緑萌える季節になり、まもなく立夏です。寒さの記憶が残っているうちに、暦の上とはいえもう夏が顔を出すのですから時間の経過の早さに驚きます。いまだに冬ごもりのような動きの鈍い暮らしが続いていますが、そろそろ自分なりのリズムをつかんでいかないといけません。植物たちが冬の沈黙を破り花を咲かせ新緑を芽吹かせることで、内に秘めた生命力が目に見える形で現れるいまの時期は、どこを見ても躍動感にあふれています。静かな力強さがいまの私にはちょうど良い感じがします。新緑の力にあやかれたらと、洛西の浄住寺を訪ねました。
浄住寺は苔寺として知られる西芳寺や地蔵院に近く、阪急電車でもう一駅北に行くと松尾大社、さらに北が嵐山です。これらの社寺は西に連なる丘陵の裾に入り込むように鎮まっています。山を借景とするには距離が近すぎますが、その分山の自然との一体感が生まれます。地図を見ると山中にはいくつもの古墳が点在しているのがわかります。この辺りは桂川が狭隘な保津峡を経て平地へと流れ込む重要な場所、古代土木技術に長けた秦氏が流域に移住し、一帯を開拓したことは有名です。松尾大社や西芳寺の西側の山中に残された多くの古墳は、この辺りを本拠地とした秦氏に関係する人たちのものかもしれません。その中に秦氏松尾社東家古墳群というのがあります。秦氏と付くからには秦氏の古墳なのだと思いますが、詳しいことはわかりません。一帯には桜谷共有墓地があり、墓地としての機能は現在まで続いています。興味深いことに、そこに隣接した山中に山田桜谷古墳群というのがあり、最近の調査で前方後円墳も含まれていることがわかったそうです。現在は国有林の中ですが、古墳時代には古墳の北側から嵯峨野や太秦を一望できたとのことなので、自ずと秦氏の存在が脳裏に浮かんできます。
今回訪ねた浄住寺はこの古墳を背にした丘陵の麓にあります。現在は黄檗宗の寺院として静かに時を刻んでいますが、ここに至るまでには紆余曲折あったようです。
浄住寺は平安時代の弘仁元年(八一〇)嵯峨天皇の勅願寺として慈覚大師円仁によって開かれたと伝わります。ここから北に五キロほどのところにある大覚寺は嵯峨天皇の離宮の地に創建されたお寺ですが、そこに離宮を造るほど嵯峨天皇は嵯峨野の風景をとても気に入られていたようです。もちろんその辺りも秦氏に縁の土地です。嵯峨天皇の勅願寺として浄住寺が当地に開かれることになったのも、もしかすると秦氏の存在が関係していたかもしれません。創建当時は常住寺と記される天台宗のお寺で、嵯峨天皇の仏舎利安置所になったようですがその後荒廃、藤原北家の流れを汲む葉室家の別業になりました。鎌倉時代の弘長年間(一二六一~一二六三)に葉室定嗣が出家し、別業を浄住寺と改め、奈良西大寺の叡尊に請うて中興します。叡尊は真言律宗の僧ですから、浄住寺も戒律修行の道場として機能します。定嗣亡き後も葉室家の菩提寺として繁栄、将軍家の勅願所にもなり多くの堂宇を擁する大寺院になりましたが、南北朝時代の六波羅攻めで戦火を被り堂宇を焼失、荒廃しました。
その後江戸時代になると黄檗宗の鉄牛道機(一六二八~一七〇〇)を招き黄檗宗の寺院として再興します。元禄二年(一六八九)と伝わります。鉄牛道機は長崎に滞在していた隠元隆琦(一五九二~一六七三)の元に参禅し、隠元と共に萬福寺の創建に力を尽くした禅僧で、浄住寺再興後は小田原の紹太寺や江戸向島の弘福寺を開いています。
現在の浄住寺には限られた建物しか残されていませんが、本堂(旧開山堂、禅堂)は江戸時代に再興されたときのもの、方丈は仙台藩主伊達綱村が寄進した武家屋敷だそうです。早速境内へ。
輝くような青紅葉の参道。通常非公開ということもありますが、洛西の山の麓でひっそりと守られてきた感じがします。
石段の上に見えてくるのが本堂(旧開山堂、禅堂)です。この建物の後ろには位牌堂と寿塔があり、山門からこれらの建物まで、西向きの一直線に配されています。
扁額に書かれた「祝國」の文字は、鉄牛道機の筆によります。
ご本尊は釈迦牟尼仏座像。中国風の衣をまとっています。八年ほど前に修復されたため、金がまぶしいほどです。
この建物は禅堂も兼ねており、左右は座禅を組むために板敷きになっていますが、全体の床は土間です。日本のお寺の本堂では見られません。僧侶はお釈迦様の前に立って読経するそうです。日本のお寺との違いということで言うと、お祈りに太鼓やお椀型の鉦を用いるということもあげられます。
お釈迦様がお祀りされている祭壇の左右後方にも様々な仏像がお祀りされています。
後方の向かって左には、中央に当山古伽藍菩薩、その左に達磨大師、右には出山の釈迦像、向かって右の中央には全身が朱色の伽藍菩薩、その左に律宗時代の仏像、右には江戸時代に浄住寺を黄檗宗の寺として再興することに尽力したとされる葉室頼孝卿像といった具合ですが、伽藍菩薩も黄檗宗特有の仏像です。華光菩薩とも呼ばれ、文官風の衣をまとった姿をしています。
本堂(旧開山堂、禅堂)の奥には位牌堂、さらに奥には寿塔と呼ばれるお堂が続いています。寿塔は生前に建てられた墓(または塔婆)のことですが、浄住寺の寿塔内部には石窟があり、そこに鉄牛道機のお骨とお釈迦様の歯が納められているとのこと。お釈迦様の歯は伝説でしょうが、それによって信仰を集めてきたということもありそうです。
写真下は位牌堂で、その奥が寿塔です。寿塔は非公開ですが、ガイドの方が以前内部を見る機会があったそうで、石窟の上に巨石があったと教えてくださいました。多くの古墳を擁する背後の山と一体になったお堂に思え、この地に関わりを持った人たちの歴史を見るようで感慨深いものがあります。
本堂を後に北側の方丈へ。
回廊には時を告げるための魚の形をした開梛《かいぱん》が下がっています。これも黄檗宗のお寺ならではです。笊には裏の竹林で朝採れたばかりのタケノコが。一ついただいて帰りましたが、大変美味しいタケノコでした。
方丈は先に触れたように、仙台藩の第四代藩主伊達綱村(一六五九~一七一九)が幼少期を過ごした武家屋敷の一部だったもので、元禄二年に黄檗宗の寺として再興された際に寄進されたそうです。伊達綱村は学問や芸術にも造詣が深く、儒教を学び学者を招いて藩史の編纂に当たったり、深い信仰心から社寺の造営に尽力したりするなど、文化的なことも数多く手がけています。仏教への帰依はやがて黄檗宗への傾倒に向かい、元禄十年(一六九七)には仙台に鉄牛道機を招き大年寺を開いています。鉄牛道機との縁を結んだのは、綱村の舅にあたる稲葉正則だったようです。正則は万治元年(一六五八)に隠元に出会い以後黄檗宗に傾倒していますので、綱村が正則から受けた影響は小さくはなかったと思われます。
伊達綱村の父綱宗が放蕩三昧だったために強制隠居させられたことから、綱村はわずか二歳で家督を継ぐことになりますが、実際には後見人である叔父の伊達宗勝が実権を握ります。宗勝は家中を掌握すべく集権化を強化したことから、一門の伊達宗重らが反発、お家騒動に発展します。寛文十一年(一六七一)には幕府も巻き込んだ寛文事件(伊達騒動)が起こり、宗勝は改易に処されるも、綱村に関しては幼少だったためにお咎めなしとなりました。そうした綱村幼少期の内紛をうかがわせる痕跡が床の間の右に見える武者隠しの丸い穴です。命が狙われるようなことになった際、ここから逃れることができるようにと造られたものです。この方丈は、伊達綱村と黄檗宗との繋がりを伝える貴重な遺構です。
黄檗宗繋がりで、思いもよらず伊達家の歴史がここに現れました。
方丈から見える庭園は西側の山の傾斜を利用した池泉回遊式で、どちらかというと狭い庭園ですが、あちらこちらに配された石と山の傾斜が力強さを生んでいるように見えます。右奥にのぞいている屋根が、鉄牛道機の舎利が安置されている寿塔です。
方丈には今回初めて公開されたという鑑真和上飛行鉢が展示されていました。撮影禁止のため写真はありませんが、直径三十センチほどの鉄の鉢です。修行僧が霊力で鉢を自由自在に飛ばし施しを得るというのが飛鉢の法で、その法を行ったとして知られるのはインドから六、七世紀に日本に渡ったと伝わる播磨の法道仙人。中国の高僧には出来て当たり前の法だったようです。鑑真は日本における律宗の開祖なので、鎌倉時代に叡尊によって中興されたときここに伝わったものかもしれません。
飛行鉢も興味深い寺宝ですが、それ以上に惹きつけられたのはこちらの観音像です。木根もっこん観音といい、隠元隆琦が滞在していた長崎に鉄牛道機が拝謁に赴いた際、偶然見つけた観音像とのことです。鉄牛道機は幼い頃から観音菩薩を信仰しており、いつか自分の観音像を手に入れたいと思っていたときに出会ったのがこの木根観音像です。木の瘤から掘り出したのでしょう、自然の中から顕れた姿は宗教の別なく神々しく慈愛に満ちています。観音像と言っていますが、聖母マリア像にも思えます。
帰り際、珍しい竹を目にしました。亀甲竹といって節と節の間が亀の甲羅のような形をした竹です。土壌や気候が合わないと普通の竹になってしまうとのことですので、ここは亀甲竹に適した土地のようです。
振り返ると、青葉の下で苔も春の息づかいをしています。静かな境内は光もそよぎも柔らかなこの季節が似合っていました。






























