古社寺風景

天照大神高座神社

大阪と奈良の境界に聳える生駒山は古来信仰の山で、山上はもとより山麓各地に様々な信仰が根付いています。以前投稿した宝山寺石切さんはその最たるものですが、先日思いがけずお詣りすることになった天照大神高坐神社も、規模は小さいながらも、生駒山に根付く多彩な信仰の一端を垣間見せてくれるものでした。

生駒山を主峰とする生駒山系は京都府八幡市の男山から大和川まで、南北三十五キロに及ぶなだらかな山地です。生駒山の標高は六四二メートル、その南に標高五百メートルに満たない高安山や信貴山があります。信貴山といえば朝護孫子寺。このお寺も生駒山の多彩な信仰を伝える一つで、実は初めここに行こうと信貴山口駅で下車したのですが、地図を見ていたら式内社・天照大神高座あまてらすおおみかみたかくら神社と河内国二宮の恩智神社を見つけ、そちらが気になってしまったのです。

気になった一番の理由は、社名に天照大神を冠していることです。調べてみると、この神社の御祭神は天照大神に加え高皇産霊神たかみむすひのかみの二柱とわかりました。高皇産霊大神は、記紀神話において世界が天と地に分かれたとき、天上の高の原で天御中主神あまのみなかぬしのかみに続く二番目に生まれた神とされ、高木神とも記されます。どうもここは高天原に縁の神々がお祀りされている神社のようですが、それがなぜここにという関心が湧いてきます。朝護孫子寺へは信貴山口駅からケーブルとバスを乗り継いで行くことになり時間もかかりますので、別の機会に訪れることにして、天照大神高座神社を目指しました。

駅の改札を出ると、すぐ東に山が迫っています。神社までは山麓沿いの道を歩くことになり、進行方向右手、つまり西には広大な大阪平野が拡がっていますが、古代人が目にしたのは平野ではなく広大な河内湖でした。逆に大阪湾から上陸した人は、すぐ先に生駒山地が屏風のように連なる光景を目にしました。一見どうということのない風景ですが、ここが河内国と大和国の境界に近い場所だけに、古代人の歩みや視線に関心が向きます。

天照大神高座神社が鎮座しているのは、高安山の南東側中腹です。

『日本書紀』によると、七世紀の後半、白村江の戦いに敗れた倭国は、唐・新羅連合軍に攻められる危機にあったことから、筑紫国の基肄城きいのきや対馬国の金田城かなたのきなどと共に、高安山にも高安城たかやすのきを築きました。大阪湾と大和盆地を一望できる高安山は、王城の地飛鳥を守るための最後の砦を築くのに最適だったのです。高安城は大宝元年(七〇一)に廃城となり、以後位置や規模など不明なまま幻の城として千三百年近くが経過しました。昭和五十三年に市民グループによって倉庫跡と思われる礎石が発見され、後の本格的な調査でそれは奈良時代初期のものと判明しましたので、王城鎮護のための山城は依然として幻の城のままですが、この山のどこかにあったのでしょう。

古代において高安山とはそういう山でした。

天照大神高座神社は高安山の中腹にありますので、鳥居から先は上り坂になります。

まとわりつく虫を手で払いのけながら上りの参道を歩いていくと、左に岩戸神社の社号標。現在は天照大神高坐神社の境内末社で、市杵嶋姫命いちきしまひめのみことをお祀りしていることから、岩屋弁財天とも呼ばれます。

 

拝殿が建っているのはこのような岩盤の上。岩戸神社、岩屋弁財天と呼ばれるのも納得です。

 

 

岩戸神社からさらに奥に進んだ突き当たりが天照大神高座神社です。岩戸神社と天照大神高座神社は境界らしい境界もなく、磐山に渾然一体となっている感じがします。

 

鳥居をくぐって石段を上った先に、こちらの拝殿があります。お詣りを済ませ、少し離れたところから拝殿を見ると、拝殿の後方上にも祠が見えます。これが本殿。ここは元々磐を御神体とする原始信仰に始まる神社だったことがよくわかります。

社伝によれば、創建は雄略天皇の時代。伊勢国の高倉山から遷座したことに始まると伝わるそうですが、それを裏付ける史料はなく、天照大神や高座たかくらを社名に冠していることからの伝承と考えたほうがよさそうです。

江戸時代の『河内名所図会』(秋里籬島著)には、「天照大神高座神社  窟弁天いわやべんてん 元、春日戸かすかべ神社と号す。教興寺村東の山窟にありしが、今、弁財天と称して、教興寺の境内に安す。神像あり。弘法大師の作といふ。長七寸。此所の生土神とす。旧跡は山腹にして、巨巌巍々たり。一箇の岩窟を神殿として、前に扉鳥居あり。頗る天岩戸ともいふべき岩窟なり。まことに、神代よりのすがたなるべし」とあるように、これが書かれた当時は教興寺(天照大神高座神社から北西に八百メートルほど)の境内に弁財天がお祀りされ、天照大神高座神社はその奥の院でした。

明治の神仏分離で弁財天は教興寺に、神社は天照大神社と称して分離されたものが、さらに大正時代になって弁財天信仰の場として当地に岩戸神社が創建され、天照大神神社も元の社名である天照大神高座神社に戻されたということのようです。

この辺りの経緯はさておき、平安時代の『延喜式神名帳』にも「河内国高安郡天照大神高座神社ニ座、並大月次新嘗、元号春日戸神」とあるように、元は春日戸神社だったというのが気になります。

大和朝廷は朝鮮半島からの渡来人たちを○○戸として安宿郡や高安郡に住まわせたと言われています。ちなみに安宿は現在の羽曳野市から柏原市にかけての一帯で、いわゆる河内飛鳥とされる地域です。大和岩雄氏によると、春日戸神というのは、この辺りに居住していた春日戸がお祀りしていた神、つまり古代において各豪族が崇拝していた日の神ではないかとのことです。

『河内名所図会』にあるように当社は岩壁にある岩窟をお祀りする神社ですが、ここから西に直線を引いていくと、若干のずれはあるものの、住吉大社を経て淡路島の岩屋神社に至ります。岩屋神社の本来の御神体は明神窟という岩窟だそうで、春分・秋分の日に住吉大社から見ると太陽は当社の洞窟から出て、淡路島の岩屋神社の洞窟に入ります。

また難波宮から見ると、冬至の日の太陽は高安山から昇るのだそうです。日照時間が最も短い冬至は、太陽の死に当たりますが、その日からまた日が延びていきますので、同時にそれは再生でもあります。

こうした立地と太陽の動きの関係からも、当社が日神信仰における重要な場所であったことが推測できます。

なお、天照大神高座神社は延喜式に二座とあることから、天照大神と高座神(天照大神が座す所を意味する高座が神格化されたもの)をお祀りしていたと考えたくなりますが、初めに触れたように、現在の御祭神は天照大神と高皇産霊神です。これは春日戸神としての日神(天照大神)が、いつしか皇祖神としての天照大神に入れ替わったときに当てはめられたのではないかと想像しますが、実際はどうなのでしょうか。

ちなみに、当社の南四百メートルほどのところにある恩智神社でも、境内末社・天川あまかわ神社の御祭神として春日戸神をお祀りしています。この天川神社、元は神社背後の天川山に奥宮としてお祀りされていましたが、明治になって恩智神社境内に遷されたとのこと。現在は本殿玉垣の奥、二柱の神に挟まれるように鎮座していて、小さい社殿ながらここにとって大切な神様であることを示唆しています。

何にせよ、天照大神高座神社は古代の太陽信仰の原点を伝え、古代において倭国発展に大きな力となった渡来系春日戸の存在を記憶に刻む場所なのだなという思いを持ちました。

 

なお、本殿向かいには、このように石碑がずらりと並んでいます。白龍大神、熊野大神、城山大神、北斗七星、不動明王…。渡来系かと思われる神さまもあれば仏像もありで、あらゆる信仰の吹きだまりのようです。生駒周辺らしい、信仰の形がここにもありました。

 

 

 

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