秋の初め頃から関東にある実家のお墓の今後について神経をすり減らす日々でしたが、お墓をまるごと関西に移すことでようやく良い形で収まりそうです。それはともかく、移転先の関西の墓地にたびたび足を運ぶうち、一つおもしろいことに気づきました。たくさん並んでいるお墓の多くに卒塔婆が立っていないのです。「この辺りは浄土真宗の家が多いので」とのことで、お墓には卒塔婆を立てるものと思っていたので初めは驚きました。実家は曹洞宗ですが、ここでは曹洞宗自体かなり少数派だったのです。曹洞宗の寺院は数としては全国的に多いものの、信者の数でいうと主に東北に集中しているようです。浄土真宗は日本全体で最も信者が多いなか、関西は特にその割合が多い土地ですから、まさにそれを墓地の景観で実感させられたことになります。いずれ高橋家のお墓が関西に改葬された際には、実家のお墓のところにだけ卒塔婆が立つので少し目立つかもしれないなと思いながら、仏教の諸派の考えについていかに無関心で無知であったかを今更ながら気づかされた思いがしています。自分にとって当たり前と思っていた卒塔婆がないということは、浄土真宗はそもそも祖先を追善供養するという発想がないということになります。つまり浄土真宗では亡くなった人はすぐに阿弥陀如来の元に行くことができるので、故人の冥福を祈る必要がないということで、お墓についても故人の魂が宿る場所ではないという考えがあることから、お墓がなくても問題にはならないとも言います。とはいえ移転予定の関西の墓地に浄土真宗のお墓が多くあるように、実際には浄土真宗でも心の拠り所としてお墓を造るのは一般的のようですし、遺骨を分骨し一部を本山に納める話はよく聞きます。ただその際墓石の正面に刻むのは○○家先祖代々ではなく、南無阿弥陀仏や倶会一処といった言葉ですから、お墓は故人を偲ぶ場所である以上に阿弥陀如来に救いを求め信仰を新たにする場所ということで、もちろん浄土真宗のすべての人がそういう思いでお墓に向き合っているわけではないでしょうが、そうした違いを意識するようになると、この数ヶ月私が実家のお墓のことで心に傷を負わされ精神的に疲弊したのは何だったのだろうかと思わなくもありません。何にせよ、現在のお墓問題というのは一筋縄ではいかないということを改めて感じています。
それはさておき、先日宇治方面に行く機会があり、宇治川右岸にある興聖寺を訪ねました。興聖寺は宋から帰国した道元が曹洞宗の寺院として日本で最初に開いた道場です。開創は天福元年(一二三三)、正式には仏徳山観音導利院興聖宝林禅寺といい、初めは伏見の深草にありました。道元は十三歳のとき比叡山で出家しますが、宋から帰国後比叡山から睨まれ、迫害を逃れようと深草に閑居します。そこは安養院という藤原氏ゆかりの大寺院跡で、閑居した三年後に同じ深草の地に興聖宝林禅寺を開いています。最初は仏殿のみだったところ、次第に伽藍が整えられていきましたが、比叡山からの弾圧が激しさを増したため波多野義重の招きで越前に下向すると、次第にお寺は廃れ、さらに応仁・文明の乱で伽藍が消失、寺は廃絶してしまいます。廃絶した寺を再興したのは、江戸時代に淀藩主となった永井尚政です。寛永十年(一六三三)淀城主となった尚政が領内の霊跡を見回った際、道元によって開かれた興聖寺が廃れていることを惜しみ、両親の菩提を弔うため萬安英種を中興開山に請じ、宇治七茗園の一つ朝日茶園のあった現在地にお寺を再興します。それが今回取り上げる宇治の興聖寺です。
曹洞宗の本山は福井の永平寺と神奈川県鶴見の総持寺ですが、深草の地で興聖寺は永平寺より十年ほど前に開かれていますので、興聖寺は日本における曹洞禅の始まりを伝えるお寺といえます。
宇治橋から宇治川に沿って上流に歩いていくと、十分ほどで興聖寺の表門が見えてきます。インバンドによる混雑を覚悟していましたが、意外なほど人が少なく、平等院とは川を挟んだ右岸ということも関係しているのか、静かにお参りできるのはありがたいことでした。
表門から山門まで緩やかな坂が続いています。琴坂と呼ばれますが、この時期は坂の両側から空を覆うように垂れる紅葉が見事です。ここは桜の時期も良いようです。
琴坂の突き当たりに見えてくるのは竜宮造りの山門。天保十五年(一八四四)の改築です。
お寺の背後に見えるのは山号にもなっている仏徳山、大吉山とも呼ばれます。仏徳山の南東続きには朝日山があります。仏徳山は標高百三十一メートル、朝日山は百二十四メートルの低山で、どちらも山頂には展望台があって宇治の風景を一望できることからハイキングにも人気の山ですが、朝日山山頂には、かつてそこが応神天皇の皇子・菟道稚郎子の墓とされていた時代に建てられた墓碑があります。(明治になり菟道稚郎子の墓所は朝日山から北西に一キロ半ほどの宇治川に近い丸山古墳が治定されています。)興聖寺の地は元は茶園のあった場所ですが、興聖寺のすぐ北に菟道稚郎子をお祀りする宇治神社や宇治上神社が鎮座しているように、お茶がもたらされるはるか昔は当地もまた菟道稚郎子に縁の深い土地だったのではないでしょうか。現在仏徳山と朝日山は豊かな椎の森になっており、道元の思いを伝えるお寺を見守るように包み込んでいます。
医薬門をくぐると、正面に法堂。
向かって右手には鐘楼と庫裏。
左手に僧堂と、左右対称に建物が配されています。
整然とした建物を一層引き立てているのが中庭です。
向かって右側の石組みは蓬莱式の枯山水と思われますが、石の配置に動きが感じられ、角度によっても見え方が異なることから見飽きることがありません。この石庭には心惹かれます。
右の庭にある十三重塔相輪も目を惹きます。興聖寺に来る途中、宇治川の中州にある塔の島に、浮島十三重塔が立っているのを目にしました。元は鎌倉時代に宇治橋の架け替えにより犠牲になった人たちのための供養塔として叡尊によって建てられたものですが、その後洪水などで倒壊し何度も再建されます。江戸時代の初めには永井尚政も修復に携わっていますが、それも洪水で流出、明治になって川の中から発掘されました。それを修復する際、使用されなかった笠石と相輪を組み合わせ、この庭に置かれたということのようです。
庫裏で受付を済ませ、大書院、法堂へと進みます。
上は法堂を庫裏の通路から見たところですが、堂内にはご本尊の釈迦牟尼仏を中心に、文殊菩薩、普賢菩薩などがお祀りされています。
法堂に入る前、方丈と大書院の間に造られた庭にも目が行きます。池の水は宇治川から引いたものだそうです。すぐ後ろに迫る山を取り込んだ借景庭園、紅葉が美しく映えています。
法堂のお参りの後は、山側に建つ天竺殿と開山堂へ。
天竺殿には中興に尽力した永井尚政公ら永井家一族がお祀りされています。この天竺殿のほか、山門、庫裏、法堂、開山堂、鐘楼などは尚政が伏見城の遺構を用いて整備したものです。
こちらの開山堂(老梅庵)には道元はじめ歴代住職がお祀りされています。老梅庵とも言うのは、道元が梅の花を好んだことに因むそうです。
最後修行僧たちの修行の場である僧堂を経て、最初に境内に足を踏み入れた医薬門に戻りますが、秋葉堂にも触れておきます。
秋葉堂は写真上の六角形のお堂で、秋葉三尺坊大権現をお祀りしていますが、その信仰は遠州の秋葉山に発します。東海道を歩いていたとき、ちょうど袋井宿や見付宿の辺りが秋葉山に近いことから、街道沿いではたびたび秋葉信仰を伝える灯籠やお堂などを目にしました。秋葉山までは行くことができませんでしたが、袋井からバスに乗り可睡斎にお参りしたのは良い思い出です。そのときは神仏分離の余波に思いを馳せるも、可睡斎の宗派を気に留めることがありませんでしたが、ここも曹洞宗でした。江戸時代、神仏習合の秋葉信仰を担っていたのは禰宜、山伏と曹洞宗の僧侶だったということをいま認識し、宇治の興聖寺と秋葉信仰が自分の中で結びつきました。
興聖寺は延享四年(一七四七)に永平寺の末寺となっています。
興聖寺というと、滋賀県高島市の朽木にも同名のお寺があります。朽木の興聖寺は、越前に向かう途中の道元が佐々木信綱の招きで朽木に立ち寄り、佐々木氏に寺の建立を勧めた際、地形が宇治に似ていることから寺の名を興聖寺としたと伝わります。江戸時代に消失し、朽木氏にゆかりの秀隣寺に移され本堂が再建されました。現在は興聖寺(旧秀隣寺)表記されます。秀隣寺は室町時代に京都の戦乱を避け朽木に身を寄せた足利義晴のために朽木氏が造営した岩神館跡に、江戸時代に建てられた寺院ですが、岩神館時代の庭が現在も残っています。豪快な石組を配したその庭は細川高国によると伝わり、中世武家庭園の傑作として国指定名勝になっています。以前近江各地を取材した際、この庭も訪れています。簡素でありながら力強く、また動きもあって、比良山系の麓の自然豊かな境内で時を忘れ佇んだことを思い出しますが、今回宇治の興聖寺を訪ね、初めに触れた石庭の雰囲気が朽木の興聖寺(旧秀隣寺)の庭にどこか通じているようが気がしてなりません。宇治の興聖寺の庭が誰の手によるものかはわかりませんが、どちらも道元にゆかりのお寺ですから、永井尚政が現在地に興聖寺を再興する際、何かしら参考にしたということがあっても不思議ではないのではと。あくまでも想像ですが、禅寺の雰囲気は石庭が作り出すところが大きいと感じています。

































