境川という名の小川を越えると、東海道の旅はいよいよ尾張国に入る。
尾張国最初の宿場は鳴海宿だが、鳴海の手前二キロほどのところに、かつて間の宿だった有松があり、町並みが美しいと聞いていた。有松は絞り染めで栄えた町で、広重も保永堂版で鳴海宿の風景として有松の絞りの店に立ち寄る旅人を描いている。電柱を地中に埋めたり、街道沿いの家を白壁で統一したりと、手は入っているが、往事の町並みを再現しつつ、伝統的な品を変わらず作り続けているところは希少だ。
早く町並みを見てみたい。
その思いが、私を急がせた。
「桶狭間古戦場」
突然、その文字が目に飛び込んできた。表示は国道一号線の頭上に掲げられ、矢印は進行方向に向かって左、つまり南を指している。
尾張の織田信長が駿河、遠江、三河を治める今川義元の大軍を破り、新たな戦国時代の幕開けとなったあの有名な桶狭間の戦いは、これまでの東海道中、義元や家康の足跡に出会うたびに意識に上っていたが、その舞台が有松を目前にした東海道に近い場所とは思ってもいなかった。表示が指す方向に目を向けると、坂の上に鬱蒼とした木立がある。有松の町は逃げない。早速古戦場跡に向かう。
入り口に「史蹟桶狭間古戦場」と刻まれた石標。奥は整備された公園になっている。説明によると、ここは今川義元や忠臣松井宗信の塚があった場所で、今川義元が倒れた場所を示す七石表と呼ばれる石標が江戸時代に建てられたことから、昭和十二年(一九三七)国の史跡になったという。
桶狭間という名から、つい狭い窪地のようなところを連想するが、見回したところこのあたりは谷底ではなく、丘陵の一角、緩やかな上り坂の途中にある。
園内には七石表のほか、義元の墓や松井宗信の墓碑、記念碑などが、目の届く程度の敷地に点々と置かれている。義元の墓は確か豊橋の大聖寺にあったはずだがと説明表示を見ると、ここの墓は有松の豪商によって明治九年(一八七六)に建てられたとあり、意外なほど新しい。
他の石碑にもう一度目をやる。七石表には明和八年(一七七一)、記念碑には文化六年(一八〇九)、重臣の墓も義元の墓と同じく明治九年と、いずれも桶狭間の合戦から二百年以上経ってから建てられていることがわかる。道を挟んだ反対側の竹藪にも、形の違う義元の墓があるが、そちらも万延元年(一八六〇)建立らしく、園内の碑とほぼ同年代だ。
日本の歴史の転換点にもなった戦の碑が、江戸時代後期まで作られなかったというのは意外だが、桶狭間の戦いは未だその真相が解明されていない謎の多い戦なので、そのことが関係しているのだろうか。いやひょっとして、それが逆手に取られ、東海道を通る旅人に向け、こうした碑が作られたということはなかっただろうか。
石碑が建てられた年代は、いずれも伊勢神宮へのおかげ参りの流行を背景に、庶民の旅が盛んになった時代だ。血なまぐさい戦の跡も、二百年の歳月を経れば観光名所になり得るだろう。
「この近くにもう一つ古戦場跡があるんですよ」
碑を眺めていると、散歩中らしく首にタオルをかけた初老の男性に声をかけられた。
「西に一キロぐらいのところにある、古戦場公園というのがそれでね。ここは豊明市、そっちは名古屋市の緑区で、お互い自分のところがそうだって譲らなんだ」
戦国時代の武将の目からすれば、いや現代人にとっても、ここから一キロほどのところなら同じ場所と言っても差し支えないが、別の市になってしまったばかりに古戦場跡の奪い合いが生じているらしい。
ちなみに緑区の公園周辺は、丘陵を切り開いて作られた新興住宅地で、公園もつい最近整備されたばかり。区画整理中に見つかった石碑類に加え、新たに造った義元と信長の銅像などが置かれているという。桶狭間という地名は緑区の方にあるというから、何も知らずに来ると混乱するが、義元が討ち取られた場所が特定されないだけのことだ。
『信長公記』によると、桶狭間山と記された高台で休憩していた今川軍は、突如織田軍に攻められ散り散りになった。このあたりの丘陵一帯が戦の舞台で、いま私が立っている豊明市の古戦場跡も何らかの戦いが行われた場所ということなのだろう。
永禄三年(一五六〇)五月十二日、府中を出た今川義元は翌十三日に掛川、十四日に引馬(浜松)、十五日に吉田(豊橋)、十六日に岡崎、十七日に知立と、猛烈な勢いで西進し、十八日沓掛城に入った。
沓掛城は桶狭間から北東に四キロほどのところにある、尾張の土豪近藤氏の城で、今川軍はそこを尾張侵攻の拠点とし、今後について軍議を行った。今川軍の目的の一つは、大高城と鳴海城を押さえることだったと言われるので、そのための話し合いだったかもしれないが、何にせよ、二万五千とも三万五千とも言われる大軍を率いた今川軍のこの西進は、信じられないほどのハイペースだ。いくら戦国武士とはいえ、疲弊は隠せなかっただろう。
かたや織田軍は今川軍侵攻の知らせを聞き、十九日早朝尾張の清洲城を発ち、熱田を経て南下、鳴海の中島砦に入っている。中島砦は桶狭間の北西三キロほどのところにある。
合戦直前の暴風雨で、今川軍は織田軍の接近に気づかなかったと言われるが、織田軍は少ないとはいえ二千ほど、今川軍が本陣を張っていた桶狭間の丘陵から織田軍の接近が全くわからなかったとは考えにくい。今川軍とて気を抜いてはいなかったはずだが、あっけなく今川軍の本陣は破られてしまった。
敗因が未だ謎に包まれているのがこの桶狭間の戦いだが、戦術や士気の違いはさておき、二百キロを七日かけて駆け抜けた後の今川軍と、わずか数時間で鳴海まで迫った織田軍では、温存された体力の差は歴然だ。私などはついその距離を歩いた実感から、桶狭間に至るまでの距離の差も今川軍敗北の一因のような気がしてならない。
知立からここまで歩いて来たと言うと、その男性は「それなら戦人塚には行きましたか」と尋ねた。戦人塚というのは戦死した今川兵およそ二千五百人ほどを葬った塚で、そこも国指定の史跡なのだという。あいにくそれには気づかず通過してしまったが、話を聞いていると、このあたりには今川軍を手厚く葬った場所が多いようだ。義元が討ち取られた後の、織田軍によるすさまじい掃討戦を物語っているのだろう。
織田の尾張にあっても、桶狭間周辺ではむしろ今川方への哀悼の気持ちが強いようだ。
古戦場を後にし、旧道に入ると、次第に白漆喰に焦げ茶の板塀、連子格子、鼠色の瓦が増えてくる。いつしか周りは江戸時代さながらの街道風景。有松に入ったのだ。
絞り問屋の卯建や虫籠窓、見越しの松が広い空に映える。逸る気持ちを抑え、西に歩いていくと、右に一際目立つ商家が見えてくる。
白い海鼠壁の蔵が二棟並んだ先に、重厚な二階建ての母屋が建ち、軒下に「井桁屋」と絞りで染め抜いた暖簾が下がっている。井桁屋は寛政二年(一七九〇)創業というから、ちょうど先ほど桶狭間で見た石碑類が置かれたのと同年代だ。
店に入ると、土間には絞り染めで作られたバッグや手ぬぐいといった小物類が、畳の部屋には反物がずらりと並べられている。
「最近はこれだけのものが作れる職人さんが少なくて、あともう数年したら手に入らなくなるかもしれません」
奥さんはそう言いながら、藍色の反物を広げ、私の前に差し出した。
「仕立てるとまた感じが違いますから、どうぞ当ててみてください」
朝から歩き続けで汗ばんだ体なので、当てるのは気が引けたが、手に取ってみると、元々柔らかい木綿が、細かい絞りによってさらに空気を含んだようにふっくらとして、身にまとったらさぞやと思われる。
有松は慶長十三年(一六〇八)に尾張藩によって開かれるまで、何もない丘陵だった。そういう土地なので農業には適さず、間の宿とはいえ鳴海宿までは二キロ少しと、こちらも期待できないことから、当初はかなり苦しい生活だったが、最初に移住した八人の中の一人が、名古屋城普請のため豊後から来た人の絞りの服にヒントを得て、有松絞りを考案したのが始まりという。
東隣の三河は、古代から木綿の産地として知られる。その木綿を使い、最初は手ぬぐいのような小物を東海道の旅人に販売していくうち、やがて尾張藩の保護を受け、有松の産業として華開いた。まさに東海道の歴史と共に時を刻んできた名産だ。今回は旅の記念に、茜色の帯締めを買った。
有松を出て半時間ほどで、宿場町だった鳴海に入る。きれいに整備され観光客で賑わう有松に比べ、鳴海は手つかずで人の姿もまばらだが、どちらに旧道らしさを感じるかといえば、不思議なもので鳴海の方だ。瓦の庇が傾きかけた民家の前を、手押し車を押したお婆さんがゆっくり歩いていく。そんな素朴な雰囲気が、そう感じさせるのかもしれない。
本町の交差点で右を見ると、やや急な上り坂が続き、道の両側にお寺がいくつも並んでいる。坂の途中に小さな神社を見つけ、そちらに行ってみると、現在は天神社となっているが、もとは式内社成海神社があった場所で、成海神社のほうは戦国時代に鳴海城築城のために北に遷されたと知った。坂の上に城址公園があるので、本丸はそのあたりにあったのだろう。
鳴海城は、今川軍が大高城と共に押さえたいと願っていた要所だった。義元が討ち取られ、今川軍が東へ退散する中、今川軍の岡部元信は一人鳴海城に籠もり抵抗したと伝わる。最終的に元信は城を信長に明け渡すが、主君の首級との引き替えが条件で、信長はその忠誠心に心を動かされたとか。
ここにもまだ今川氏の残映があった。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。
この記事へのコメントはありません。