丘陵や山が迫っていたのは藤川までで、気づけば広大な岡崎平野を歩いている。ここはもう西三河だ。その中心都市岡崎は、江戸時代宿場町、城下町、湊町として栄えたが、岡崎は何より徳川家康の生誕地として知られる。当然、家康や先祖松平家にまつわる史跡も多い。
家康に限らず、ある人物ゆかりの土地に行くと、歴史の大きな流れの中では触れられることのなかった出来事や、知らずにいた人物像を垣間見ることがある。たとえばこれまでにも、家康が大御所時代を過ごした府中では、大航海時代を意識し国際外交都市を目指していた様子を目の当たりにした。浜松は、家康の滞在中に姉川、長篠、小牧・長久手の戦いといった激戦が次々に起きたように、家康にとって試練の時代を過ごした場所。武田信玄との戦いに苦戦し、惨めな姿で逃げ帰った家康の意外な面を知ったのも浜松である。
家康が岡崎にいたのは、生誕から人質に出されるまでの六年間と、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、十九歳で岡崎に戻ってから浜松城に居城を移すまでの十年間で、在城期間は浜松時代とそれほど変わらないが、祖先にも縁のある岡崎は、家康にとって特別な場所だったはずだ。そういう土地ならではの、岡崎でしか知り得ない家康像に出会えたらと期待が高まる。
しばらく小さな宿場が続いたが、岡崎は天保十四年(一八四三)の記録に本陣三軒、脇本陣三軒、旅籠百十二軒とあるように、久々に大きな宿場だった。岡崎も第二次大戦の被害を被り、宿場時代のものは何も残っていないが、きれいに整備された道に本陣跡などを知らせる表示が点在している。
二十七曲がりは、城下町時代の名残である。角角に立つその表示を辿っていくうち、やがて宿場の中心だった伝馬通りに出る。通りには、金物屋や鰻屋、洋品店、仏壇屋といった店が並び、久々に街に来た感じがする。
その中に、一際目立つ城郭風の建物。創業天明二年と書かれた、和菓子の備前屋だ。早速入ってみると、大きな硝子ケースに数十種類の菓子が並んでいる。卵白に砂糖を加え寒天で固めた「あわ雪」が名物というので、それを買い、ついでに何か家康時代の建物が残っていないか尋ねたところ、「それなら大樹寺です」とのこと。
大樹寺は家康の祖先松平氏の菩提寺で、歴代松平氏の墓や位牌があるほか、山門や多宝塔、冷泉為恭の障壁画が見事だという。徒歩で行くには少々遠いが、ちょうど目の前からバスが出ているという。店を出ると、計ったようにバスがやってくるではないか。これはありがたいとバスに乗り、大樹寺に向かった。
大樹寺は聞きしに勝る立派な寺で、堂々とした山門から寺格の高さがうかがえる。道を挟んで山門全体を眺めると、屋根の傾斜の感じや重量感など、規模こそ異なれ京都知恩院の三門に似た雰囲気だが、大樹寺も知恩院と同じ浄土宗の寺、似ていても不思議でない。高さ十五メートルはありそうな楼閣の上には、朱色の文字で記された「大樹寺」の扁額。屋根を支える垂木や垂木を支える組物が幾重にも重なり、寺院建築の粋が凝縮しているのが見て取れる。この山門は三代家光の時代に建てられたという。幕府直轄の工事で、相当腕の良い棟梁が手がけたものだろう。
「ここから岡崎城が見えるよ」
男性の声に振り向くと、通りがかりの人が、百メートルほど南、小学校の敷地越しに見える総門を指している。家光は大樹寺の伽藍を整備する際、家康が生まれた岡崎城を望めるようにと、計算の上で山門をこの位置に決めたという。山門越しに総門に目を向けてみると、確かにその先には岡崎城がのぞいている。この山門と岡崎城は同じ直線上にあるというわけだが、そうして眺めていると総門が額縁の役目を果たし、岡崎城の景色は一幅の風景画にも見えてくる。
山門から境内へ。右に鐘楼を見ながら本堂に進むと、堂内には光背に千体仏が彫られた阿弥陀如来がお祀りされている。ご本尊は思っていたより小ぶりで、やや赤みを帯びた金で全身を覆われ、優美な雰囲気をたたえている。安政二年(一八五五)の火災で、大樹寺はこの本堂をはじめいくつかの建物を失っている。ご本尊もそうだったようで、現在のこの優美な阿弥陀如来は、京都泉湧寺から迎えられた平安仏だという。
家族の健康と旅の安全を願い、顔を上げると、両側の柱に掲げられた「厭離穢土 欣求浄土」の文字に目が留まった。源信(恵心僧都)が著した『往生要集』冒頭の章名から取られたもので、「苦悩の多い穢れたこの世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土を冀う」という意味だが、この言葉は若き家康が、当時大樹寺の住職だった登誉上人から授けられたものという。後に家康はこれを座右の銘とし、戦陣にもその旗を掲げたが、そのときの住職とのやりとりは印象深い。
家康十九歳の永禄三年(一五四三)、今川義元は大軍を率い、尾張侵攻に向けて府中を出発した。その際家康は、今川の一武将として現在の名古屋市緑区にあった大高城に兵糧入れを行い、城を守っていたが、義元が桶狭間で信長の奇襲に遭い討ち死にしたという知らせを受けると、すぐさま大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で切腹しようとした。そのとき「厭離穢土 欣求浄土」の言葉によって自害を思い留まらせたのが、登誉上人だった。
若き家康は登誉上人と問答を繰り返すうち、戦国乱世の行く末に自分が目指すのは平和な世の中であり、万人のための社会を創ることこそ自分の使命と悟ったという。
織田軍は家康を追って大樹寺まで攻めてきたが、大樹寺の僧侶と共に応戦し、敵を追い払った。その後家康は今川勢が退散したもぬけの殻の古巣岡崎城に入ると、今川方と訣別して織田方と結び、名を家康と改めた。それまでの名は、今川義元から一字を取った元康だった。
岡崎は家康がこの世に生を受けた場所だが、徳川家康になった場所でもあったと知った。
一時間ほどの寄り道を終えると東海道に戻り、岡崎城に向かった。公園になっている城跡は、ベンチでくつろぐ人、ウォーキングをする人で賑わっている。復元された城の展望台に上がり、真っ先に大樹寺のある北側に目を向けた。
指の爪ほどの大きさだが、先ほど見上げた山門の屋根を視線の先に捉えることができる。
岡崎城にいる者にとっても、大樹寺の山門は松平、徳川家の菩提寺に見守られている気持ちにさせられる大切な存在、心の拠り所だったのだろう。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。