水口を出て一時間ほどすると、東海道は野洲川の大きな流れに突き当たる。鈴鹿山脈の御在所山に発し琵琶湖に注ぐ野洲川は、琵琶湖に流れこむ四百六十本近い河川の中で最も長く、利根川の坂東太郎に擬え、近江太郎とも呼ばれる。
突き当たりには、見上げるほど大きな常夜燈。江戸時代そこに渡し場があったのだ。三月から九月までの増水期には渡し船が出、十月から二月までの渇水期には土橋が架けられたという野洲川越えは、かつてその辺りが横田川と呼ばれたことから、横田の渡しと言った。現在流れは緩やかだが、この辺りの野洲川は鈴鹿山脈の油日岳に発する杣川と合流してまだ間もなく、昔は流れも早かったことから、旅人にとって難所だった。
それにしてもこの常夜燈は大きい。おそらくこれは、これまで歩いてきた中で最大の常夜燈だろう。対岸の三雲駅近くにも同じように大きな常夜燈があるようだが、説明を読むとこの右岸の常夜燈は地元のほか京や大坂の万人講によって建てられたもので、竿の一面に文政五年(一八二二)の年号が読み取れる。石の柵で囲われているのですぐ近くまで行くことはできないが、目を凝らすと基壇の各面には寄進者らしき名も見え、竿の別の面には金比羅大権現の文字も浮かび上がっている。
常夜燈といえば、鈴鹿峠を越えた土山側にもあったが、それも金比羅参りの万人講によって寄進されたものだった。江戸後期にもなると東海道はお伊勢参りの人たちばかりか、金比羅参りに向かう人たちの信仰道でもあったのだ。
公園のように整備された渡し場跡の片隅に、小さな祠を見つけた。昔の旅人はここで手を合わせ、安全を祈願して野洲川を渡ったのだろう。私もこの先の道中安全を願って手を合わせ、整備された堤防から川を見下ろすと、流れは静止しているかのように穏やかで、対岸の風景を川面に映し出している。昨晩かなり雨が降った割に流れは穏やか、この程度なら長靴を履けば渡れそうだが、対岸には鬱蒼とした茂みが続き、道は完全に途絶えている。
度重なる氾濫で、周辺に暮らす人たちの生活を脅かしてきた川だが、同時にそのたびに肥沃な大地を生み、流域に古くから人々の営みを芽生えさせもした。守山の下之郷からは弥生時代中期の大規模な多重環濠集落遺跡が見つかっているし、三上山の北の野洲では二十四個にも及ぶ銅鐸が出土、その中には日本最大のものも含まれている。
以前そうした遺跡を訪ねては、古代近江の豊かさに感じいったものだが、野洲川といえば、そこからさらに時代を遡った、人類誕生以前の歴史の跡を有してもいる。
確かそれは、野洲川中流の河原だったはず。ひょっとしてこのあたりだろうかと対岸の茂みに目を凝らしてみるが、それらしきものは見当たらない。犬の散歩で通りかかった人がいたので尋ねてみると、「もうちょっと下流じゃないかしら。新生橋の下だったと思いますよ」と教えてくれた。
地図を見ると、新生橋というのはこれから渡る予定の横田橋よりもう一つ下流の橋で、ここからだと一キロ少しある。「最近は風化してよくわからないみたいですよ」と言うので寄り道はまたの機会にしたが、実はそこにおよそ二百万年ほど前の象や鹿の足跡が化石となって残っているのだ。
発見されたのは、昭和六十三年(一九八八)。野洲川の河床で、立木が埋もれて炭化した化石林が発見された際、象や鹿の足跡も一緒に見つかった。昨年(二〇一七)日本地質学会が選定した県の石の一つに、この化石が認定されたことを偶然知ったところで、東海道の旅の途中立ち寄らなかったのが悔やまれるが、それはともかく私が興味を惹かれたのは、その足跡が残されていた河原の土が、二百六十万年ほど前の古琵琶湖層だったということだ。
琵琶湖は最初から現在の場所にあるのではなく、およそ四百万年前に伊賀の東に誕生したものが、伊賀盆地や鈴鹿山脈の隆起によって少しずつ北に移動し、およそ四十万年前に現在の位置に落ちついたと言われている。
古琵琶湖層というのは、現在の琵琶湖が出来るまでの過渡期、湖の移動を示すもので、野洲川中流の河原に、そうした時代の化石が剥き出しに残っているというのだから、スケールの大きな話だ。ということは、いま向かっている石部も、またそこまでの東海道も二百六十万年前には古琵琶湖の中にあった、つまり古琵琶湖が通過していった土地ということになるだろう。そういうところを歩いていくと思うと、今までにない興奮に包まれる。
野洲川を渡り石部を目指し西に歩いていると、民家の切れ目から進行方向左、つまり石部の南に屏風のように連なる山並みが見えてくる。その中で一番高い山は阿星山といい、その麓に常楽寺と長寿寺という天台宗の古刹がある。常楽寺は西寺、長寿寺は東寺とも呼ばれ、それらは地名にもなっている。
数年前の夏、友人と湖南地方を旅したとき立ち寄ったことがあるが、どちらの寺にも国宝に指定された見事な建物が残っており、静かな集落にひっそりとたたずむその風情に、私たちはすっかり魅せられた。常楽寺の三重塔、長寿寺の本堂はとくに印象深い。もちろんそれらの建物は創建当初からのものではないが、どちらの寺も、奈良時代良弁によって開かれたと伝わっている。
良弁は聖武天皇に見込まれ、大仏建立に大いに力を貸した高僧だが、実はこの石部周辺には、常楽寺と長寿寺以外にも、良弁開基と伝わる寺がいくつもある。たとえば東海道の北、野洲川を越えたところの正福寺や、その少し西にある少菩提寺がそうで、少菩提寺は廃寺になっているが、多宝塔や地蔵像などいくつも石造物が残されている。
範囲を拡げると、良弁開基の寺は他にもある。少菩提寺に対し大菩提寺と呼ばれる金勝寺がそれで、金勝寺は石部の南に連なる山並みからさらに南の、湖南アルプスと呼ばれる田上・信楽山塊の山中に鎮座している。ちなみにその寺がある周辺の山中にも、磨崖仏がいくつも残されている。一番有名なのは狛坂廃寺磨崖仏で、高さ六メートル、幅四メートルの巨石に刻まれた三尊は、それが固い石に刻まれたものとは思えないほど繊細で巧みだ。
当時都や寺院を造営するための木材は、杣山から切り出され、運ばれた。その杣山の代表が近江の田上山周辺だったが、同時にそこは、仏像づくりに重要な鉱物資源の宝庫でもあったと言われている。これらの資材は、瀬田川の水運を利用し奈良に運ばれた。その集積地である瀬田にも、良弁開基と伝わる石山寺がある。
田上山をはじめとする湖南アルプスや、その麓の石部周辺に良弁開基の寺が多いのは、良弁が湖南の山々を渡り歩いていた何よりの証拠だが、さらに踏み込んで言うと、良弁は資源豊富なこの山塊を熟知していた、あるいは資源の利用に習熟した人たちをとりまとめるような立場にいたということではないだろうか。
その山塊を仕切っていたのは誰なのか。狛坂廃寺磨崖仏が新羅の影響を受けていると言われるように、石造物の背後には渡来人の姿が見え隠れする。そもそも狛坂という名がそうだし、良弁自身も近江の百済氏の出と言われる。良弁の足跡のあるところに、見事な石造物が残されているのは単なる偶然ではないだろう。
静かな石部の町を抜けると、コンクリート工場があり、目の前に黒灰色の岩肌が剥き出しになった低山が現れる。灰山といって、現在も山の中腹にはショベルカーが数台、いまも砕石が続いている。その山に続き、別の小さな山も顔をのぞかせている。
石部は湖南アルプスからは多少離れているが、山麓と言ってもよい位置にあり、これらの低山は湖南アルプスの北端に当たる。石部の低山もかつては鉱物資源の宝庫だったことから、大仏を造る際ここから銅を採掘させたという話も聞く。
石部の「石」は、湖南の山塊が秘めた石の存在を伝えている。その石を熟知し、活用したのが良弁を中心とした石の匠たちだった。
*写真ページ「旧東海道のひとこま」も更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。
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