連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

四日市

宮から桑名までは運よく七里の渡し体験クルーズに参加、江戸時代の旅人さながら船で伊勢湾を渡ったが、かつて宮から直接四日市まで船で渡る十里の渡しもあった。正式な航路は七里の渡しで、宮・四日市間は非公式。ただでさえ危険の多い船旅が三里も余計になるので、こちらを利用する人は多くなかったのではと思ったが、そうでもないようで、江戸の中期以降は十里の渡しもかなり利用され、客を奪われた桑名から苦情のくることもあったという。

四日市宿の南五キロほどのところに、伊勢街道との分岐合流点・日永の追分がある。お伊勢参りが目的の人は、桑名・四日市間の陸上十二キロを節約し、危険覚悟で航路を取ったのだろう。

四日市はその名の通り、中世浜田城が築かれた際に開かれた市によって発展した町だが、湊町でもあった。近世になると、海沿いには廻船問屋や漁業関係者の蔵などが軒を連ねた。東海道は、海岸から数百メートル内陸に入ったところを通っているので、東海道と海岸沿いとは、浜往還によって結ばれていた。江戸時代の終わりごろから明治にかけて、四日市港は伊勢湾最大の商業港として栄えたが、そのころには東海道よりむしろ浜往還の方が賑やかだったらしい。

この先四日市を過ぎると、東海道は鈴鹿峠に向かって西進し、終着点の京都まで海を見ることはなくなる。四日市が海の見納めになるが、四日市の臨海部といえば石油化学コンビナートが林立する重工業地帯だ。高度経済成長期に四日市の空と海を汚染し、多くの人を苦しめた四日市公害の現場を見て、どのような感情を抱くのか、予想がつくだけに、四日市の海は見ないまま先に進んだ方がいいのではないかと思う一方、見なければ後悔するだろうという思いもあった。

答えが出ないまま、富田にやってきた。

近鉄富田駅周辺は鄙びた懐かしさの漂う商店街。人の姿はほとんどなくひっそりとしているが、ここは江戸時代立場が置かれ、当時の旅人は富田に入ると名物焼き蛤の匂いに誘われ、一息ついたようだ。

「右 富田一色 東洋紡 川越村 道」と刻まれた石標を見つけた。富田には、大正三年(一九一四)三重紡績と大阪紡績が合併して誕生した、東洋紡績(現東洋紡)の大工場があった。ガチャンと機械が動けば万単位の金が入る、いわゆるガチャマン景気で大いに活況を呈した工場だが、石標はそれほど古いものに見えない。

その工場はいまもあるのだろうか。

通りがかりの人に尋ねると、工場は十五年ほど前に閉鎖され、現在はショッピングモールになっているが、煉瓦造りの原綿倉庫が残っているという。

開国後日本の近代化を推し進めるにあたり、明治政府が行った殖産興業政策の柱が紡績業だった。特に東洋紡績の設備は群を抜いており、大正三年の合併によって世界最大規模になったが、富田の工場はその東洋紡績の中でも最大の工場で、敷地には工場のほか社宅や学校、病院などがあり、一つの町のようだったという。

四日市臨海部の埋め立て地利用に関する、最初の取り決めがなされたのが、まさにここに工場が造られた時代で、その中心にいたのが東洋紡の伊藤伝七というから、どこか因縁めいている。

工場誘致が具体的に決まったのは、伝七が亡くなった後、昭和に入ってからのことだ。昭和九年(一九三四)四日市市長に就任した吉田勝太郎が、重工業誘致論を掲げて大々的に企業誘致活動を展開、四日市公害問題の筆頭石原産業の進出も、その時代に決まっている。

その後次々と四日市の埋め立て地に工場が進出し、戦後復興の流れの中で海軍第二燃料廠が三菱グループに払い下げられると、国策のもと四日市臨海部に重工業のコンビナートが次々に造られた。それがやがて四日市公害を生むことになったが、恐らく伝七の時代には、工場誘致といってもそこまでは予想していなかっただろう。

四日市はすさまじい速さと勢いで、重工業化へ突き進んだことになる。ストップをかける人は、誰もいなかった。

 

 

富田を出てから一時間ほどで、五十三次四十三番目の四日市に入った。湊と市で栄えた四日市は、宿場規模もそれなりに大きかったが、第二次大戦で空襲を受け、宿場時代のものは完全に失われている。創業天文十九年(一五五〇)なが餅の笹井屋のほか、取り立てて目を惹くものもなく、気がつけば近鉄の四日市駅近くに来ていた。

この日の旅は四日市まで。そのまま帰路についてもよかったが、依然臨海部への関心は消えていなかった。四日市から近鉄で二駅南に行くと、塩浜に出る。鈴鹿川河口の塩浜地区は、公害の最もひどかったところだ。

その程度の距離なら、これからでも行けそうだ。

松坂行きの電車に飛び乗り、塩浜で降りると、タクシーの運転手に「塩浜の海の見えるところに行ってください」と告げた。

タクシーは鈴鹿川沿いの緑地を通り、東へ向かった。

「お客さんも珍しい人だね。何かの取材ですか」

答えに困っていると、運転手は独り言のようにつぶやいた。

「昭和四十年ごろだったかね。四日市公害が一番ひどかったんは。喘息が有名やけど、大気汚染より海の汚染が先やったんですよ。あるとき伊勢湾の魚は臭いと言われだしてね。調査すると、大量の硫酸水が垂れ流しになってた。大気汚染が騒がれ出したのは、それからです。漁師は仕事を失った上、自分自身も喘息になってしまったんやから、本当に大変やった」

「いまでも喘息に苦しんでいる人がいるって聞きましたけど」

「もう終わったんとちゃいますか。ああやって煙突から煙が出とるけど、脱硫装置が濾過してくれるから大丈夫や」

年配の運転手なので、公害の話はよく覚えているが、この人も四日市公害はもう過去のものと思っている。この人もというのは、四日市で立ち寄った店などで、煙突からはき出す煙を話題にすると、皆口々に「もう大丈夫」と言い、意識の外に追いやっているような印象を持ったからだ。そもそも四日市市自体が、二十年ほど前に国連環境計画(UNEP)で表彰され、快適環境都市宣言を発表しているのだから、それも無理のないことかもしれない。けれども、いまでも患者はいる。公害問題は終わってはいない。

やがて鈴鹿川の対岸に、丸い巨大な石油タンクやコンビナートの煙突が見えてきた。河口の先端でタクシーから降り、改めて対岸に目をやると、コンビナートの大きさに圧倒され、巨大な金属の建造物に押しつぶさそうな気分になってくる。いま立っているここが塩浜地区だ。工場とこれだけしか離れていないのかと思うと、恐怖心が頭をもたげる。

鼻の奥につんとした刺激を感じ、慌てて東の方向に目を向けた。すると、目の前には伊勢湾。遠方を大型のフェリーが数隻行き交い、かすかに知多半島も見える。これがかつて那古浦(なごのうら)と呼ばれ、春から夏にかけて蜃気楼が立つことで知られた四日市の海かと、穏やかな海面にほんの一瞬気持ちが和んだが、顔を反対に向ければコンビナート群が威圧的に睥睨している。

東海道中見納めの海の風景は、予想通りだった。

タクシーに戻ると、運転手が言った。

「もうちょっと南に行くと、砂浜が残ってるんですよ。四日市で唯一の浜辺じゃないですか。初夏にはハマヒルガオが咲くらしいです」

四日市には、本来の海がまだ残っている。

「そこに行ってください」

そう運転手に告げると、タクシーはさらに南に向かって走り出した。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

 

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