数年前、かつて近江国と呼ばれた滋賀県各地に足繁く通った。
日本列島のほぼ中央に位置し、日本一大きな湖である琵琶湖を抱く近江は、都の置かれた京都に隣接していることから、都と各地を結ぶ様々な街道が琵琶湖の周りを回廊のように取り巻いている。その街道を通じ、近江には都の影響を受けた豊かな文化が育まれたが、同時にここには都に同化しない近江らしさを守る力があると、近江各地を訪ねる中で感じたものだ。
現代の近江で惹かれるのは、開かれていながら秘され守られているような近江独特の風土で、とくに信仰や風習が下手に観光化されずに、その土地その土地の日常生活に根付いたものとして、大切に守られているところに魅せられ、湖畔の町はもちろん、琵琶湖から遠く離れた山間部にも足を延ばした。
鈴鹿峠を越えた最初の宿場・土山にも、周辺で行われる祭を見に何度か足を運んだことがある。瀧樹神社で行われるケンケト踊り、山女原や黒滝の花傘太鼓踊りなどがそれで、風流踊りを取り入れたそれらの祭は、都の雅な雰囲気が色濃く、静かな山村で繰り広げられる舞はどこか幻想的ですらあった。
大阪からそれらの山村に向かう私にとって、土山は湖畔の草津から鈴鹿山脈に向かって車を延々と走らせた、近江国の最も奥まった懐深い場所にある隠れ里のように思えた。
いま私は東から鈴鹿峠を越え、近江側に出たところだ。日本橋を発ち四百キロ以上を歩いて、ようやくその土を踏むことができた。待ちに待った西国。ほっと安堵の息をつくが、ここが近江国の最奥にあるという感覚はない。それよりも鈴鹿峠を越えたことで、一気に京都までの距離が縮まった感じがしている。
以前瀧樹神社のケンケト踊りや山女原の花傘踊りを見に行ったとき、このような奥まったところに都の影響があるのかと驚いたが、いまこうして東から鈴鹿峠を越え近江に入ると、都の影響がここまで及んでいるのは至極当然のことに思える。
西から東に向かう旅人の立場に立てば、鈴鹿峠は西、つまり都との別離の境界になる。古人の未知の世界への恐怖心は、現在のように日本中至るところが均質化し、見知らぬ土地などないほど隅々まで目が行き届く情報社会にあっては、想像もつかないものだった。都に親しんだ人が都を離れる不安は、さぞかし大きかっただろう。鈴鹿峠に伝わる鬼の伝説も、実際峠に山賊が出たということもあったのだろうが、都との別離を恐れる都人の心に浮かんだ幻影だったのかもしれないとも思う。
近江国最初の宿場・土山宿は、坂上田村麻呂をお祀りする田村神社の先から始まっていた。江戸時代から続く建物はないが、伝統的な日本家屋が多く、自然な感じの統一感がある。土山でも、亀山や関のようにかつての屋号が掲げられている。鳥居本屋、加賀屋、瓢箪屋と白い文字で書かれた木札を目で追いながら歩いていくと、ひときわ立派な建物が見えてくる。
一つは連子格子に白い漆喰壁の、問屋場跡に建つ建物。もう一つは、同じく連子格子に黒い漆喰壁の、本陣跡に建つ建物。どちらも歴史を感じさせる造りで、土山の景観に一役かっているが、本陣の方は昭和になってからの再建と聞く。本陣家にはいまも土山さんが暮らしており、事前に予約をすれば当時のまま残されている上段の間や大広間などを見せてもらえるようだが、今回は早朝のため遠慮した。
さらに歩いていくと、道ばたに常明寺と書かれた表示。常明寺といえば、土山で客死した森鴎外の祖父・森白仙の墓がある寺だ。早速脇道に入っていく。田圃の拡がる風景の先に、純白の漆喰壁が続き、大きな楠が空に向かって突き出している。山門に「臨済宗東福寺派」「瑞寶山湖東禅林常明寺」と墨書された木札が下がり、奥に見える本堂は古くはないが、禅宗らしい格調の高さが感じられる。
常明寺の創建は和銅年間(七〇八~七一五)、元明天皇が文武天皇供養のために開いたと伝わり、当初は現在地から西に一キロほどの場所で七堂伽藍を備える大寺院だったが、次第に荒廃。南北朝時代の貞和五年(一三四九)、京都東福寺の僧によって再興された際、現在地に移されたという。
それはともかく、この寺に長屋王の大般若経二十七巻が伝わっている、と山門前の表示にある。白仙の墓参りのつもりで訪れたが、それを見たとたん静かな興奮に包まれた。
長屋王といえば、神亀六年(七二九)に起きた長屋王の変が思い出される。天智天皇の皇子高市皇子を父に、天智天皇の皇女御名部皇女を母に持つ長屋王は、時の最高位右大臣だった藤原不比等に次ぐ地位を占めていたが、不比等の死後その子供である藤原四兄弟がまだ若かったことから、長屋王が右大臣に就いた。ところが何者かによる密告で謀反の疑いをかけられ、家族共々死に追いやられてしまう。これが長屋王の変で、長屋王の死後、政権は藤原氏のもとに渡ったことで、首謀者は藤原氏ではないかと言われている。
血なまぐさい政権争いで、無実の罪を着せられた長屋王だが、生前仏教を篤く信仰していたことで知られ、鑑真来日のきっかけを作ったのも長屋王という。
大般若経は信仰心篤い長屋王が書写させたもので、一つは従兄弟にあたる文武天皇の死を悼み、和銅年間に書写させたものなので和銅経と呼ばれる。もう一つは神亀経で、そちらは神亀年間に父母の冥福を祈って書写させたものだ。それぞれ六百巻ずつあったが、時代と共に数が減り、和銅経は二百二十巻が現存している。
土山の常明寺に伝わるのは、和銅経の一部の二十七巻で、国宝に指定されている。田圃に囲まれた静かな土山の一寺院に、そういう謂われのものが伝わっている。私の心が躍ったのは、そのためだった。しかもここから北東に六、七キロほどの太平寺に百四十二巻(国宝)、見性庵に四十三巻(重要文化財)が伝わっているというから、現存する和銅経の大半が鈴鹿山麓の土山にあることになる。
長屋王の大般若経は、当初奈良の薬師寺に伝わっていた。それがいつしか近江国安土にある桑実寺に移され、さらにそれが土山の三つの寺に渡ったということらしい。薬師寺は長屋王と妻の吉備内親王が信仰を寄せていた寺で、桑実寺は薬師寺領だったという関係のようだ。
桑実寺に移されたのは、長屋王の変の後、謀反者が関係するものを人目に触れさせたくないということからだろうか。もしそうだとしても、桑実寺から土山に移された理由はわからない。
疑問は残るが、常明寺に関して言えば、ここは文武天皇供養のために、母である元明天皇によって創建された寺と伝わっているので、そこに文武天皇の死を悼んで書写された大般若経があることは、ある意味自然ともいえる。
土山の常明寺、見性庵、太平寺へと渡った大般若経は、それ以後場所を移すことなく、各寺院で大切に守られてきた。土山にある理由はわからないし、今後その理由が明らかになることもないかもしれないが、鈴鹿山麓は都から目の届く範囲にありながら、しかも秘密裡に守ることのできる場所だったということは言えるかもしれない。
やはりここは近江なのだ。ようやく近江に到達した。この奥ゆかしき土地の一端に触れ、静かな興奮が渦巻いた。
* 現在それらは東京、京都、奈良の各国立博物館に寄託されている。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。