心に留まった風景

上高地(四)岳沢湿原

天気がよかったら明神からさらに足を延ばし徳沢か横尾辺りまで行きたいところですが、雨は一向に止む気配がなく、ここで折り返すことにしました。行きは梓川の左岸を歩いたので、帰りは右岸の道です。こちらは左岸の道に比べると起伏があり、篠突く雨の中足を滑らせないように歩くのが精一杯で、周りの景色に目をやる余裕はありませんでしたが、ときおり立ち止まると林の足下には熊笹が生い茂り、枝の隙間から見える梓川は濁流を巻き上げ波打つように流れていました。木道が目に入ると、ぬかるみに足を取られずに済むとほっとしたのを思い出します。

 

山から流れてくる小川は、これまでに降った雨で勢いを増しています。

 

足下を濡らしながら歩き続けること小一時間ほど。雨はいつの間にか小降りになっていました。そんなとき目に飛び込んできたのは豊かな水を湛えた湿原でした。岳沢湿原です。

岳沢から流れてくる清流と善六沢が合流する辺りにできた湿原です。

 

立ち枯れの木がここではまだ数多く残っています。大正池も昔はこのように立ち枯れの木が水中に林立していました。水面から細い針金が何本も突き出たような独特の光景。実に絵になります。

 

 

 

少しずつ雲が薄れ、六百山が姿を現しました。この山の全貌を望むには、岳沢湿原からが一番のようです。

 

晴れていれば透明な蒼い水に周りの景色が映り込み、それはそれは美しいそうですが、この日のように空や水に蒼さがなくても立ち枯れの木々が創り出す風景は静けさに満ち神秘的でした。

ほぼ雨が止み、光が感じられるようになると、水の透明度も増してきます。湿原の一画の水たまりが、明るくなってきた空を映し出しています。そっと水面をのぞき込むとイワナが泳いでいました。

 

上高地は穂高連峰を望む山岳地帯にありますので、主役は穂高の山々です。その風景は雄大で見る者を圧倒しますが、私にはどちらかというと水が強く印象に残りました。釜トンネルを抜け最初に目にした青緑の梓川に始まり、大正池、田代池、田代湿原、清水川、明神池、岳沢湿原、名も無い小さな清流や水たまり、そして二日目の降りしきる雨…。天から降る雨が山に蓄えられ、それが集まって川となり、湿原も生み出すという自然の循環をここで目の当たりにし、水があることで美しさと清らかさを増した風景が、ときに神々しさを湛え、忘れ得ぬ光景を目に前にいくつも残してくれたためです。

考えてみれば、上高地は水に縁の深い土地で、ここには壮大な水の記憶があります。一万二千年前の縄文時代早期、焼岳火山群の一つ白谷山の噴火によって古梓川の水が堰き止められ突如巨大な湖(古上高地湖)が生まれ、その湖は六千年もの間豊かに水を湛えていたのです。古上高地湖は現在の釜トンネル付近から徳沢付近まで拡がっていたといいますから、いま私たちが上高地を訪れ散策している場所はすべて湖だったことになります。それが今から五~六千年前の縄文時代前期、地震によって流出口が決壊し、巨大洪水となって現在の安曇野市豊科や松本市梓方面に流れ出し、古上高地湖の水は突如として消えました。一瞬にして現れた大量の水がまた一瞬にして消えた後、そこに現れたのは田代湿原のような平坦な土地でした。その辺りは長い歳月を経た大正時代に再び焼岳噴火によって変化し、(二)で触れたように大正池や田代池を生みました。

上高地にいると、目の前の美しい風景が地球の底知れぬ力によって生み出されたものであるということを強く感じます。上高地に惹かれるのは、壮大な国土生成の記憶があちらこちらに湧出しているからかもしれません。

 

足下にシロバナエンレイソウ(ミヤマエンレイソウ)を見つけました。花が咲くまで十年ほどかかり、寿命も十五年近くあるようです。この花にあやかり、健康寿命を少し延ばすことができたら、上高地をまた訪れたいと思っています。

 

 

 

関連記事

  1. 心に留まった風景

    一蓮托生

    私は関西に住んでいますが、父は東京の人でしたので、いままさに新盆です。…

  2. 心に留まった風景

    醍醐寺の桜

    今年は例年になく桜の開花が早く、桜前線はすでに東北に至っています。梅の…

  3. 心に留まった風景

    錦市場

    二〇一七年も残すところあと一日となりました。京都の錦市場もお正…

  4. 心に留まった風景

    松花堂

    寛永の三筆の一人として知られる松花堂昭乗(他は本阿弥光悦と近衛信伊)。…

  5. 心に留まった風景

    正倉院展

    毎年恒例の正倉院展が、奈良の国立博物館で始まりました。正倉は奈…

  6. 心に留まった風景

    上高地(三)明神池、穂高神社奥宮

    この日は朝から一日雨の予報でした。前日までは予報が外れるといいのにと期…

最近の記事

連載記事

  1. 登録されている記事はございません。

アーカイブ

  1. 歴史散歩

    安満宮山古墳
  2. 祭祀風景

    伏見稲荷 火焚祭
  3. 寄り道東海道

    遍照院
  4. 古社寺風景

    金剛山寺(矢田寺)
  5. 歴史散歩

    難波宮跡
PAGE TOP