室町時代に不断念仏道場として再興した真盛上人の存在が色濃い西教寺ですが、その歴史は古く、聖徳太子が高句麗の僧のために創建したことに始まり、天智天皇より西教寺の名を賜ったと伝わります。けれどもそれは伝説の域を出ないようで、真盛の弟子真生が室町時代に記した『真盛上人往生伝記』に「慈恵大師経始の浄場、恵心先徳建立の伽藍にして、道俗男女参詣の砌なり」とあるのが史実に近いとされています。慈恵大師は良源、恵心先徳は源信、ともに平安時代横川を念仏の聖地とした高僧です。真盛が完成させた念仏道場の始まりは、平安時代の良源や源信に遡る可能性があるとすると、横川から飯室谷に下る道筋に西教寺があるのもそうした信仰の流れと無関係ではないのかもしれません。
鎌倉時代末に西教寺は荒廃しますが、円頓戒(天台宗独自の戒で円満な人格を作り悟りを得るための道徳)を復興させた円観(字は恵鎮)が後醍醐天皇の勅命を受けて再興します。ちなみに円観は西教寺に入る前、同じく後醍醐天皇の勅命により京都の法勝寺に入り再興に尽力しています。その縁で、応仁の乱により法勝寺が焼失した際、仏像や仏具だけでなく寺籍も西教寺に引き継がれました。西教寺の正式な寺名が兼法勝西教寺なのはそのためです。法勝寺は京都の岡崎にあった寺で、八角形の九重塔が聳える大寺院でした。現在動物園がある辺りに巨大な塔がそびえていたようですが、いまや幻の寺です。時代も経緯も異なるものの、法勝寺や坂本城といったその時代重要な意味を持った歴史的遺構が西教寺に集まっているのは興味深いことです。
このように鎌倉時代の終わりに円観によって再興された西教寺がその後また衰退し、そこに真盛が入ったということになります。真盛の時代については(一)で触れましたので、その後のことに話を進めますと、真盛亡き後も上人の教えは固く守り継がれてきましたが、信長の時代になると状況は一変します。
元亀二年(一五七一)信長による比叡山焼き討ちの影響が西教寺にも及び、堂塔伽藍はもちろん仏像などすべてが灰燼に帰してしまいます。比叡山焼き討ちについては、強大な経済力を持つ武装集団だった比叡山に武装を解除させるのにはやむを得なかったという面もあるようですが、その残虐さに言葉を失います。焼き討ちの炎は西教寺にまで飛び移り、栄枯盛衰を繰り返しながらもこれまで多くの人たちよって守られてきたものがすべてなくなってしまったのですからその衝撃はあまりにも大きく、西教寺の時の住職は翌年亡くなってしまいます。けれども三年後には仮本堂が再建され、近江の甲賀にあるお寺からご本尊として阿弥陀如来像が迎えられるなど、徐々に復興していきました。
それを手助けしたのが明智光秀でした。
比叡山焼き討ちの実行部隊として功をなした光秀は、信長から戦後処理を任され、近江国滋賀郡の坂本に坂本城を築きます。坂本城は琵琶湖に面した水城で、琵琶湖水運と比叡山の監視にはちょうどよい場所にありますが、自らの手で大打撃を与えた町に身を置くことになった心中はいかにと思います。比叡山焼き討ちは信長の家臣の立場として戦略上やむを得なかったけれど、そこに根付いていた信仰の歴史を破壊してしまったことに胸を痛めていたのではないでしょうか。坂本の町の復興を手がける光秀は、早速西教寺の檀徒になり、坂本城の陣屋を寄進し本坊として再建するなど西教寺の復興にも力を尽くします。そのおかげもあって天正二年(一五七四)には先に触れたように仮本堂が再建され、甲賀のお寺からご本尊を迎え入れ、次第に寺としての形が整っていきました。
冒頭の写真と下は現在の本堂、元文四年(一七三九)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
この本堂には甲賀のお寺から迎えられたと伝わるご本尊の阿弥陀如来像がお祀りされています。丈六のたっぷりしたご本尊は平安時代の定朝様式の作風で、光背は造像当初のものがかなりよく残っているそうです。こちらも国の重要文化財に指定されています。
西教寺の再興を手助けすることは、光秀にとってせめてもの罪滅ぼしだったのかもしれませんが、光秀は八年後の天正十年(一五八二)本能寺の変で信長を討った後、山崎における秀吉との戦いで形勢不利になり、坂本城に戻る途中で命を落とし、光秀の死後残された明智一族も坂本城で自害します。西教寺はそうした光秀と一族、光秀の妻熙子の実家妻木家の供養塔を境内に造り菩提を弔い続けています。光秀が坂本に関わったのは十年ほどと決して長くはありませんし、光秀と一族には謀反人としてのイメージがつきまとっていたはずです。そうした中でも西教寺が彼らを手厚く葬ったのは、お寺としての慈悲に加え、生前の光秀の思いやりや真の信仰心がお寺の記憶に刻まれていたからではないかと…。比叡山焼き討ちの二年後にあたる元亀四年(一五七三)信長が足利義昭と対立し、石山城・今堅田城の戦いが起こった際、光秀も参戦し光秀の家臣が大勢命を落としますが、討ち死にした家臣たちのために光秀は西教寺に供養米を寄進しており、そのときの寄進状が残っています。そこには中間という武士の中でも身分の低い人の名もあり、光秀がそうした身分に分け隔てなく弔う思いやりのあるだったことがうかがい知れます。また光秀は天正四年(一五七六)に若くして亡くなった妻の熙子の墓も西教寺に造っています。光秀が西教寺に心を寄せていたことがそうしたことからも感じられ、先のようなことを思いました。
山に向かって石段を上がると居並ぶ萬日供養塔が目に飛び込み、その迫力に押されますが、そこからさらに奥に進むと突き当たりの塀の手前に石仏や石塔などが林立していて胸に迫るものがあります。
中央の石仏は二十五体の聖衆来迎阿弥陀如来像で、そう古くは見えません。説明を見ると元あった像が風化してきたことから、平成十六年に新しく造られたものとのことです。新しさが目についてしまいますが、この後の変化は時間に任せるしかありません。琵琶や琴、笛などの楽器を手にし音楽を奏で、極楽浄土の世界に誘う菩薩の姿が刻まれています。
元の像は天正十二年(一五八四)に愛娘を亡くした近江国の富田という人が娘の往生を願って造立したと伝わります。その像を見た林屋辰三郎氏は「石像美術の稀品」と、白洲正子氏は「仏たちの上にもあどけない表情があらわれ、見る人々の涙をさそう」と書かれているように、一般庶民の極楽浄土への思いの丈が伝わる秀作だったと思われます。
この二十五菩薩を中心に据え、向かって右に明智光秀とその一族のお墓があります。
また二十五菩薩の向かって左の隅にひっそりと立つのが、光秀の妻熙子の墓です。こちらは先ほども触れたように光秀の手によって造られたものです。石垣の隅の、どちらかというと目だない所で、言われなければ気づかずに通り過ぎてしまったかもしれません。境内の片隅に造ったところに、光秀の気持ちが表れているようです。順番としては熙子の墓が最も古く、その次に二十五菩薩、最後に光秀と一族の墓となります。光秀が妻を弔った場所がその後広がりを見せ、阿弥陀如来が救いの手を差し伸べる空間になっています。
西教寺の歴史を概観しながら、比叡山焼き討ち後の復興を手助けした明智光秀のことに紙面を割きました。総門、そしてこれらの墓所と、明智の存在は今も感じられますが、やはり西教寺において最も存在感を放っているのは宗祖真盛です。明智一族の墓の右手に池があり、その奥に急な石段が見えます。鬱蒼とした木々に覆われた石段の先、境内で一番高いその場所に真盛の本廟があるとのことなので、そちらへ向かいました。
長い石段を上がりきると、狭い空間の中央に瓦葺き、宝形造りの本廟が建っています。天保十三年(一八四三)築。小ぶりながら風格ある造りで、周囲の深閑な雰囲気によく合っています。
本廟を囲むように、歴代貫主の供養塔が並び、ただならぬ気配に包まれています。
最近実家のお墓のこともあり、お墓について考える時間が増えています。墓じまいが増えている昨今、墓を持たない人も多く、海洋散骨、樹木葬など、存在を残さない方法も多く見られます。死後には現代に至っても何も明らかになっていません。遺骨をどうするかということは、その人その人の死生観などによって決めればいいことで、私自身もまだ決めかねていますが、こういうところを訪ねると、たとえ実際そこに遺骨がなかったとしても、墓を通じその人がこの世に存在していた記憶が呼び起こされ、生者の心の中に一瞬死者が息を吹き返し、命の灯りが点るように感じます。不勉強な私は西教寺に来るまで真盛のことをよく知りませんでした。宗祖大師殿や萬日供養塔を通じ真盛の存在は十分に感じられますが、やはり最も強く真盛の存在を印象づけたのがこの本廟でした。ここに詣でたことで、真盛についてより知りたいという気持ちが強まっています。
気分を変えて本堂奥にある本坊と客殿へ。
大本坊は光秀が坂本城の陣屋を寄進したものが元になっており、こちらの建物は昭和三十三年に改築されています。昭和の木造建造物としては滋賀県最大とのこと。
この大本坊から回廊を通じ本堂と客殿を拝観するようになっています。本堂は先ほど外からの様子に触れたので、客殿の方へ。
秀吉の死後、伏見城にあった建物を、秀吉の家臣大谷吉継の母と、別の家臣の妻が西教寺の檀越となって慶長三年(一五九八)に寄進したと伝わるのがこちらの客殿です。南北に長い造りで、東側には五つの部屋が並び、各部屋には狩野派の絵師による襖絵や障壁画が残されています。室内には立ち入ることができずガラス越しの拝観になり、部屋が薄暗くてよく見えませんでしたが、鶴が大空を飛ぶ絵や、猿が老木などで遊ぶ水墨画、琴棋書画図などが描かれているようです。客殿を外廊下から西側に回り込むと、帝鑑の間という部屋があります。そこは天下人のための上座の間で、襖には帝鑑図が描かれています。こちらは光の加減で少し見ることができました。ここは伏見城の時代、秀吉のための部屋だったのでしょう。
客殿の西には山の斜面を取り入れた池泉回遊式の庭が拡がっています。江戸時代に小堀遠州によって造られたと伝わる明るく力強い庭です。明智一族の墓や真盛上人の本廟などを巡ってきた後だけに、この庭の明るさが目にしみます。庭の奥にある建物は観瀾亭。明治に建てられたものですが、庭に一層の明るさをもたらしています。
背後の山の斜面に、小さな祠が見えます。日吉神社、伏見稲荷神社、愛宕神社の祠とのことで、客殿や庭から拝することができそうですが、これらの小さな祠は西教寺を上から見守っているようにも見えます。そういえばこの斜面の向かって左奥には真盛上人の本廟があります。こちらは庭からは見えませんが、真盛上人もまた比叡の山の麓から、西教寺を見守っているのだと、ここに来て気づきました。本廟を包みこむ鬱蒼とした木立は、ここから見ると明るい庭の風景の一部に溶け込み、先ほど感じたただならぬ気配をみじんも感じさせません。
真盛の存在や信仰心が比叡の麓の地形と一体になっているようです。
































