連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

桑名

宮から桑名までは、二通りの行き方があった。一つは七里の渡しで、熱田から船で海上七里を行くコース。もう一つは、熱田の北二キロほどの金山から、岩塚、万場、神守かもりの三宿を経て佐屋に行き、佐屋から木曽川を下って桑名に入るコース。後者は佐屋街道を二十四キロほど余計に歩かなければならないが、船に乗っている時間が少なくて済むので、利用者は多かった。

渡船ルートのない現代の旅人はどうするか。一つは名古屋から関西本線で一気に桑名まで行ってしまう方法。これが一番楽で時間も短くて済む。もう一つは佐屋街道を歩いて佐屋まで行き、そこで名鉄とJRを乗り継いで桑名に入る方法。こちらは歩く距離が増える分、時間と労力がかかるが、脇街道を歩く楽しみはある。

「さて、どうしようか」

そう思っているとき、偶然七里の渡しの体験クルーズがあると知った。そうなると何が何でも船で渡ってみたい。祈るような気持ちで応募したところ、しばらくして当選の知らせが来た。

  

運良く七里の渡しクルーズに参加できることになった私は、この日のために特別に用意された小型船に三十人ほどの参加者と共に乗り込み、名古屋駅に近い納屋橋を発って堀川を南に下った。

堀川というのは、名古屋城と伊勢湾を結ぶために築城と共に開削された水路で、城と城下町を支えた大切な物流の路だった。堀川を守るNPO法人が主催なので、きれいになった堀川を経て七里の渡しへというコースになる。この堀川、近代都市名古屋の発展に伴い、工場や家庭の排水で悪臭を放つ時代が長く続いたが、高度成長期の汚染が信じられないほど、現在の堀川はきれいで、蒼い空をそのまま映し出している。

江戸時代堀川沿いに並んでいたという米蔵や家臣の控え屋敷は見る影もないが、木曽から運ばれてきた材木の集積場だった名残は製材所として引き継がれ、所々の川縁に材木が浮かんでいる。大都会名古屋に、ほんの一瞬垣間見られる懐かしい風景である。

やがて船は七里の渡し場があった熱田を経て、待ちに待った伊勢湾に向かう。江戸時代なら、すでに熱田湊の前に伊勢湾が拡がり、すぐに海路の旅となったが、現在は熱田から伊勢湾までさらに三キロほど堀川を下らなければならない。少々じらされるが、それだけに海に出た瞬間の開放感は大きく、大きくなったエンジンの音が気分を高揚させる。江戸時代の旅人なら恐怖を感じることもあっただろうこの船旅は、私には貴重な休憩のひととき、主催者の説明に合わせて目をきょろきょろさせ、すっかりお上りさんの観光客だ。

「向こうに見えるのが中部電力の火力発電所です。この辺りには石油、鉄鋼やガス、電気などの重厚長大の企業が多いんです」

説明を聞いている間に、船は埋め立て地に建つ巨大な工場や倉庫群の横を通り抜けていく。名古屋港は大貿易港、周辺は工場地帯でもあり石油化学コンビナートも見える。

古くは間遠の渡しとも呼ばれていた七里の渡しも、エンジン付きの船ならあっという間に沖に出る。伊勢湾に出てから十数分も経つと視界から埋め立て地が消え、ようやく広々とした海らしい風景に変わる。海苔の養殖をしているらしく、ウニの棘のように水面から夥しい数の棒が突き出ている。江戸時代尾張藩から蓬莱海苔の名を賜った伊勢湾北部の海苔養殖は、現在も続いているのだ。

海風に吹かれのんびり窓外を眺めていると、木曽三川に挟まれた長島が見えてくる。長島は戦国時代、信長の侵攻に対し一向宗門徒が立ち向かった、いわゆる長島一向一揆の舞台だったが、現在の長島は高さ日本一という巨大なジェットコースターが人気の大規模遊園地と隣接する温泉施設で知られる観光地になっている。そこを過ぎると、船旅も終わりが近い。船は揖斐川に入り、河口を北に上がっていった。

 

  

船を下りると、早速桑名側七里の渡し場に向かった。

何も遮るものがない堤防道に、夏のような強い日ざしが照りつけ、揖斐川の水を真っ青に染めている。堤防道には先ほどのクルーズで一緒だった六十代ぐらいの夫婦がのんびり歩いている以外、人の姿はない。

道路脇に大きな説明表示。近寄ってみると、そこに書かれていたのは木曽三川の治水史だった。いまは穏やかな木曽三川も、これまで超えてきた富士川や天竜川同様、大雨が降ると氾濫し、周辺に大きな被害をもたらす暴れ川だった。伊勢湾台風の大惨事は、いまも当時を知る人から聞く機会があるが、そこに宝暦治水の文字を見つけ、この揖斐川の少し上流で起きた江戸時代の悲劇を思い出した。

江戸時代、木曽川、長良川、揖斐川は至るところで分流合流を繰り返したせいで、網の目のように入り組み、下流には無数の輪中があった。そのためそこで暮らす人々は、大雨のたびに甚大な被害を被った。そうした中、薩摩藩は河川改修の御手伝普請を命じられる。宝暦三年(一七五三)のことだ。藩の財政を疲弊させるのが目的なのは明らかで、理不尽な要求に対し、幕府と一戦を交えようという意見が出る中、家老・平田靱負ひらたゆきえは決断した。

「戦をすれば薩摩の百姓が犠牲になる。ならば水害に苦しむ美濃の人々を救うために力を尽くそう。それが武士の役目ではないか」

そう藩士らを説き伏せると、その翌年治水工事のために薩摩から遠路はるばる千人近い藩士が美濃に入った。

ところが天下の暴れ川として聞こえる木曽三川の分離工事は並大抵ではなく、慣れない鍬を手に、水に足を取られながらの難工事。雨が降れば、それまでの努力も水の泡と消えた。粗末な食事と過酷な長時間労働で、藩士たちは次第に追い詰められ、自害する者も出始めた。

結局この難工事はおよそ一年の歳月をかけ、宝暦五年(一七五五)に完了。最終的にかかった費用は四十万両、現在の金額で三百億円以上にのぼった。自害者五十一名、病死者三十三名、合計八十四名もの命が失われ、工事完了の報告後、工事責任者だった平田靱負も自ら命を絶った。それが宝暦治水だ。

数年前の正月、名古屋にある夫の実家に帰省中、ドライブを兼ねて長良川と揖斐川の合流地点にある油島千本松原に行った。油島は、数カ所で行われた治水工事の中でも、最難関の工事を強いられた場所だ。工事完了の記念にと、そこから南におよそ二キロにわたって続く堤防に薩摩藩士が日向松を植えた。それがいま、千本松原と呼ばれる見事な並木になっている。私たちは松並木を歩いた後、平田靱負と薩摩藩士をお祀りする治水神社にお詣りし、夕日に照らされた揖斐川を見ながら帰路についた。

そんな油島の様子を思い出していたところに、先ほどのクルーズで一緒だった夫婦がやってきて、

「ああ、そうそう宝暦治水ね。あれは何ていう寺だったかね。薩摩藩士のお墓があるのは」

「海蔵寺ですよ」

と、治水史の表示を見ながら話している。

「先ほどはどうも」と軽く会釈をしたついでに、その寺のことが気になり聞いてみたところ、海蔵寺には平田靱負ら自刃した二十四名の薩摩藩士の墓があるという。宝暦治水で犠牲になった藩士たちの墓は、木曽三川沿いのいくつかの寺にあるようだが、その一つが桑名にあるなら是非墓参りがしたい。

場所を尋ねると、東海道からそれほど離れておらず、宿場歩きのついでに立ち寄れそうだ。夫婦にお礼を言い、寺に向かった。

 

 

海蔵寺は、かつての宿場の中心を過ぎ、東海道から西に数百メートルはずれたところにある。創建は天正二年(一五七四)、当初寺はもっと西に置かれていたようだが、いつの時代にか現在地に移っている。

入口に「薩摩義士墓所」と書かれた看板が立ち、通りからでもよく見える本堂には、薩摩藩の家紋が入った幕が張られている。本堂前で手を合わせていると、奥さんらしき人が本堂に隣接した家から出てきた。

「本堂の中に宝暦治水のパンフレットが置いてあります。平田靱負の木像がお祀りしてありますから、どうぞお詣りください」

ご本尊をお祀りする祭壇の左に、小さな祭壇が置かれ、平田靱負の像はそこにお祀りされていた。五十センチほどの座像は彩色が施され、一瞬どきりとする。この木像は大正の終わりに忠魂堂を建てた際に造られたもので、忠魂堂は戦災で焼けたが幸いこの木像は残ったという。本人に似ているかどうかはわからないが、その目はどこか遠くを見据えているようで、対峙していると身の引き締まる思いがする。

「当時は自刃した藩士たちの葬儀をしようにも、幕府の目を憚って、引き受けてもらえないことが多かったんですけど、雲峰珍龍和尚は『死者を弔うのは僧侶のつとめ』と手厚く葬ったんです。平田さんが亡くなったときも、ご遺体が京都の大黒寺に送られる途中、海蔵寺に立ち寄られましてね。そのとき和尚が、遺骸のまま京都へお送りするのは忍びないとお経をあげたことから、ここに供養塔が建てられることになりました」

静かに語られる話に耳を傾けながら、海蔵寺の雲峰珍龍和尚の、保身に走らない博愛精神にも心打たれる。

本堂へのお詣りを済ませ、境内奥の墓地に向かう。

中央に平田靱負の大きな墓石、その両側に自刃した薩摩藩士たちの小さな墓石二十三基が敷地を囲むように置かれている。

専門的知識が必要な治水工事の設計監督に、幕府は経験知識のない役人を配した。その結果薩摩藩士たちが命がけで築いた堤が、幾度となく流されてしまったときの絶望感たるや、その心情は察して余りある。

だがどうだろう。多くの犠牲を払う結果にはなったが、彼らの偉業が周辺に暮らす人たちの生活を守り、それによって木曽三川の流れが安定したことで東海道を行き来する旅人の安全も確保された。

平田靱負の同胞愛精神は、結果的に彼自身が思い描いていた以上に広く浸透したとは言えないだろうか。そう思いたいものだ。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

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