連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

京都三条大橋(一)

大津の本陣跡から南に六百メートルほど行くと、東から来た国道一号線と合流し、いよいよ逢坂峠へと入っていくが、その手前に関蝉丸神社を見つけ、お詣りに立ち寄ることにした。

関蝉丸神社の石標に並び、音曲藝道祖神と刻まれた石標が建っているように、ここは琵琶の名手で知られた盲目の歌人蝉丸を関明神としてお祀りする神社だ。

蝉丸といえば「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」という百人一首にも入っている有名な歌が思い浮かぶ。子供時代、正月というと毎年家族で百人一首のカルタ取りに興じたものだが、蝉丸のこの歌は子供心にもそのリズム感が心地よく、お気に入りの一首だった。子供の私にこの歌の意味などわかろうはずもない。逢坂峠というところを、人々が行ったり来たりするのだという程度の認識だったが、『今昔物語集』や謡曲『蝉丸』の話を知るようになると、この歌は逢坂峠という場所の秘された一面を垣間見させてくれる、実に示唆に富んだものに思えてくる。

そもそも蝉丸についてはわからないことが多い。平安時代宇多天皇の皇子敦実親王の雑色だったとか、醍醐天皇の第四皇子だったとか、『後撰集』の詞書によれば逢坂の関に庵を営んでいた隠者だったというが、琵琶の名手だったことは確かなようで、そのことが物語に取り上げられる一つのきっかけになったのだろう。

逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の名人であると聞いた源博雅が、自身も管弦の名人だったことから、何とか蝉丸の奏でる琵琶を聞きたいと三年間逢坂に通い続けた末、ようやく琵琶の秘曲を伝授されたというのが『今昔物語集』の話で、謡曲『蝉丸』はこれをもとにさらに脚色を加えて描かれている。そちらでは蝉丸は延喜帝(醍醐天皇)第四皇子という設定で、目が見えないことから僧形にされ逢坂山に捨てられてしまう。そこへやってきたのが狂人となり放浪していた姉の逆髪の宮で、二人は偶然の再会に喜びつつも互いの宿命と世の無情を嘆き合い、姉はまた去っていくという展開だ。

蝉丸が高貴な身分の出であったにせよそうでなかったにせよ、盲目で琵琶の名手だった彼が逢坂峠と結びつくところに、逢坂峠の実態があるように思う。

逢坂峠が畿内と畿外との境界に当たることは言うまでもない。その前ぶれは瀬田の唐橋にあったが、逢坂峠こそ押しも押されぬ境界で、とくに都人にとってこの峠を越えることは都を捨てるに等しく、現在の私などには想像もつかない不安や恐れがつきまとっていただろう。そのため峠には峠の神が祀られた。逢坂山が手向山と呼ばれもするのはそのためで、これからお詣りしようとしている関蝉丸神社も峠の神に発する神社なのだろう。

いずれにせよ、目が見えないために蝉丸が逢坂峠に捨てられたという謡曲の話は、当時高貴な身分の家で行われていた障碍のある子供を都から辺境の地に隠すという習慣を示唆するもので、そういう舞台に選ばれるイメージがこの峠にはあったのだ。
ここに限らないが、峠や関所には、多くの旅芸人がたむろしたと言われる。そのことも琵琶の名手蝉丸が逢坂峠と結びつく一因になった。

蝉丸が逢坂峠付近で琵琶を奏でる無名の法師だったとすれば、その出自について不明な点が多いのも当然という気がするが、何にせよ峠から聞こえてくる美しい琵琶の音色が、この峠を越える数多の旅人たちの心を慰めたことは事実だろう。

薄暗い峠を歩いているとどこからともなく琵琶の調べが聞こえてくる…。

その情景を思い浮かべると、私までどこかもの悲しい幽玄の世界に引き込まれそうになる。

  

京阪電車の線路を越えると、踏切の目の前に鳥居が立っている。踏切を渡ったとたんすぐに神社の境内とは、神様もさぞや騒音に悩まされているだろうと思うが、ひとたび境内に足を踏み入れると、瞬く間に外界から切り離され、身の引き締まるような森々とした空気に身が引きしまる思いがする。実際すぐ背後には山が迫っている。逢坂峠はまだ先だが、これが逢坂山らしい。

社伝によると嵯峨天皇の弘仁十三年(八二二)、小野岑守(みねもり)が坂の神として逢坂山の山上に猿田彦命を、山麓に豊玉姫命をお祀りしたのに始まり、円融天皇(在位九六九~九八四)の代に蝉丸を合祀したというから、やはり元々は峠の神をお祀りする神社だったのだ。ちなみに山上の方を上社、麓の方を下社と呼び、今私がいるのは下社になる。それが鎌倉時代、鴨長明が「逢坂の關の明神と申すは、昔の蝉丸なり。彼の藁屋の跡を失はずして、そこに神と成りてすみ給ふなるべし。」と『無名抄』に記しているように、いつしか蝉丸が関明神ということになってしまった。

朽ちかけた檜皮葺の拝殿に近づくと、音楽や和歌の上達を願う絵馬が重なるように奉納されている。私も二、三十年前なら迷わず音楽の上達を願っただろうが、今は本来の峠の神に祈りを捧げよう。この先残り少なくなった旅路の安全を願い手を合わせ、再び歩き出した。

 

 

 

程なく国道一号線に合流、二つの国道が合わさった逢坂峠への道は、先ほどよりも交通量が増え、ひっきりなしに車が走り抜けていく。関蟬丸神社の上社を過ぎるころから、勾配が感じられるようになるが、山を掘り下げて造られた国道に、かつての峠越えのような険しさはない。

道の両側には高いコンクリートの壁。車の騒音が、その壁に反響するかのように辺りに渦巻いている。やがてその壁が途切れ、道が平坦になる。どうやら逢坂峠に着いたようで、見ると道の右側に逢坂山関址と刻まれた石碑と常夜燈が並んでいるが、苦心して上った実感がないままやってきた逢坂峠は、そこが交通の激しい国道一号線ということもあって実感が薄い。付近にあったという逢坂関も、確かな場所はわからない。

  

一瞬足を留め、すぐに逢坂峠の西に歩き出した。峠の先で旧道が復活しているのは幸いで、歩調を緩めて歩いていると、右手に蝉丸神社が見えてきた。それほど間隔を置かずに、三つ目の蝉丸神社である。

ここ大谷の蝉丸神社は先にお詣りに立ち寄った関蟬丸神社の下社と上社の分社で、創建は前者より百年以上遅い天慶九年(九四六)、蝉丸を主祭神とし、猿田彦命と豊玉姫命は合祀された形になっているというから興味深い。

天慶九年(九四六)といえば、関蟬丸神社の御祭神に蟬丸が合祀された時代に近い。大谷の蟬丸神社が関蟬丸神社のような変遷を経ず、いきなり蟬丸を主祭神としてお祀りしているということから、すでにその時代蟬丸が逢坂峠と切っても切れない関係になっていたということがよくわかるが、こうも立て続けに蟬丸神社が現れると、改めて蟬丸と逢坂峠との結びつきの強さを見せつけられた思いがする。

歌の持つ力だけでも蝉丸は十分後世に名を残しているが、このように逢坂峠に深く食い込んでいるその存在は不滅といってよい。蝉丸の背後には、逢坂峠を越えた数え切れないほどの無名の旅芸人の存在も感じられる。蝉丸が逢坂峠にその名を永遠に刻んだことで、無名のまま社会の表に出ることなく陰で生き闇に消えていった人たちの存在も、同時に永遠にそこに刻まれたことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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