連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

桜田へ たづ鳴き渡る 年魚あゆがた 潮干しほひにけらし 鶴鳴き渡る

 

鳴海を出て十数分後、天白川に架かる橋の欄干で、この歌の表示を見つけた。万葉集巻三 二七一、高市連黒人の歌だ。桜田というのは、鳴海宿から東海道を北西におよそ三キロ、笠寺観音で知られる笠覆寺りゅうふくじに近い場所で、現在は伊勢湾から六キロほど内陸に入っているが、この歌が詠まれた当時は、そこから年魚市潟という干潟を望むことができた。

年魚市潟は古来歌枕の地として知られていた。その風景は、歌ばかりか中世の旅人の紀行文にも書き残されている。たとえば次は『東関紀行』の一節。なるみ潟とあるのがそれである。

 

この宮を立ちて、浜路におもむくほど、有明の月かげ更けて、友なし千鳥ときどきおとづれわたり、旅の空のうれへ心にもよほして、哀れかたがたふかし。

故郷は日を経て遠くなるみ潟いそぐ潮干しほひの道ぞすくなき

やがて夜のうちに二村山にかかりて、山中などを過ぎしほどに、東やうやう白みて、海のおもてはるかにあらはれわたれり。波も空もひとつにて、山路につづきたるやうに見ゆ。

 

『東関紀行』は、京都東山に暮らす作者が、鎌倉に向かう道中を記したもので、同時代の『海道記』に比べ、風景描写が多い。上も一幅の風景画を見るような名文だ。

現在はどうだろうと、天白川に架かる橋の中央から、かつて年魚市潟が拡がっていた下流方向に目をやってみる。川は緩やかに蛇行しながら、両岸に拡がる現代の町と共に視界から消えていく。そこに干潟の面影はもちろん、伊勢湾の輝きさえ見ることはないが、古人いにしえびとが残してくれた言葉が想像力の助けとなり、脳裏に過去と現在が混ざり合った空想の風景が現れる。

満ち潮に行く手を閉ざされ、潮が引くまでの数時間、どこで過ごそうかと思案する旅人。やがて海の中から道が現れ、ぬかるんだ道に小魚が跳ねている。海からの風に乗って潮の香りがあたりに満ちていく……。

そんな空想をしていると、県道を走り抜ける車の音で我に返った。

五十三次四十一番目の宮宿は、熱田神宮のお膝元に栄えた宿場。宮というのは言うまでもなく熱田神宮に由来する。熱田と呼べばよいものを宮というのだから、それだけ神宮の影響が大きかったということだろう。

熱田神宮は、日本武尊が持っていたと伝わる草薙剣をご神体としてお祀りする神社だ。五万七千坪以上に及ぶ広大な境内は、宿場町がすっぽり収まってもまだ余裕のある広さで、そこには本宮に加え四十五社もの摂末社がある。

熱田神宮の門前町として開けた宮は、天保十四年(一八四三)の『東海道宿村大概帳』によると、旅籠の数が二四八軒と東海道中とび抜けて多く、総人口も大津、府中に続き一万人を越える大きな宿場だった。

これまで、小田原や府中、浜松のように、宿場町と城下町が融合する場所をいくつも通ってきた。ここにも尾張徳川家の名古屋城があるが、熱田から八キロ近くも離れており、宿場町と城下町がそれぞれが独自に発展を遂げている点、東海道の中でも珍しい。

東海道を整備したのも、名古屋城の普請を命じたのも家康だ。家康にその気があればお膝元の名古屋城から清洲に入り、美濃路経由で中山道を通って近江の草津に至る道を東海道とすることもできたはずだが、家康は熱田から海上を経て桑名に至る伊勢廻りを東海道とした。美濃路は、関ヶ原の戦いを制した家康が、凱旋の際に通った道でもある。家康にとっては縁起の良い道のはずなのに……と、その理由を考えているうち、いつしか国道一号線と伏見通りが交わる大きな交差点にやって来た。

歩道橋に上がり、交差点を見下ろす。北に向かってまっすぐに延びるのは伏見通りで、片側五車線の百メートル道路を、車が滑るように走り抜けていく。ここからでは見えないが、この伏見通りを北上すると、名古屋城に至る。

「家康は何を考えていたのだろう」

地図と目の前の風景を見比べながら、下から上がってくる車の騒音に身を包んでいるうち、ふと木曽三川の存在が思い浮かんだ。

美濃路を通った場合、木曽川、長良川、揖斐川と次々に川を渡らなければならならないが、これらの川はたびたび氾濫し、そのたびに流路を変えた。関ヶ原の戦い後、家康がまず東海道の整備に着手したのは、江戸京都間の情報伝達路をいち早く確保したいからで、川の氾濫によって、行く手が阻まれるようなことがあったら一大事だ。さらに美濃路の場合、関ヶ原付近の積雪で、道をふさがれる危険もあった。

それに対し、七里の渡しは二十七キロ近い海路だが、伊勢湾内の航海で、比較的気象の影響を受けにくい。少しでも短い時間で東西を結ぶことができる道はと考えたとき、総合的に見て伊勢廻りが有利だったのだろう。

ちなみに東海道新幹線は、家康が採用しなかった美濃路から関ヶ原を経るコースを採り、伊勢廻りのコースは、JR関西本線と草津線が担っている。ここに限らず、現在の鉄道や高速道路が古の街道から大きく外れることはめったにない。いかに昔の人の築いた道が理にかなった場所を通っていたかということだ。

 

  

歩道橋を下り、七里の渡し場跡に向かう。現在渡し場跡は公園になっており、復元された常夜燈が聳えている。江戸時代目の前には伊勢湾が拡がり、湊には多くの帆掛け船が停泊、乗船を待つ旅人で賑わっていた。船番所では役人が不審者に目を光らせ、隣の船会所では荷継に大忙しだっただろう。

「悪いね、お客さん。この船はもう一杯だから次の船だ」

「急いでるんだから一人ぐらいいいだろう」

「船がひっくり返りますよ」

そんな声が飛び交っていたかもしれない。

 

ここで本格的な渡船が始まったのは、元和二年(一六一六)と言われるが、伊勢湾を行き交う船はずっとそれ以前から見られた。

熱田は伊勢湾に向かって南に突き出した熱田台地の先端に位置していたので、海から見ると、神宮の杜はさながら年魚市潟の中に浮かぶ島のように見えた。そのため、熱田は蓬莱島、その先端に鎮座する熱田神宮は蓬莱宮と呼ばれ、その背後に拡がる尾張の地は蓬州という雅名を持つ。蓬莱島といえば徐福伝説を思い出す。東の海上にあって、仙人が住むとされた仙境に重ね見られた熱田に、古来どれほど多くの人が上陸したことか。

 

ここでもまた、東の海の道の存在が浮かんだ。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

 

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