連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

草津

先ほどからちらちらと見えていた三上山が、石部を出ると進行方向右手にその秀麗な全容を現す。

雲晴るゝ三上の山の秋風にさゞ波遠く出づる月かげ  浄助法親王 『続拾遺集』

近江富士とも呼ばれる三上山は、小ぶりながら凛として美しく、琵琶湖周辺を巡っているとふとした時に目に留まるので、よい目印になる山だ。

いつしか東海道は伸びやかな湖東平野の中を通っている。そうした風景の中でひときわ存在感のある三上山は、古来信仰の山として周辺で暮らす人々の心のよりどころとなってきたが、当然その姿は近くを通る旅人たちの心も強く捉えた。三上山を詠んだ歌の数々はその現れである。

三上山は美しい。この山には神奈備としての神々しさを内に包み込んだ柔らかさがある。富士山は東海道中その姿を目にすると圧倒され、ときには足のすくむ思いがしたが、標高四百メートルほどの三上山を前にそのような畏怖を感じることはなく、むしろこの山に宿る神々しさに母性を重ねたくなる。三上山は琵琶湖と共に近江の風土を造りあげた、まさに近江の母のような存在だ。

 

そんな三上山としばし同道二人旅を楽しんだ後、東海道は伊勢落という町に入っていく。伊勢落はかつて伊勢神宮に仕える斎王の一行が通ったことから伊勢大路と呼ばれていたのが、いつの間にか伊勢落に変わったという由来を持つように、古くから往来があった土地だ。現在の伊勢落は板塀に瓦屋根、連子格子、蔵などが目に付く静かな住宅街で、そうした町並みは六地蔵に入っても同じように続いている。

六地蔵は江戸時代梅の木立場が置かれ、旅人が休憩する茶屋が建ち並んでいた点、伊勢落とは少々趣きが異なり、紅殻格子や塀に瓦が乗った瓦塀が華を感じさせる。六地蔵で目につくのは、「麹屋 糀屋太郎兵衛」「和中散屋 ぜさい東店大角重蔵」「もぐさ屋 亀屋善蔵」といった、かつての屋号を記した表示だ。立場でこうした表示があるところは少ない。歴史を大切にする土地柄なのだろう。嬉しくなって街道脇を流れる水路の音を聞きながらそれらの屋号を追っていくと、大きくカーブした先に、卯建うだつの上がった重厚な構えの商家が見えてくる。

一目で古いとわかるその建物は、和中散という漢方薬で知られた「ぜさいや」のもので、つい先ほど「ぜさい東店」という表示があった家の本家にあたる。店舗の東隣には小ぶりながら堂々とした四脚門が、東海道を挟んだ向かいには当主大角家の隠居所や地蔵堂があり、そこだけ江戸時代に溯ったようだ。国の重要文化財に指定されているこれらの建物は、いまも大角家の人たちによって守られている。

中を案内してもらえるというので、あらかじめ予約をしておいた。呼び鈴を押すと、「どうぞ」と低い声が響いた。「少し早いのですが」と言いながら引き戸を開けると、体格のいい齢八十過ぎの男性が「かましまへん。いまそこを開けますから」と言いながら迎えてくれる。

  

蔀戸が開くにつれ、薄暗かった室内に光が入り込み、黒光りした広い板の間に置かれた江戸時代の大きな看板に目が留まる。一つは彫刻で縁取りされ、「わちうさん」と書かれたもの。もう一つは赤字で「ぜさい」と書かれたもの。さぞや遠くからでも目を惹いただろうと思われる、立派な看板だ。

「ご存じのように、ここは和中散という薬を売る店でした。六地蔵には五、六軒同じような店がありましたけど、建物が残っているのはここだけです。江戸時代はこの戸を全部外してましたから、通りと一体感がありましてね。お客さんをここに上げ、お茶を振る舞ったので梅の木茶屋とも呼ばれてました。
始まりは三百六十年ほど前の元和年間で、京都の名医・半井なからいぼくようの娘を娶ったときに製薬法を伝授され、以来ここで薬を売ってきたと言われとります。腹痛を訴えた家康が和中散を飲んだところ、たちまちよくなったことから、和中散の名が広まりました」

淀みなく店の歴史を話し始めるその男性は、大角家二十四代当主の大角弥右衛門さんだ。

「江戸時代、ここにはいろんな人が立ち寄りましてね。元禄年間にはケンペルが立ち寄って『江戸参府旅行日記』に「この地で発明された効能ある薬」と書いてますし、幕末にはシーボルトも来て薬をもらい受けたり、この辺の植物を長崎に送らせたりしたようです。店舗の東に書院を増築して小休み本陣にしたもんですから、大名さんも休んでいかれました。どうぞこちらへ」

案内された書院は、本陣さながらに格調高く、千鳥破風の玄関や、そこを飾る欄間に目が引き寄せられる。欄間は外側と内側で図柄が異なり、繊細さと力強さを兼ね合わせた技術は見事だ。

「玄関の欄間でこれだけのものは、二条城とここぐらいでしょう。今度はこちらへどうぞ」

見とれている間もなく、奥に続く座敷に案内されるが、そこでもまた屏風絵や襖絵に目を奪われる。

「奥が上段の間です。いまは次の間との仕切りに別のが入ってますけど、元々ここには曽我蕭白の楼閣山水図と松竹梅図があったんです」

重要文化財なので、現在元絵は栗東の博物館にあるというが、その写真を見せてもらうと、楼閣山水図と松竹梅図は画風が異なり、上段の間には蕭白の絵にしては落ちついた風景が、裏側には蕭白らしい勢いある松が描かれている。玄関から書院に足を踏み入れた大名は、迫力に満ちた松竹の襖絵で仕切られた上段の間に通されると、室内では穏やかな山水図を前に旅の疲れを癒やしたということなのだろう。

蕭白は京都の商家の生まれだが、伊勢に何度か足を運んでいる。これらの襖絵は旅の途中立ち寄ったとき、代金を支払う代わりに描いていったということだが、門の奥にこれほどの書院があるとは思ってもいなかった。

「庭をご覧ください」

その声に導かれ、上段の間から庭に目を向けてみる。池の奥には小高い築山、手前にはきれいに刈り込まれた皐と石が点々と配され、低く抑えられた生け垣越しに、遠く日向にっこう山が望める。国の名勝に指定されているこの庭は、小堀遠州の作と言われているらしい。

遠州といえば水口城の普請にあたった関係か、水口の大池寺も遠州作と言われている。水口城も大池寺も、寛永年間に造られたとされる。和中散の建物が建てられたのもそのころなので、水口への途中ここに立ち寄り、作庭した可能性はあるだろう。本来は回遊式の庭園で、築山に登ると三上山が見えるというから、まさにこれはこの土地のシンボルを取り込み、その自然風景を凝縮したような庭だ。

そういえばこのこじんまりとした優しい感じは、三上山に似ている。遠州ならその土地の象徴にイメージを重ねつつ、それを取り込む景色を造る技術は十分持ち合わせていたはずだが、あいにく想像の域を出ない。

一通り説明を聞き終えると、満ち足りた思いでもう一度庭に目をやった。復元ではない当時のままの建物が醸し出す街道沿いの雰囲気、建物内の調度品、書院の庭、そしてそれらを受け継ぎ語り伝えている大角家の人たち……。旧東海道で残っていてほしいと思うすべてが、ここにある。

東海道の旅も残すところあとわずか。決して楽な旅ではなかっただけに、喜びはひとしおだ。もし仮に、西から東へと歩いていたとしたら、いまのような気持ちにはならなかっただろう。一期一会。いまこの瞬間に、感謝の気持ちがわき上がった。

 

草津は中山道と東海道が分岐合流する追分に作られた宿場で、江戸時代の姿を留めた本陣が残っている。何とかこの日のうち見学しておきたいと、残りの道を急いだが、二十キロ以上歩き続けた一日の最後に、早足で歩くには無理があったようで、旧草津川に沿った旧道に入ったころ、突然脚全体がかつて経験のない痛みに襲われた。これまでどんなに歩いても、筋肉痛になったことがなかったのに、なぜここに来て…。脚が前に出ないという前代未聞の出来事を前に一瞬呆然となったが、周りに助けてくれる人もなし、こういうときに出るのが火事場の馬鹿力。その後どうやって歩いたのかは覚えていないが、気づいたときには、閉館間際の本陣前に立っていた。

 

 

 

*写真ページ旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

 

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