古社寺風景

大聖観音寺

日本に正式に仏教が伝わったのは六世紀とされています。欽明天皇十三年に百済の聖明王が仏像や経典、上表文を献上したと『日本書紀』にあり、それを仏教公伝としています。欽明天皇十三年は五五二年ですが、百済の聖明王から仏像などが伝わった年を『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起 ならびに流記資財帳』では五三八年(欽明天皇の一代前、宣化天皇の時代)としています。『日本書紀』に記されている上表文中の文言が後世のものであることから、記述全体の信憑性を疑う説もあり、五三八年の方を取る説のほうが優勢のようです。

先日投稿した大依羅おおよさみ神社から北西におよそ一キロの住吉区我孫子に大聖だいしょう観音寺というお寺があります。地元ではあびこ観音として親しまれているように、観音菩薩を御本尊としていますが、草創の際お祀りされた観音菩薩もまた、百済の聖明王から贈られたものと伝わっています。

実はこのお寺、明治時代に火災で灰燼に帰してしまい、古文書などが残っていませんが、ご住職と関係者の方たちのご努力で創建由来を一冊に纏められました。『吾彦山大聖観音寺寺歴 第一部』(昭和四十五年)という本で、運良く手に入れることができましたので、それを元に大聖観音寺の観音菩薩の辿った歴史をご紹介することにします。

欽明天皇七年(五四六)、百済に派遣されていた膳臣かしわでのおみ巴提便はすひが僧を伴い一寸八分の聖観音像と共に帰朝し、依網屯倉に近い当地に草庵を作って安置されたのがこの寺の始まりとのこと。仏教公伝が五三八年とすると、それから八年後ということになります。膳臣巴提便は膳という字からもわかるように天皇の御供に奉仕した膳氏かしわでのうじで、巴提便については欽明朝の時代百済に派遣された際、自分の子供を虎に食べられてしまい、報復に虎を退治し皮を剥いで還ってきたという虎退治の武勇伝が『日本書紀』に記されています。

それはともかく、百済から伝わったという観音像は一寸八分、五、五センチほどですからとても小さな像で、任那領内に祀られていた由緒ある聖観音像の胎内仏だったものだそうです。依網池の造営は朝鮮半島からの渡来人の技術や労働力に大いに助けられています。当地にもたらされた観音像は、そうした渡来人たちにまず受け容れられたようですが、中央では蘇我氏と物部氏の間で仏教受容に関して衝突が起こり、物部氏によって仏像や仏具などが難波の堀江に流されたり、仏殿が焼かれたりと仏教に対する迫害が起こりました。我孫子は物部氏の拠点に近かったこともあり、何者かが観音像を安全な場所に匿ったことで無事でしたが、しばらく行方がわからず、やがて物部氏が滅び仏教隆盛の時代になると、当地に勢力を張っていた依網氏らが、行方知らずの観音像が元々納められていた一尺八寸(約六十八センチ)の聖観音像を、戦乱に明け暮れていた百済から我孫子へ運び、草庵に安置したとのことです。

時代下って七世紀推古天皇の時代には、聖徳太子が当地を訪れています。太子が丘にさしかかると、一筋の光が草庵に降り注いでいる、それに驚いた太子は草庵に向かい、安置されている観音像を眼にします。観音像の由来を知った太子はここは観音霊場に相応しいと伽藍を創建させ、推古天皇二十六年(六一八)、開眼法要が営まれたそうです。それが寺としての創建由来で、当初は大聖寺といいましたが、後に大聖観音寺に改められました。

大聖観音寺は八世紀聖武天皇の時代にも逸話を残しています。聖武天皇が難波宮で病にかかった際、都の南西山中にある滝に棲む竜王が観音像を持っており、それを宮中に安置祈願すると厄難が去るだろうと易者に助言されたことから行基が派遣されます。行基は和泉国水間で霊瀑を見つけ、三日三晩そこで祈りを捧げた結果、竜王が一寸八分の聖観音を手に現れ、それを行基に授けたのだそうです。行基はその観音像を天皇の元に持ち帰り祈りを捧げたところ、天皇はたちまち快復された。そこで天皇は行基に命じ、竜王が出現した場所に聖観音を安置する伽藍を造らせたということで、大阪府貝塚市にある水間寺の創建由来にもなっています。

水間寺は戦国時代の戦禍で灰燼に帰したことから、観音像は高野山小田原谷の聖無動院に遷され時を経ますが、天正年間に小田原から逃れてきた北条氏直の重臣が朝晩その観音像に祈りを捧げたところ、夢枕に観音像が現れて身の上を語り、われを我孫子の地に還らせてほしいと告げられ、高野山を下りたとのこと。こうして千年近い時を経て、聖観音像は我孫子に戻られたのです。ちなみにそのとき観音像を我孫子に戻した北條氏直の元重臣は、得度を受け快敬という法名でしたが、大聖観音寺の法主となって寺の興隆に努めたそうです。

 

ちなみに快敬は若いころ駿河の今川義元に仕えており、今川家の人質だった竹千代(後の徳川家康)に同情し親身に世話をしたのだとか。それから六十五年近い歳月を経た慶長二十年(一六一五)、大阪の陣で徳川方が真田勢に攻められた際、家康は虎口を脱し南へと逃れたのですが、逃げ込んだ寺にいたのが幼少時世話になった快敬でした。再会を喜ぶや快敬は瞬時に家康を須弥壇に匿い、そのおかげで難を逃れることができたことから、家康は天下平定の日まで御本尊を守護仏として借りたいと申し出ます。家康は数奇な運命を辿ってきた観音像を懐に入れて戦に戻り、大阪城は落城しました。家康はその恩から、寺領の拡張と堂宇の増築を命じ、観音像は引き続き江戸幕府の守護として江戸赤羽根の円明院にお祀りされました。観音像が我孫子に戻ってきたのは、家康亡き後の寛永十七年(一六四〇)。以来大聖観音寺の御本尊としてお祀りされています。

 

このように伝承では、最初に当地に観音像が伝わったのは仏教公伝とそう変わらない時代で、公伝同様に百済の聖明王から贈られたものということですが、実際には物部氏が滅ぼされた後依網氏が百済から聖観音をもたらしたという伝承が当時の起源なのではないかという気がします。

また御由緒に名を連ねる聖徳太子や行基の名は、ここに限らず各地の古寺の御由緒に絡んで登場します。その多くは後世の創作かもしれませんが、当寺に聖徳太子や行基の逸話が伝えられているのは、あびこ観音と我孫子の地が担ってきた役割の大きさの現れでもあるように思います。

 

 

このように古い歴史を擁するお寺ですが、先に触れたように明治時代の火災で灰燼に帰したことから、現在の建物はそれ以後のものです。その中で、当時の歴史を最もよく知るのが、境内にそびえる楠です。樹齢八百年とも言われますので、家康が逃げ込んできたときには既に存在していた可能性があります。

 

 

古代、我孫子は半島のように北に向かって延びる上町台地の付け根部分の西側に位置し、海はすぐそこでした。住吉大社の辺りに住吉津がありましたので、そこから上陸した人や物が真っ先に通過するのが我孫子の地だったことになります。現代の風景の中に古代を思い描くのは楽しいものです。折を見て、周辺を訪ね歩いてみたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

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