連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

石薬師

四日市の中心部から離れるにつれ、町並みは旧道らしさを取り戻し、連子格子や板塀の古い民家が方々に見られるようになる。

気がつくと住居表示が日永町になっている。日永といえば伊勢街道との追分で知られ、江戸時代には間の宿として多くの店が並び賑わったところだ。江戸時代にはここを多いときで日に一万人近い人が往来したというが、その多くが伊勢神宮への参詣者だったというから、民衆のお伊勢参りに対する熱狂ぶりには驚かされる。

  

イエズス会宣教師として来日したルイス・フロイスは、天正十三年(一五八五)の手紙で「日本諸国より巡礼としてこの主なる神のもとに集る者の非常に多いことは、信ずべからざる程である。而してこのことは下賤なる平民のみでなく、誓を立てた高貴なる男女もあり、同所に行かざる者は人間の数に加へられぬと思ってゐるやうである。」(『イエズス会日本年報下』)と書いている。

当時すでにお伊勢参りが広まっていたことがわかるが、やはりなんと言っても伊勢参詣が盛んになったのは、世の中が落ちつき街道も整備された江戸時代以降で、近世を通じ日本人の五人に一人はお伊勢参りをしたというから、大変な数だ。

二度にわたり江戸参府の旅をしたドイツ人医師のケンペルも、『江戸参府旅行日記』で大津から土山に向かう道中、お伊勢参りに向かう大勢の人に出会い、参詣人から乞食のように旅費をせがまれ驚いた様子を記している。

家康によって軍事と政治目的で整備された東海道は、参勤交代でそこを通る大名たちのための本陣や脇本陣、荷物の取り次ぎのための問屋場が置かれ、一つの旅の型が完成したが、お伊勢参りに行く人の多くは農民や奉公人といった身分の低い人たちだった。彼らはそうした徳川政権が作った型とは全く別のところで、施しを受けながら旅を続けていたのだ。

東海道というと、つい本陣や脇本陣といった宿場の中心的施設に目が向くが、この街道には表には現れない善根宿を抱いた慈善の道という顔もあった。

 

 

内部うつべ川を越え、采女うねめという町に入る。伊勢との関係をうかがわせる地名。そこから先石薬師の次の庄野まで、しばらくの間また鉄道の通らない町を進むことになる。日本武尊の伝承がある杖衝坂のあたりから、次第に風が強まってきた。鈴鹿の山はまだ先だが、そろそろ鈴鹿おろしの影響が出始めたようだ。

程なく、石薬師宿と刻まれた立派な石標の前に来た。時計を見ると、午後一時を少し回ったところだ。約束の時間からそれほど遅れずに着くことができ、ほっとしてペットボトルのお茶を口に含んだ。本陣を務めていた小沢家の現当主が個人資料館を作り、宿帳などを公開しているというので、あらかじめ予約をしておいたのだ。

石薬師は四日市・亀山間の距離が長いことから、主要な宿場設置から十五年近く遅れた元和二年(一六一六)に設置されたが、すぐ隣に規模の大きな四日市があったので、石薬師は休憩に使われることが多かった。旅籠の数は、次の庄野と共に東海道でも最小の部類。こぢんまりとした宿場の記憶はいまも受け継がれ、街道沿いに連子格子の民家が残る落ち着いた住宅街になっている。

ここは、歌人で国学者の佐佐木信綱の生誕地でもある。宿場町としての歴史に加え、信綱の顕彰にも力を入れているようで、街道沿いには点々と信綱の歌が掲げられている。その一首一首に目を留めながら歩いていくと、八百メートルほどで小沢本陣跡に到着、呼び鈴を押した。

しばらくして、血色のいい八十代とおぼしき小柄な男性が出てきた。小沢家の九代目当主小沢晋さんだ。

「さあ、上がってください。まずはここでお茶でも飲んでって」

玄関を入ってすぐの部屋に通され、自らお茶を入れてくれる。

「遅れてすみません」

「いや、年だから医者に行くことがあるんで予約するようにしましたけど、今日は何もないんでね」

そう言いながら、「ほらこれはドイツに行ったときの写真」と、おもむろにアルバムを拡げた。

「やっぱりヨーロッパの文化はすごいね。実際行って見ると見ないとでは大違いです」

何故かヨーロッパの話になっていくが、楽しそうに話しているので切り出せない。心の中ではいつになったら本陣の宿帳を見せてもらえるのだろうと思いつつ、ついこちらも知っている場所の話になると口を挟んだせいで、どんどん話が明後日の方向に進んでいく。ひとしきり話が済んだところで小沢さんはようやく腰をあげ、「奥へどうぞ」と和室に通された。机の上には、所狭しと本陣時代の遺品が置かれていた。

「ほらここに、大岡越前守ってあるでしょう。それからどこだったかな、そうそうこれは赤穂の浅野内匠頭」

貴重な和綴じの宿帳を、小沢さんは指をなめながらめくっていく。虫食いで穴だらけになったものもあり、そういうのにはあまり手を触れないようだが、博物館で展示するようなものを素手でめくって見せてもらえるのだから、ありがたい反面心配にもなる。ここに出してあるのは小沢本陣に伝わる史料のごく一部で、整理しきれていないものがまだたくさんあるという。
宿泊した大名の名前を記した木札や、徳川家光が宿代代わりに置いていったという掛け軸、加賀藩主から贈られた九谷焼の食器など、小沢さんは嬉しそうにそれぞれの由来を説明してくれる。

「江戸時代にケンペルっていたでしょう。長崎と江戸を往復するとき、石薬師に泊まってるんですけど、上等な旅館だったって書き残してるんです。石薬師は小さな宿場でしたけど本陣が三軒ありました。どこに泊まったのかはわかりませんけど、ここだったかもしれないと思うと、楽しくてね」

満面笑みで話す小沢さんの顔を見ていると、こちらも楽しい気分にさせられる。

もっと話を聞いていたいが、そろそろ失礼しなければいけない。気配を察した小沢さんは、「これで一杯どうぞ」と金彩の華やかなおちょこに日本酒を注いだ。おちょこの謂われは失念したが、やはりどこかの殿様からの拝領品だったと思う。

博物館のケースごしに見るような品々を間近に拝見し、しかもその一つでお酒をいただく。こういう経験はめったにできないが、歩き続けていると良いことがあるものだ。

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

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