連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

大津

前日経験のない筋肉痛に襲われ、果たして最終日予定通り歩けるだろうかと不安な気持ちで一夜を過ごしたが、ありったけの湿布を貼って寝たのが功を奏したようで、朝起きてみると痛みが消えていたのだから、こんなありがたいことはない。

気を引き締め、早朝草津を発ったが、最初は少し慎重になったのと、またいつもの癖で寄り道をいくつかしたせいで、瀬田の唐橋に着いたのはもう昼近いころだった。

琵琶湖南端から流れ出る唯一の河川、瀬田川に架かるのが唐橋。橋の上から北に目をやると、どこまでも湖が続いているように見える。水面は空より青く、国道一号線の白い橋のはるか先には、淡い灰色をした湖西の山々が連なっている。

南に目を転じると、そちらの水面は瀬田川。コンクリートの橋の上を新幹線が猛スピードで走り抜けていく。そのすぐ南には名神高速の橋もある。

瀬田川は琵琶湖を出ると、しばらくそのまま南下した後、西に向きを変え、蛇行を繰り返しながら宇治川と名を変え、最後は淀川に合流し大阪湾に注ぐが、唐橋付近から見るとこの川は東と西を分断する存在に思える。逆に橋は東西を繋ぐ存在で、かつて瀬田川に架かる橋は瀬田の唐橋だけだったが、現在はこれだけの橋が東西を繋いでいる。ちなみにここからでは見えないが、国道一号線の橋からさらに二百メートルほど北には、JRの鉄橋も架かっているので、橋の数でいうと五つあることになる。

瀬田の唐橋が瀬田川に架かる唯一の橋だった時代に比べると、瀬田川を越えることの意味はかなり薄れているが、思い返せば唐橋は歴史上さまざまな境界になり、多くの歴史的事件に登場している。

天武元年(六七二)壬申の乱の際、東から攻める大海人皇子軍と大津京を守る大友皇子軍が激突したのも、この唐橋の上だった。

天平宝字八年(七六四)恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱では、孝謙天皇の軍に追われ平城京を脱した恵美押勝の行く手を阻むため、先回りして瀬田の唐橋が焼き落とされた。

平安時代の末には、木曽義仲追討の命を受けた源範頼が、義仲の忠臣今井四郎兼平と唐橋を挟んで交戦。

鎌倉時代の承久の乱(一二二一)では、朝廷の復権を目指す後鳥羽上皇が時の執権北条義時と唐橋で戦を交えたというように、瀬田の唐橋は数々の攻防戦の舞台になってきた。 これは瀬田の唐橋が交通の要衝であることに加え、ここを守ることが畿内を守ることに繋がるという、軍事的な境界でもあったからだろう。

現在は、唐橋が東西の境界になっているという感覚はないに等しいが、交通の要衝ということだけは変わらないようで、橋を走り抜ける車は列をなし、途切れることがない。
唐橋を渡り、琵琶湖の西岸に沿って北に向かうと、いよいよ大津である。大津には戦国時代、秀吉が浅井長政に築かせた大津城があったが、関ヶ原の戦を制した家康は、戦の翌年大津城を廃し、湖岸に膳所城を築いた。膳所は唐橋に近い。家康も、この橋を重視していたのだろう。

膳所城は現存しないが、膳所に入ると街道が幾度も折れ曲がっていたり、寺社の門などに城の建物の一部が使われていたりと、城の名残がそこかしこに感じられる。

 

 

ときおり連子格子の家が残る膳所を歩いていると、左手に義仲寺が見えてくる。義仲寺は、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾の巴御前が墓所近くに草庵を結んだことに始まる寺で、江戸時代大津の風光を気に入った松尾芭蕉が滞在したことでも知られる。芭蕉はよほどこの地が気に入ったらしく、死後は義仲寺に葬るよう遺言したことから、境内には義仲の墓と並んで芭蕉の墓もある。早速小さな門をくぐった。

深紅の紅葉が境内を包み込むように枝葉を垂れ、その奥に茅葺きの草庵が顔をのぞかせている。こぢんまりとした境内。すぐに芭蕉の墓に目が留まる。

木曽殿と背中合わせの寒さかな

門人島崎又玄(ゆうげん)が、念願かなって義仲の隣に眠る芭蕉の墓前で詠んだこの句が、脳裏を過ぎる。

義仲と芭蕉では、生きた時代が五百年近く隔たっている。しかも義仲が命を落としたのは三十一歳のときで、五十歳近くまで生きた芭蕉とは年齢的にも隔たりがある。

芭蕉はどのような思いで、死後義仲の墓の隣に眠りたいと言い残したのだろう。

芭蕉の心中に思い巡らせながら、墓前で手を合わせていると、境内奥から六十代ぐらいの男性がゆっくりと近づいてきた。

「良い寺でしょう」

「そうですね。よく来られるんですか」

「近くなもんでね」

聞けばその人は義仲のファンらしく、この近くに今井兼平の墓もあるので、日々の散歩コースになっているという。

「唐橋を渡ってきたんですけど、唐橋も義仲と平氏の戦の舞台だったんですよね」

「ええ、でも最期は粟津です。義仲軍はついに兼平と義仲の二人だけになってしまって、もういよいよだめだというので、義仲は兼平を助けようと、覚悟を決めて敵中に入っていったら、馬が脚を取られて動けなくなってしまった。そこを討たれたんです。兼平もそこで自害しました。だからこの辺は、木曽源氏終焉の地ですわ」

その人は一息つくと、木曾義仲の墓に目をやった。

「芭蕉はなんでここを選んだんでしょうね」
赤や黄色の紅葉が池に舞い落ちる様子を見ながら、ぽつりそう言うと、その人はまた口を開いた。

「義仲への憧れというか、尊敬する気持ちが強かったのと違いますか。義仲は子供時代苦労したけど、二十歳そこそこで旗揚げして平氏を打ち倒した。なのにまたすぐに討ち取られ、若死にしてしまったでしょう。その無常感が芭蕉の胸に響いたんだろうと思いますわ」

「大津の風景が気に入っていた、ということもあるでしょうか」

「それもありますやろね。石山寺の西の山に、幻住庵というのを建てて、そこに四ヶ月ぐらい滞在したこともありますわ。琵琶湖は海みたいに広いけど、海と違うて荒々しさがないでしょう。朝と晩では色が違うし、周りには山もあるから、そりゃ好きになりますよ」

大津周辺には、近江八景に選ばれた風景が集まっているが、琵琶湖のある風景なら八景ならずともイメージの源泉になっただろう。

「この後はどちらまで」

「大津宿の名残を見て、京都三条大橋まで」

「そうでっか。気い付けて。余計なことやけど、大津には宿場時代のものは何もないんですわ。おまけに残ってた町屋が、高度成長期にぎょうさん建て替えられてしまいましてね。大津百町って言われてたのに、その地名もなくなってしもうて」

江戸時代の大津は宿場町として規模が大きかったばかりか、城下町でもあり湊町でもありと、多彩な顔を持つ町だった。湖岸には年貢米を保管する蔵や諸藩の蔵屋敷が建ち並び、日本海側からの年貢米や諸物資は琵琶湖の船運を利用して大津港へと集められ、そこから京都や大坂へと運ばれた。そうした当時の繁栄ぶりが、百町に現れていたはずだが……。

行く春を 近江の人と 惜しみける 芭蕉

「行く春」を「変わりゆく大津」とすると、いまの気持ちにしっくりくる。

義仲寺を出ると、一路大津宿に向かった。

 

 

 

 

*写真ページ旧東海道のひとこまも更新しましたので、どうぞご覧くださいませ。

 

 

 

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