣の石垣が残ってるから、見てってな」

建物の裏に回ってみると、緩やかな坂の先に畑が拡がり、その先に野面積みの石垣が十数メートルにわたって続いている。東海道からでは、それほど大きな敷地には見えなかったが、奥行きがかなりあり、立派な本陣だったとわかる。

石垣の横には小さな麦畑。むらさき麦と書かれた札が立つ。江戸時代の名物を、地域振興のために復活させたらしい。

ここも三河 むらさき麦の かきつばた

芭蕉にこのような句がある。

「かきつばた」といえば、藤川の二つ先の知立に近い八橋が有名だが、芭蕉は東海道を旅しながら、藤川で風に揺れるむらさき麦の紫色の穂を見て、八橋の燕子花の紫を重ねたのだろう。

紫といっても、燕子花の鮮やかな紫と違い、むらさき麦の紫は控えめな色だが、どことなく藤川の雰囲気にも通じるようではないか。

暮れなずむ麦畑で、この日の旅を終えた。

 

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

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コメント

    • wpmaster
    • 2018年 6月 10日

    コメントをどうもありがとうございます。藤川のむらさき麦は五月頃たなびく穂を見ることができますし、知立では毎年四月下旬から五月上旬にかけて「史跡八橋かきつばたまつり」が行われています。

    • 松本 茂樹
    • 2018年 6月 10日

    麦畑をじっくり見たことがありませんでしたが、控えめな紫なんですね。カキツバタといえば、季節は5月なんでしょうね。

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