連載 紀行エッセイ「歩いて旅した東海道」

京都三条大橋(二)

三つ目の蝉丸神社のお詣りを済ませると、その後しばらくの間名神高速と京阪電車と国道一号線が束ねられたような交通の大動脈を進んだ。三十分ほど排気ガスにまみれながら歩くとまた旧道が復活しいよいよ京都市に入るが、すぐに道は二股に分かれる。そこに「みぎハ京ミち ひ多りハふしミみち」と刻まれた道標。そこは東海道と伏見道との追分だった。

京都三条大橋を目指す私はこの先「京ミち」とある右の道を行くことになるが、実は左の伏見道も東海道だ。伏見道はその名の通り京都の伏見に通じる道で京街道とも呼ばれるが、終着点は伏見ではなく大坂の高麗橋。元は秀吉が伏見城と大坂城を最短距離で結ぶため、淀川左岸に築かせた文禄堤と称する大堤防に始まるが、江戸時代に西国諸大名が朝廷に接触することを警戒した家康が、伏見道を整備して道中奉行の管轄下に置き、伏見、淀、枚方、守口に宿場を設けた。そのことから、江戸時代の東海道と言ったときにはむしろこちらの道が東海道で、東海道は五十三次ではなく五十七次だったというべきかもしれない。

今その追分に立ち、大坂に通じる道を見ていると、間もなく終わってしまう旅の名残惜しさもあって、左の道を行く誘惑に駆られるが、東海道は江戸時代に限らず有史以前からの長大な時間が堆積した道で、特に平安京に都が置かれてから伊勢を含めた東国を結ぶ道として、大きな役割を果たしたことを思うと、やはりこの道は江戸と京都を結ぶ道であることが相応しいように思える。伏見道は姫街道や佐屋街道といった脇街道の位置づけで考えるべきだろうと迷いが吹っ切れたところで、当初の予定通り京都に向かう右の道を歩き出した。

 

ところで追分の少し手前で京都市に入ったが、もう少し詳しくいうと、そこは京都市の山科区だ。山科というのは京都のようでまだ京都ではないような、中間色を湛えたところだとかねがね思ってきた。南以外を山に囲まれた盆地で、山科と京都の間には東山が連なっている。そのため地理的には山科はまだ洛内とは呼べず、事実生粋の京都人は山科を京都と思っていないようだが、ガイドなどでは洛東といったとき東山の西麓までを指すこともあれば、山科まで含めることもあるように、人によって判断の分かれるところだ。それは逆に京都とは何かということでもある。今ここでその難問に深入りすることはできないが、古代から山科の地に御所や離宮が造られた歴史を振り返ると、山科は政治的に洛内だったと考えてもよいように思う。

山科は何より、大化の改新で中大兄皇子(後の天智天皇)の腹心として蘇我氏を倒した中臣鎌足が館を構えた土地で、天智天皇の時代飛鳥から大津に遷都することになったのも、山科に近い大津の重要性を熟知していた鎌足の導きによるところが大きいとされている。またそれに先立ち、天智天皇の母にあたる斉明天皇も山科に御所を設けていたと言われるし、平安時代の末には後白河上皇による山科御所と呼ばれる別荘も造られているように、山科は京都に都が置かれる以前から天皇家と縁の深い土地だった。

三方を山に囲まれ自然豊かな山科は、隠棲するにはもってこいの場所だが、交通の要衝だったので完全に周囲から隔離されてしまうことはなく、東海道などを通じて様々な情報を得ることができた。

 

 

 

そんな山科の四宮を歩いていると、徳林庵の地蔵堂前にやってきた。塀がないので、気がつけば境内に足を踏み入れている。きれいに整備されてはいるが六角堂が醸す雰囲気からだろうか、歴史ある地蔵堂に感じられ、この先残り少なくなった旅路の安全を願い手を合わせ顔を上げると、御由緒に眼が留まった。それによるとこの地蔵堂は後白河法皇の時代、都への出入口に当たる六カ所の街道筋に、都の守護や往来の安全を願って置かれたことに始まる、いわゆる六地蔵の一つで、ここにお祀りされているお地蔵様は仁寿二年(八五二)小野篁によって造られたものらしい。

まさに山科が都との境界として捉えられていたことを教えてくれる話だが、それ以上に私の関心を惹いたのは、この徳林庵を開いた南禅寺第二六〇世雲英正怡(しようい)禅師が、仁明天皇の第四皇子人康(さねやす)親王の末葉にあたるということだった。

人康親王は高熱のために失明して宮中を追われ、山科御所に隠棲し出家して法性と号されたと伝わる方で、『伊勢物語』第七十八段に描かれている「山科の禅師の親王」は人康親王のことと言われる。

琵琶の名手だったことから、江戸時代には座頭や琵琶法師たちの祖と崇められたり、守護神として信仰されたりしたらしいが、人康親王の話は蝉丸の出自について言われている話とそっくりだ。そう思っていると、境内の片隅に立つ供養塔の脇石に「人康親王 蝉丸 供養塔」と刻まれているではないか。

どうやらここでは蝉丸は人康親王と同一視されているらしい。

ちなみに地名の四宮は、人康親王が仁明天皇の第四皇子だったことに由来する。蟬丸にも醍醐天皇の第四皇子だったという説もあるので、何か因縁を感じる。

都により近い山科では、峠と関わりの深い蝉丸よりも人康親王に纏わる伝説の方が色濃いようで、徳林庵から北に三百メートルほどの山裾に鎮座する諸羽神社は親王の山荘跡と伝わるし、ここからすぐ近くにある十禅寺には親王の像が安置されている。そちらにも足を延ばしたいところだが、日没までもう一時間ほどしかない。逢坂峠の東から旅を共にしてきた蟬丸ともここでお別れだ。

名残惜しい気持ちで来た道を振り返ると、空に虹を見つけた。その虹は、逢坂山方面から私のいる山科の方に向かって半分ほど弧を描いたところで薄くなり、空に溶け込んでいったが、旅の終盤、何と嬉しい天からの贈りだろう。逢坂峠を越え、山科を過ぎ、いよいよ洛内に入ろうとしている私にとって、その虹はまさにゴールへの架け橋に思えた。

 

 

虹の出現にすっかり気をよくし、その後天智天皇陵を経て蹴上目指して北西方向に歩いていったが、終着点を目前にどういうわけか体内磁石が狂ってしまい、その後三十分以上御陵や日ノ岡の町を彷徨うことになった。何人もの人に道を尋ねても埒があかず、次第に辺りも薄暗くなってきて、しまいにはカメラのバッテリーも点滅し始める始末。旧道を見失い結局また天智天皇陵のところに戻ってきたので、その後は仕方なく三条通りの坂を上っていったが、江戸時代日ノ岡には粟田口処刑場があったというから、ひょっとして何者かに弄ばれたのかもしれない。

一目散に坂を駆け上がったおかげで、あっという間に京都の町。日没を迎えた三条通りは街灯に照らされ、向こうから来る車のヘッドライトに眼が眩む。左の路地に眼をやると、青蓮院の大楠が暗くなった空を漆黒に染めている。東山三条の交差点を過ぎると建物が高くなり、人通りも車の往来も多くなっていく。

京都の賑やかな夜はすでに始まっていた。その人の波をかき分けるように進み、ついに雑踏の先に青銅色の擬宝珠を捉えた私は、信号が青になると真っ先に群衆から飛び出し三条大橋に駆け寄った。

待ち合わせ場所にもなっている三条大橋の袂には人だまりができ、橋の上を歩く人も車も絶えることがない。これまでに、一体この橋を何人の人が渡ったのだろう。ここでどんなことがあったのだろう。考えるだけで目眩がしてくるが、この橋の歴史は、日本橋の比ではない。京の都の歴史と共にこの橋はある。

そもそも東海道は、千年の都から東に向かう人の流れによって固められていった道とも言える。ならば今度は京都から歩いてみよう。それによって、往路では見えなかった風景に出会えるかもしれない。

晴天の下、再び京都三条大橋に立ったのは、その一週間後のことだった。

 

 

 

 

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