連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

水口

落ち着いた家並みの間から茶畑や田圃がのぞく長閑な旧道を歩いていると、正面にお椀を伏せたような低山が見えてくる。道が緩やかに曲がるとその山はいったん視界から消えるが、しばらくして今度は右の方に顔をのぞかせる。山に気を取られているうち、やがて復元された冠木門が現れ水口に着いたことを知らされた私は、公園のように整備されたその場所でリュックを下ろし、寒空の下で汗をぬぐった。

朝六時前に関を発っているので、もうかれこれ八時間近く休みなしに歩いていることになる。途中肩や首が痛くなり一時はどうなることかと思ったが、いつの間にか苦痛が和らぎ無事水口に到着することができた。脳内モルヒネのおかげだろう。マラソンランナーにはよく聞く話で、実際経験してみるとなるほどこういうことなのかとわかったような気がするが、水口に着いたとたん肩の痛みが復活し、リュックを下ろさずにはいられなかったというのが正直なところだ。関から水口まではおよそ二十六キロ。この程度で肩が痛くなったなどというのは情けないが、言い訳をすれば泊まりの分だけいつもより荷物が多く、さらに行く先々で手に入れたパンフレットや資料が加わっていた。幸い足のほうは問題ないので多少は救われる。

肩を回したりさすったりしながら周りを見回すと、先ほどの山がすぐそこに迫り、表面を覆う杉の一本一本までよく見える。何ということのない山だが、先ほどから気になっていた。通りがかりの人に聞いてみると、「古城しろ山ですよ。」という。大岡山とも言われるその山は、かつて山上に豊臣秀吉が重臣中村一氏に築かせた水口岡山城があったことからそう呼ばれ、水口のシンボル的存在と知った。

水口の城というと、将軍上洛の際の御殿として小堀遠州に築かせた、近世の水口城が思い浮かぶ。当時幕府の作事奉行として大坂城や二条城を手がけていた遠州は、伏見城の遺構を移して水口城を完成させたが、その姿は二条城のミニチュア版といった趣だったようだ。実際そこに将軍が宿泊したのは、寛永十一年(一六三四)の家光上洛の時だけで、その後は幕府の任命した城番が管理する番城となり、水口藩成立後は藩主の居城として使われたが、明治の廃城後建物の大半が公売に付された。撤去された本丸跡には高校ができ、石垣の多くは近江鉄道の敷石に使われたが、出丸の石垣が一部残っていたことからそこを整備して資料館が造られた。今から二十年ほど前のことである。

近江国には水口城のほか伊庭、永原、柏原と四つの御殿があった。だいぶ前になるが、それらの遺構を見に琵琶湖の東を回ったことがある。水口城を訪ねたのもそのときで、以来水口というと近世水口城の城下町というイメージを抱いていたが、いま東から東海道を歩き、水口に入ったところで出迎えてくれたのは、近世の御殿の城ではなく、そこから五十年弱遡った戦国時代の城が置かれていた山だった。数年前に訪ねたときには全く目が向かなかった水口に出会えたような気がして、秀吉が造らせたという水口岡山城跡に急に関心が高まった。

 

ところで、江戸時代東海道では「京立ち石部泊まり」と言われた。これは京都を発った旅人の多くが大津、草津を経て石部に泊まったということで、石部の東隣の水口は宿泊より休憩に使われる宿場だったことがうかがえるが、天保十四年(一八四三)の記録によると水口には本陣と脇本陣が各一軒ずつ、旅籠は四十一あり、総戸数は七百近くとそれなりの規模だったことがわかる。総戸数だけ見れば、前後の宿場よりも多いが、これは水口の宿場としての歴史の古さに依るのかもしれない。水口は戦国時代のころから、わずかながら休憩できる施設を備えた宿場だったので、早くから町としての発展が見られたのだろう。

現在はというと、ところどころに連子格子の家が残る静かな住宅街といった趣き。宿場時代の建物は残っていないが、家々の佇いのせいかどことなく懐かしい感じがする。早々に、本陣・脇本陣跡の表示。一般的に、本陣や脇本陣は宿場の中央に置かれたので、ここまで東に寄っているのは珍しい。

地図に目をやると、この先東海道は紡錘型に三筋に分かれ、一キロほどその状態で西に進んだ後また一本に束ねられ、今度は鈎形を描いている様子が見て取れる。鈎形になっているのはその南に江戸時代の水口城があるためで、典型的な城下町の造りだが、中央の紡錘型の三筋の道は珍しい。

三筋の街道は広い意味ですべてが東海道だが、厳密には真ん中の道が東海道である。それを挟む北側の道は北裏筋、南は南裏筋と呼ばれ、宿場時代には街道ごとに特色があったようだが、おもしろいことにその紡錘型の街道のほぼ真北に先ほどから気になっている古城山がある。もしかしてと思っていたら、やはりそこは水口岡山城の城下町だったところで、三筋の街道は天正十三年当時の町割りの名残だった。

早速その紡錘型の街道に入っていくと、旅籠町に葛籠町といかにも宿場らしい町名。中央の東海道沿いには旅籠や商家が集まっていたらしい。現在はというと住宅に混ざって菓子屋や電気店が点々としている。十年ほど前までアーケードの商店街だったというが、今はお世辞にも商店街とは言えない。裁判所や合同庁舎といった政治機能が近世水口城の南に集まっていることもあり、現在の町の中心もその周辺に移っているのだ。かつての三筋の町の繁栄は、ところどころにある曳山祭の山車蔵から偲ぶしかない。

寂しげな街道にも、老舗が数軒。そのうちの一軒、文政年間創業という老舗菓子店に入ってみた。生菓子や饅頭、最中などが並ぶケースを眺めながら、古城山までの道を尋ねると、「この先を右に曲がったら大岡寺だいこうじに突き当たるから、そこまで行けばすぐ山道が見えてきます」とのこと。曳山祭の山車の車を象った菓子を買い店を出ようとすると、「ついでに大岡寺にも行ってみてください。行基が開いたという寺でもとは山の上にあったんです」とも。秀吉は中村一氏に城を築かせるにあたり、山上にあった大岡寺を麓に移したというのだから強引な話だが、そうまでしてそこに城を造りたい理由があったのだろう。

 

  

和菓子店を出ると、早速そちらに向かった。大岡寺は古城山の麓に潜り込んだような位置にあり、時おり野鳥の声が聞こえる以外、辺りは静寂に包まれていた。御由緒によると、山上にあった頃は多くの堂宇を構え隆盛を誇っていたが、そこが要害の地で交通の便もよかったことからたびたび戦禍を被り、東之坊(本坊)を残すだけになった。天正十三年(一五八五)山上に城を築くために山から下ろされたのはその東之坊で、現在の場所に移転し本堂が再建されたのは享保元年(一七一六)というが、山の麓には水口岡山城時代の武家屋敷があったというから、現在大岡寺がある場所もその一部だったのかもしれない。いずれにせよ、古城山が要害の地で交通の便がよかったので、山上にあった寺が戦禍を被ったという話は、そっくりそのまま後に秀吉がそこに城を築いた理由にもなるだろう。

地図を見ると、水口には東海道はもちろんのこと伊賀道に信楽道、柘植方面に向かう杣(そま)街道に日野街道といった多くの街道が集まっていることがわかる。さらに視野を広げれば、それらの道は大和国や伊勢国、紀伊国にも通じている。

水口や信楽など、伊賀国に接する近江国の最も懐深いところは、かつて甲賀郡と呼ばれた。現在の甲賀市がほぼそれに相当するが、そこは中世甲賀衆とか甲賀武士と呼ばれた半農半武の土豪が群雄割拠していたことで知られる土地である。彼らはそれぞれが対立するのではなく同族が結束して一種の自治組織を作り、あるときは鈴鹿関や街道を警護し、またあるときは外敵との抗争の際に協力し合ったりと、甲賀での暮らしを守るために大きな働きをしたが、その戦闘能力は相当なものだったようで、甲賀衆が守っている甲賀から伊賀にかけての道は大和への侵攻の際に重要な場所で、信長も次第に勢力を拡げていく中で甲賀衆を組み込もうとしたらしい。本能寺の変で信長が倒れた後政権を握った秀吉も、基本的には信長同様甲賀衆の力を利用したが、天正十三年(一五八五)紀州雑賀攻めの際、出陣命令に背いたなどと難癖をつけ、甲賀衆を改易させてしまう。つまり彼らの武力をふぬけにした。これを期に秀吉による甲賀の新しい支配体制が始まった。岡山水口城はその端緒となった城なのだ。

そうした戦国時代の甲賀を思い浮かべながら、大岡寺を後に古城山への道を上った。整備された道は歩きやすく、十分足らずで山頂に到着。最近木を伐採したばかりのようで、あちらこちらに切り株がある。見てくれは悪いが、そのおかげで眺望がよくなったとも言える。

これから進む西に目をやると、水口の町のはるか彼方に修験道で知られる飯道山や阿星山が、東の方には綿向山をはじめとする鈴鹿山脈の連なりをうっすらと捉えることができる。東海道は樹木の陰で見えないが、秀吉はおそらくこの山頂から三百六十度をぐるりと見回し、水口を通過する人の動きを捉えたに違いない。水口岡山城を最初に任せたのは秀吉子飼いの武士中村一氏だったが、一説によると彼は甲賀の出だという。それが本当なら、交通の要衝でありながら三方を山に囲まれた近江の懐深い水口を安心して任せることができただろう。

水口岡山城は天守閣のある本丸、二の丸、三の丸、そして西の丸を持つ城で、本丸は十六メートルもの高さの石垣の上に建っていたと考えられるというから、この時代の城としてはかなり立派なものだった。その石垣の一部が本丸の北に残っている。荒々しく野面積みされた石垣の残骸が、当時の勢いを感じさせる。わずか三代十五年で廃城になったというにしては、今なおその存在感は大きい。

 

 

これまで私は、交通の要衝と言われる場所を何度も通過してきた。東海道には北から南から数え切れないほどの道が集まり、各地へと通じていることをそのたびに痛感させられたが、鈴鹿峠を越えいよいよ京都が近づいてくると、東海道の役割の大きさや重みがさらに増してきたような気がする。秀吉の時代、近江国に築かれた城の多くは信長時代を踏襲し琵琶湖沿いにあったが、唯一内陸に置かれたのが水口岡山城だった。秀吉は水口の重要さを熟知していたのだ。

 

 

 

*写真ページ「旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

 

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