関が近づいてくるにつれ、道の先に聳え立つ鈴鹿山脈の、その山肌までもが捉えられるようになってくる。あの山のどこかに峠道がある。そこを越えたらいよいよ西国、東海道の旅も終盤に入る。終着点の京都はまだ八十キロ近くも先だが、鈴鹿の山並みが間近に感じられるだけで私は西を感じ、早くもゴールを捉えたようなほっとした気持ちになっていた。西が待ち遠しい。早く西を歩きたい。この思いが私を急がせた。
鈴鹿川に沿った大岡寺畷の直線道を過ぎ、住宅街の中の旧道を歩いていると、左手に大きな鳥居が現れ、そこから先の町並みが一変した。関宿に入ったのだ。
鳥居は言うまでもなく伊勢神宮のもの、鳥居の先には伊勢別街道が南東に延びている。伊勢別街道は津の辺りで日永の追分から来た伊勢街道に合流する。西からの旅人の多くは日永まで行かずに、この関で伊勢別街道に入り伊勢神宮に向かったというから、関は伊勢神宮への出入り口でもあった。
早速関宿に入っていくと、正面には鈴鹿の山並み、その山に向かうようにこれぞ旧道風景と思える町並みが続いていた。
その統一感と規模たるや、これまで目にしてきたどの町並みをも凌ぐもの。だいぶ見慣れたはずの連子格子の家々も、ここまで途切れずに連続していると見事の一言に尽きる。町屋は江戸の中頃から明治の中頃までのものが多いようで、歩き進むにつれ漆喰壁に虫籠窓という家も目に付くようになる。
およそ一、八キロに及ぶ旧宿場町が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは、今から三十年ほど前の昭和五十九年(一九八四)。東海道の宿場町では唯一の選定地区だが、店舗やかつての旅籠を利用した資料館などが連なる宿場の中心部分をのぞき、関はごく普通に人が暮らす静かな町で、人もまばらである。それが関にとって良いのか悪いのか、一介の旅人に安易なことは言えないが、少なくとも日本橋から東海道を歩き続けてきた私にとって、本陣など主要建物こそ残っていなくとも、関は宿場町の面影を町全体で伝える初めての場所で、何より観光地顔をしていない静かで控えめなところに惹かれる。
歩いても歩いても途切れることのない趣きある家並みに、私は驚きを通り越して興奮に包まれ、一体この街道風景はどこまで続くのか、一度足早に歩いてその終わりを確かめてみたくなったが、それももったいなくてまた速度を緩め、左右に目をやりながら一歩ずつ進んだ。
すべての電柱が地中に埋め込まれているので空が広く、薄茶色の色石で舗装された路面はアスファルトにはない温もりが感じられる。やがて民家に混ざりぽつりぽつりと商店が現れるようになるが、店の看板も毒々しさとは無縁の古びた木やブリキのもので、本陣跡にある格子戸の店など、よくよく見ないと電気店とはわからないほどだ。
店の前にみかんを並べた食料品店に入ってみた。おやつを買い「すばらしい町並みですね」と奥さんに言うと「表はいろいろ規制があって手を入れられないから、結構大変なんですよ」とのこと。三十年ほど前重要伝統的建造物群保存地区になったときは、それがどういうものか知らない人が多く、かえって規制が増えたことに戸惑いもあったという。江戸時代の建物が残っているところはそれを修理し、残っていないところも東海道沿いの部分だけは景観を乱さないよう連子格子などを用いた。街道沿いに暮らす人たちの協力によって蘇った宿場町である。
先に進むと、関では珍しい妻入りの建物が目に留まる。江戸時代初期から両替商を営んでいた豪商の家で、二階部分の手すりと格子戸の意匠が美しい。家の前に植木鉢が置かれているところを見ると、今でも人が暮らしているのだろう。さらにその先、堂々たる漆喰壁が印象的な建物は、関を代表する大旅籠玉屋。現在は旅籠の様子を展示した歴史資料館になっている。
その玉屋の向かい、立派な庵看板に目が惹きつけられた。「関の戸」と書かれているその店は、寛永年間から続く深川屋という菓子店で、中をのぞくと年配の夫婦が買物をしている。店内には昔ながらの畳の間に木枠の小さなガラスケースが一つ。そこに菓子箱が上品に置かれている。関の戸はこし餡を薄い求肥で包み和三盆をまぶした直径三センチほどの餅菓子で、江戸時代東海道を行き来する諸大名に人気だった。今売られている関の戸も当時のままの製法、関の戸以外の菓子は売られていない。現代人に媚びないその心意気が好ましく、一切れ試食させてもらうと、こし餡と和三盆が溶けあい上品な甘みが口に拡がっていく。
店の奥に目をやると、博物館さながらに大きな螺鈿の担い箱や菓子箱、昔の帳場に銭筒、七つ玉の算盤などが展示されている。担い箱には「御室御所御用所 関の戸 服部陸奥 大掾」の文字。御室御所は京都の仁和寺だが、その御用所というのはどういうことだろうと尋ねると、「当店は天保元年に光格天皇から御室御所の御用達菓子司を仰せつかりまして、その時賜ったのが従二位陸奥大掾という官位です」という。展示してある立派な螺鈿の菓子箱は御室御所に菓子を納めるときに利用したもので、「関所御免」と書かれた前掛けを付けた奉公人が周りを警護されながら鈴鹿峠を越え京都に向かったという。そんな話を聞くことができるのも、いよいよ京都が射程圏内に入ってきた証だろう。
当時庶民には手の出なかった関の戸だが、現代なら私にも買える。土産に一箱買って店を出ると、先ほど「関の戸」と書かれていたはずの庵看板の文字が「関能戸」になっている。見間違えたかと思ったらそうではなく、西から来た人には漢字で、東から来た人には平仮名で示しているらしい。自分が歩いている向きがすぐにわかるように書き分けられたのだろうが、これは東からの旅人の流れと西からの旅人の流れが意識されていたことでもあろう。東から西への移り変わり、その境界を探しながら歩いている私には、これも一つの境界に思えた。
ところで関は、深川屋から少し西に行ったところにある地蔵院の門前町として発展し、関といえば地蔵院、『東海道名所図会』でも地蔵院についてかなり紙面が割かれている。実際地蔵院は東海道を歩いているとそのまま境内に導かれるように街道と一体化しており、関の風景に趣を添える関の中心的存在だが、関にはさらに歴史を遡った古代律令制の時代、鈴鹿の関所が置かれていたように、関所の町としての顔もあった。
古代の関所は畿内周辺にいくつも置かれ、その中でも鈴鹿関、不破関、愛発関は古代 三関と呼ばれ特に重視されていたが、関所に由来して地名を関と名乗っているのはこの三重県の関ぐらいだろう。そう考えると鈴鹿関が特に重きを置かれていたような気がするが、実際鈴鹿は東西、南北、そのどちらについても関所として申し分のない位置にある。
鈴鹿関というと、古代最大の内乱である壬申の乱を思い出す。大津京で病に伏せていた天智天皇が息子の大友皇子に皇位を譲ると決めたことから、大海人皇子(天智天皇の弟、後の天武天皇)は剃髪して吉野に隠棲したが、六七二年一月に天智天皇が崩御すると大海人皇子は皇位奪回の計画を練り、七月二十四日の早朝妃の鸕野讃良皇女 (後の持統天皇)や草壁皇子、忍壁皇子らわずか数十人を伴って吉野を発ち鈴鹿を目指した。伊賀の名張では参軍を得られなかったが、次第に伊勢や美濃、尾張らの豪族の協力を得ることに成功。大津京を脱した大海人皇子の息子高市皇子と積殖(柘植)で合流し、鈴鹿関を封じたことでさらなる勢いを付けた。鈴鹿は北は鈴鹿山脈、南は布引山地に挟まれた狭隘な土地のため、守るに易く攻めるに難い天然の要害だったのだ。
三関の中で最初にその場所が明らかになったのは不破関で、現在関ヶ原には資料館もできているが、愛発関は未だ不明のままである。鈴鹿関はというと、ここも長らく考古学、歴史学、古代史など各方面の学者の研究にもかかわらずなかなか場所を特定することができなかったが、平成十七年(二〇〇五)にこれまで注目されていなかった観音山の山裾から土塁と大量の古代瓦が見つかり、さらに発掘調査を進めたところ、土塁は築地塀の一部でそれが鈴鹿関の西の城壁であるとわかったという。
観音山というのは、私がその晩泊まることにしている国民宿舎のすぐ裏の山なので、翌朝そこに寄ってから鈴鹿峠に向かおうかと思っているが、できれば鈴鹿関についてもう少し詳しいことが知りたい。東海道から百五十メートルほど北に入ったところに、市役所支部がある。そこのまちなみ文化財室を訪ねてみると、「ちょっとお待ちください」とこれまでの調査報告資料を取り出し、最新の調査状況を教えてくれた。
当時築地塀は平城京など国の重要施設に用いられるもので、鈴鹿の築地塀は埋め立て部分も入れると七メートル以上の高さになるということ。西城壁築地塀は観音山から東海道を越えてその南にある城山と呼ばれる小山の南まで、およそ七百メートルにわたって続いていたらしいこと。鈴鹿関には東西に二つの施設があり、全体を合わせると現在の関宿がすっぽりおさまってしまうくらいの規模だったかもしれないこと。そういった話をいくつも聞いているうち、古代の関所は近世の関所とは比べものにならないほどの規模で、防衛施設であったのと同時に、国の威厳を示すための施設でもあったことがわかった。
特に私の興味を惹いたのは、東と西に施設があったということで、東から来る人は東の施設で、西からの人は西で取り調べを受けたというのは、まさにこの関所が東西の境界だったことの表れに思えた。
これまであまり意識もせず関東、関西という言い方をしてきたが、考えてみれば関東は関所の東、関西は関所の西ということである。古代の関所が東西の境界の原点だったというのは不意を突かれたような思いがけない発見で、鈴鹿峠を越えたら西に入るのだろうと思っていた漠然とした境界が、これで確かなものとなった。
ちなみに西の城壁の規模から、鈴鹿関は少なくとも不破関よりは規模が大きかったようだ。愛発関のことが不明なので何とも言えないが、もしかすると鈴鹿は古代三関の中でも最大だったと言える日が来るかもしれない。
翌朝私は鈴鹿関の西城壁の一部が見つかったという観音山を目指した。早朝の麓の道は朝靄に包まれてみずみずしく、峠越え前のウォーミングアップにはちょうどよい。五分もしないうちに土手を覆う青いシートが見えてきた。中の様子をうかがい知ることはできないが、前日もらった資料にある航空写真と照らし合わせると、鈴鹿関の西城壁は、鈴鹿の山々と伊勢平野のちょうど境界付近にあり、関所の場所としては申し分ないように思える。これなら鈴鹿の山を越えてきた人を取りこぼす恐れもないだろう。
壬申の乱以後長屋王の変(七二九)や恵美押勝の乱(七六四)など、国家にとっての一大事の際にも閉ざされ守られた鈴鹿関は、やがて国が安定してくるとかえって交通の弊害になることから、桓武天皇の時代に廃止された。とすると鈴鹿関が機能していたのはわずか百年余りの間ということになるが、古代史に名を残す数々の事件と向き合った関所だけに、その存在感は百年という時間をはるかに上回って大きく感じられる。目をつむると、慌ただしく駆け回る関司の声が聞こえてきたような錯覚を覚える。ビニールシートに覆われているこの場所は、現在から古代へと思い巡らせる歴史の入口にもなっているのだ。
再び東海道に戻った私は、早朝の関の町をゆっくりと歩いた。寺の境内で朝のラジオ体操をしている人々がいる。犬の散歩をしている初老の女性と目が合い、挨拶を交わす。背後から朝日が射し込み、関の町と鈴鹿の山を照らしている。輝くような山に向かい歩いていくと、やがて関宿が終わり旧道は国道一号線に合流した。
すぐ先に、国道一号線と大和街道とが分岐合流する追分があった。大和街道は加太峠を経て奈良に至る道。関所が機能していた時代の官道、つまり古代の東海道は、鈴鹿峠越えの道ではなくこの大和街道だったことを思うと、ここは関所が置かれるべくして置かれた場所だったということがよくわかる。さらに言えば、ここに関以外の地名は考えられない。ここは関の中の関だった。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。