毎年五月に、東京南青山の根津美術館で尾形光琳の燕子花図が公開される。群青の燕子花が黄金色を背景に群生するその作品、色彩と構図が印象的で一度見たら忘れることがない。光琳の燕子花図は、『伊勢物語』第九段東下りに着想を得て描かれたとされている。有名な一節、少し長いが引用しよう。
三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木のかげにおりゐて、かれいひ食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、 「かきつばた、といふ五文字を句のかみにすゑて、旅の心をよめ」 といひければ、よめる。
から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、かれいひの上に涙おとしてほとびにけり。
『伊勢物語』は、ある男の半生が歌と共に描かれた作品。作者は不詳、在原業平がモデルではないかという。特に「かきつばた」の歌は、『古今和歌集』や『後撰集』『拾遺集』などに取り上げられたこともあり、八橋といえば燕子花、燕子花といえば八橋というように、八橋は歌枕として広く知られた。その八橋は、知立の手前三キロほどのところにある。
岡崎を出てから三時間ほど、T字路の隅に「是従四丁半北八橋」と刻まれた道標を見つけた。ここが八橋への分岐点らしい。となれば、行ってみないわけにいかないだろう。東海道を北にそれ、八橋に向かった。
ところどころに田圃が拡がる静かな住宅街の道を進むと、程なく無量寿寺に至る。境内にかきつばた園があり、現在ではそこが業平にゆかりの場所として知立周辺の名所になっているという。いまは秋。花の時期から外れているので、境内は静寂に包まれている。そこで私はボランティアガイドKさんに、境内を案内してもらうことになった。
杜若園は境内奥、緑の葉が地面を覆い尽さんばかりで、花の時期はさぞやと思われる。古代から中世にかけて旅人が歩いた道は古東海道と呼ばれ、ちょうど八橋のあたりを通っていたので、わざわざ足を延ばさなくても通り道に名所があったことになるが、名所といっても実際はだいぶ様子が違ったらしい。
「『伊勢物語』で八橋の杜若は有名になりましたけど、平安時代の終わりには『更級日記』に「八橋は名のみにして、橋のかたもなく、なにの見どころもなし」なんて書かれるほどでした。鎌倉時代の『東関紀行』にも、「かの草とおぼしきものはなくて稲のみぞ多く見ゆる」とあったり、飛鳥井雅有も『春の深山路』で「杜若も今はなし」なんて書き残しているんです」
『伊勢物語』の描写に憧れて訪れた歌枕の地が、様変わりしているとは何ということだ、というところだろう。変わり果てた現状を嘆くのは、いまに始まったことではなかった。
目の前に拡がるかきつばた園は、江戸時代の文化年間、旅の途中八橋を通りかかった方巌和尚によって造られたものというから、直接ここが『伊勢物語』の故地ということではないが、大事なのは八橋の杜若、杜若のある八橋を守り伝えていくことだ。そう思えば、現在の八橋は『伊勢物語』以来の風景を受け継いでいると言っても間違いではないだろう。
しばらく境内を散策した後、Kさんは周辺にある業平ゆかりの場所に案内してくれた。
在原業平の菩提を弔うため寛平年間(八八九~八九七)に創建されたと伝わる在原寺や、業平の遺骨を分骨して塚を築いたという業平塚などがそれだが、『伊勢物語』はあくまでも物語で、主人公の男が在原業平だという確証はないのに、このように業平ゆかりの場所が複数あるとは…。これではまるで『伊勢物語』が在原業平によって書かれた現実の紀行文のようではないかと、改めて文学や言葉がもたらす影響の大きさに驚かされた。
日本武尊の伝承地もそうだが、長大な時間の中で物語がいつしか史実のように伝えられることがある。伝承地に暮らす人々が、その伝承を誇りに思い、熱心に語り継いでいく結果そうなるもので、そこから信仰が生まれることもある。
歴史ということでは正しくはないが、語り継いできた人々の心に偽りはない。
ただの伝承だと言って切り捨てるのではなく、信じ語り継いできた土地の人々の気持ちに敬意を払いたい。
東海道に戻ると、知立へと先を急いだ。ゆったりとした松並木が五百メートルほど続いている。そこを抜けると、いよいよ知立宿である。
吉良道や刈谷道が分岐合流する交通の要衝だった知立は、御油から岡崎までの各宿場がそうだったように、明治に入り東海道線の敷設を忌避したことから、近代化の波に乗り遅れたが、名鉄が開通すると名古屋から二十五キロ圏内という立地の良さから、名古屋のベッドタウンとして人口が増え続け、今や三河地方で最も人口密度の高い場所になっている。事実、一戸建てが続く住宅街が昔ながらの商店街になり、さらに進むとマンションやビルが現れ、都会的な町並みが顔をのぞかせる。他方、ところどころに歴史を感じさせる寺や古い店構えの商店がぽつりぽつりと残っている。懐かしい町と都会的な町が同居している。
四時を過ぎ、だいぶ日が傾いてきた。この日の旅は知立まで。一日無事に歩き通せたことへのお礼参りも兼ね、知立神社に向かった。
知立神社は延喜式内社、日本武尊がこの地で東国平定を祈願し、後に無事目的を達して当地に戻ってきた際、皇祖神を祀ったのが知立神社の始まりと伝わる。
知立神社と刻まれた石標が立つT字路を右に曲がる。突き当たりに黒々とした多宝塔が聳える。かつて知立神社の別当寺にあった多宝塔だが、こうして神社に今も残っているというのは珍しい。その珍しい多宝塔に迎えられ、境内に足を踏み入れると、夕暮れの神社は周りの木々の厚みで、実際以上に薄暗く感じられる。
「おかげさまで、今日も無事に歩き終えることができました。お守りくださって、ありがとうございます」
そう心の中で唱えながらお詣りを済ませた私は、深呼吸したくなってゆっくり息を吸いながら空を見上げた。茜色の空に暮れかかった灰色の空が少しずつ垂れ込めていく。頭上にはねぐらに帰る野鳥。その姿を追っていると、檜皮葺の屋根にはめ込まれた緑青色の鬼板に、きらりと光るものを見つけた。目をこらすと、金色の神紋である。その文様は四つの扇形を組み合わせたもので、それぞれ扇の曲線に沿って年輪のように数本の線が引かれた青海波だ。
知立神社が神紋に青海波を用いているということは、海と関わりの深かった歴史をそこに込め、伝えようとしているのかもしれない…。
帰り際、相殿に青海首命がお祀りされていると知った。その神について詳しいことはわからないが、名前から想像するに海と関わりの深い神だろう。
現在の知立に海を感じさせるものはないが、矢作川から西の三河地方は持統天皇の時代までは青海郡といった。その後碧海郡と改名され、その地名は今から四十年ほど前まで使われていた。海岸線はいまよりはるか内陸にあったことを思うと、古代の知立は海と関わりの深い土地だったに違いない。
東海道は東の海の道。しばらく遠ざかっていたその思いが、ここでまた蘇ってきた。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。
De superbes iris, après une belle série de portes de temples !
Merci
Bonne journée et à bientôt